いい茄子がなかった。頭の中では麻婆茄子が湯気をたてていたのに……。
「そのかわり」というわけではないのだけれどよく熟れたトマトが安い。飛行機は中国から一路イタリアへと針路を変える。いつもならここでシアントロを買うのだけれどどれもがひなびてしまっている。そういったわけで生まれて初めてイタリアンパセリを買った。
シアントロが大好きだ。これさえあればどんな料理もうまくなる。僕にとってはまさに魔法のハーブ。あの香りには僕を惑わせてしまう不思議ななにかが含まれている。それをイタリアンパセリに感じることはない。それでも針路を急に変えたことは成功だった。ニンニクとイタリアンパセリをたっぷりと使ったトマトのパスタはうまかった。たまにはこんなハプニングも悪くない。
いつの頃からだろう?パセリを食べるようになっていた。そう、よく料理の飾りとして添えられる「あの」パセリ。以前ほどお目にかからなくなってしまったあのパセリ。決して好きではないのに、どちらかと言うと苦手な部類に入るあの苦味。それでも今では食べてしまうあのパセリ。一体いつから、どういった心境の変化で食べるようになったのだろう?好きでもないのに。
「皿の上のものは絶対に残してはいけない」
そんな育て方をされてきたわけだけれど、いつもにらみをきかせていた父もなぜかパセリに関しては何も言わなかった。きっと彼も「うまくない」と思っていたのだろう。
たしかに料理だけを盛られた皿は時として味気なく映る。そこに小さな緑色のかたまりが添えられているだけで見栄えがし、箸もまた進む。たとえそれが一片のパセリでも。もちろん食用価値という点に立てば、小さいながらもサラダなどが盛られていたほうがいい。もちろん見栄えだって、お皿の隙間を埋めるという意味でもこちらに軍配が上がる。まず、ウマイ。そんなせいだろうか、最近パセリとご無沙汰しているような気がする。スーパーの棚でイタリアンパセリを選んでいる時、「あの」パセリは隣にいた。そんなパセリの視線を感じながら僕はなんだかそわそわしていた。口の中を満たしていたのはあの独特の苦味。それでもあのパセリは買わない。これからも買うことはないだろう。
苦くて、うまくなくて、それなのになつかしいパセリ。この感情は何かに似ているのだけれど思い出すことができない。
食べ終わったお子様ランチの皿ではいつも爪楊枝にさされた日の丸とパセリが横たわっていた。
決して食べられることのないパセリ。あのパセリはどこから来て、そしてどこへ行ってしまったのだろう?食べ物でありながらそうでなかったパセリ。まるで小さな盆栽のような姿をしたパセリ。
あのパセリ。それには料理をする人や母親たちの思いが込められていたのかもしれない。
「おいしく食べてね」と。
決して食べられることのない小さなパセリにはそんな思いが満ちていたのかもしれない。
前回の帰国では食べる機会のなかったコンビニ弁当。日本人の胃袋の大きな部分を占めるそれにパセリは入っているのだろうか?そして今でも最後まで弁当箱の底に横たわって笑っているのだろうか?
ポツリと残されたパセリの姿がなぜか懐かしい。残されていてもなぜかその姿が悲しげに見えることはない。
パセリは食べてはいけない食べ物なのかもしれない。
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