街で見かける新聞の一面はどれもオリンピックのカラー写真が踊っている。インターネットをサーフしても、目に付く文字は「耐震偽装」や「ライブドア」ではなく「オリンピック」の方が圧倒的に多い。<祭典>という言葉があるくらいだからこれでいいのかもしれないけれど、少しだけ?
テレビはあまり観ない。スポーツ観戦はしない。日本に住んでいるわけではなく、かといってアメリカ人でもない。そんな僕ですらこの四年に一度のお祭り騒ぎは気になる。世界中が、参加80カ国の人々がにわか愛国主義者となってしまうのもそう悪いこととも思えない。お祭りと思えば。もちろんお祭りだからといって忘れてはいけないことはあるわけだけれど。宿題はやらなきゃならない。
僕個人的な考えではメダルなんかどうだっていい。競技者、勝負師としてのアスリートたちはやはりメダルを手にしたいだろうし「金でなければ意味がない」とまで言いきる人すらいる。また、アスリートその人の素行・モラルなどまで問う人もいる。そんなことどうだっていい。オリンピックの結果は数多くある結果のうちのたったひとつに過ぎない。成績も大切かもしれない、そこに精神論もあるのかもしれない、リンクにツバを吐くような奴にはたしかに嫌悪感を持ってしまう。それでもそこにオリンピックがある。ただそれだけで僕にはいい。それまで頑張ってきた彼らを成績だけで判定することなんかできはしないし、モラルのない奴はただそれまでのこと。必ずしも健全な精神に健全な肉体が宿るわけではない、と気付かせてくれただけでもめっけものだ。
オリンピックは四年に一度やってくる。
中学校の入学式以来ずっと仲のいい友達がいる。彼の誕生日は四月二日。
「アイツほんとは四月バカやぞ……」とずっと言われている。きっと親が気を使ったんだろう。
大学時代の友達の誕生日は二月二十九日だった。
「おれの誕生日は(夏季)オリンピックと一緒にやってくる」、と彼は言っていた。親が正直者だったのだろう。今でもオリンピックが来ると彼のことを思い出す。
オリンピックは四年に一度やってくる。
「なんで四年に一度なんだろう?」
そんな疑問が芽生えて少しだけ調べてみた。
なんでも「古代ギリシャ時代に使っていた太陰暦に由来する」らしい。その他細かい説明を読んだけれど、なんとなくわかったような、わからないような。とりあえずそこで自分の中での手打ち式をした。そういういわれがあるということだけで今は満足をしている。昔の習慣が今ではオリンピックのインターバルとして定着しているらしい。
そんなことを調べているうちにひとつの気になる記事にぶつかる。そこには、
「オリンピックを目指すトップ・アスリートには四年周期の体内時計が組み込まれていることが多い」とある。四年に一度だけやってくる「その時」を目指して身体中の全てが動いている「らしい」と。多い人ではその時計が四周も、五周も回っているわけだ。生半可な肉体・精神ではどうにかなってしまいそうだ。そういった体内時計を持つということだけでも常人にまねできることではない。しかも常にネジを巻き続けるなんて……。
うるう年。オリンピック。四年。
実はオリンピックの画面に目をやりながら、僕の頭には全然別の光景が映し出されていた。
最初の短いフィルムは八年前のもの。
誰にも邪魔されることなくドラッグを楽しむために取ったイーストビレッジにある安ホテルの一室。背中を向けた僕の向こうにあるテレビの中には長野オリンピックの開会式が映し出されている。
次のフィルムは少し長かった。
コリアタウンにあるサウナの休憩室。ここでも僕は後姿で、その向こうにある大きな画面にはソルトレイクシティー・オリンピックのボブスレー競技が映し出されている。
ちょうど四年という歳月が流れた。
四年前の今頃、僕は路上で『ニューヨーク底辺物語』を書きはじめ、ある晴れた土曜の午後、その出版に向けて奔走してくれていた出版社の社長さんに連れられて約六年ぶりに湯船に身を沈めた。あの気持ちいい熱気、痛いくらいにずっと打たれ続けたシャワーの感覚を今でもはっきりと覚えている。そしてテレビの画面を眺めながらボンヤリとながらも久しぶりに日本、日の丸を意識していた遅い午後。
その数週間後に僕は路上から消えた。
この先も決して忘れることのないであろう冬季オリンピック。
僕にとっては一年という周期よりも四年という周期の方が物事を振り返るには適しているように思う。もしかしたら四年に一度開かれるオリンピックという行事は古人達のそういった知恵の結果であるのかもしれない。年号なんかはすぐに忘れてしまうけれど、
「あのオリンピックのあった頃……」、「あのオリンピックの翌年……」
そうやって思い出すことは多い。それが一年単位となってしまうとどうしても記憶があやしくなってしまう。四年で一回りするくらいがちょうどいい。小さな、小さなことまでがオリンピックという針の目盛りと共によみがえってくる。
アスリートの育成費用の高騰、巨大化しすぎた商業主義などと色々取り沙汰されている今のオリンピック。それも時計のひとこまとしてとらえればそう悪いものでもない。どうやら僕の中でも「オリンピック」という名の体内時計が回っているみたいだ。
さて、次のオリンピックで僕は何を見、何を感じ、何を思い出しているのだろう?
二月二十九日を誕生日に持つのもなかなかいいものなのかもしれない。
ここまで書いて投稿をしようとしたところ荒川静香選手の金メダルのニュースが入ってきた。
おめでとう。一所懸命に巻いてきたネジ最高のタイミングで鳴ったんだね。