怒るということは比較的たやすい。
とは言ってもその背景には悲しみがあったり、驚きがあったり。そう単純なものではないのだけれど。
今でも浮かんでくるのは人々の怒りの表情とその声。今回のストライキで二日目以降に流された映像たち。
まったく迷惑な事件ではあった。三日間続いたニューヨーク市の地下鉄・市バスの労組による全面ストライキ。職場まで、学校までの長い道のりを歩きながら、渋滞に巻き込まれた車の中でクラクションを鳴らしながらみんなは何を考えていたのだろう?
多くの人々がこのストライキで文字通りその足を奪われてしまった。地下鉄・バスという名前の足。ほとんどの人にとってそれは生えていて当然なもの=足だった。こういう僕もその一人であることに間違いはない。失くしてしまった足にしばし唖然となった後、ある者は自分に二本の足があることに気付き、またある者は別の足を探しそれに頼る。足、それは動物の生活になくてはならないものだから。足を失った時、人は車椅子や松葉杖の生活を強いられる。そんなことを考えた人もきっといたことだろう。さてその中に足だけではなく、その地盤のことについて考えた人はどの程度いたのだろうか?
なにかの事件・事故が起こる。そして、たとえそれがどんな場所であろうとある程度状況が落ち着き、まわりを見渡すことの出来る余裕が生まれるとその原因となったものの糾弾・糾明が始まる。責任の所在を明確にすることだけにやっきになってしまう。時としてそれは報復というものに発展していく。自分にはあまりかかわりがなく、なぜかしら自分に正義があると思ってしまう。
「目の前に落ちてきた石。誰が落としたんだ?」
とりあえず落としたやつを探し、なじる。ほとんどの場合そこで満足をしてしまいその背後にあるものまで考えることはない。しかし吊るし上げでは何も解決することはなく、似たようなことが形を変えてまたやってくる。凶悪な殺人はまたどこかで起こり、再び飛行機がビルにつっこんで行くことがあってもあまり不思議はない。そして戦争は終わることなく繰り返していく。
偶然なのだけれどここしばらく割り箸を見ながらいろいろなことを考えていた。割り箸という言葉からまず頭に浮かぶこと。それは多くの人と同じで
「無駄」
たしかにそれは森林破壊につながり、この割り箸という木(竹)材は多くの場合資源として再利用されることなく消えていってしまう。まったくの無駄だ。使わない方がいいのかもしれない。多くの人がどこかでそんなことを考えている。
割り箸というものに興味を持ち少しだけ調べてみた。
地球環境について多くの人が真剣に考え出した今、この世界から割り箸を消滅させてしまうことはそう難しいことではないかもしれない。実際、そういった運動をしている人もいる。しかし、こういった見方だってある。割り箸の中には余剰材や、間伐された中途半端な木を使って作られている物もある。そう考えてみると実は割り箸を作ることがリサイクルだったりする。またその製造・流通に関わる人達にとってそれは死活問題でもある。使わなくなったからといって中国での洪水がすぐになくなることはない。植林された木が育つにはまだ数十年がかかり、その予算を誰が出すかという問題もある。洗い箸がいいかと言えば、一概にそうとは言えずいずれは洗剤による水質汚染も考えられる。
目の前に転がる石を蹴飛ばして進むのはたやすい。やらなくてはならないこともあるかもしれない。しかしもっと大切なのはそれだけではなく、そこで何を学ぶか?ということだと思う。学ばなくてもいい。足・足元だけではなくそれの乗っている基盤というものを考えてみるだけで少しは違ったものが見えてくるはず。
「結局戦争はなくならないだろう」
イラク戦争は今でも続いている。厭戦気分は少しずつだが確実に上昇し、反戦運動の環も大きくなったように感じる。そしてストがやってきた。
「何も変わっちゃいない」
人々の怒る顔を見ながらそんなことを考えていた。
二〇〇一年からのたったの四年あまりでそんなことを期待している僕の方が甘いのかもしれない。それでもあの事件は人々の中に大きな傷跡を残し、考えることをさせてくれたのではなかったのだろうか?
二つ前の夏、真っ暗な夜が訪れた。結局それは一夜限りのお祭りで終わってしまった。
しかし今回のスト。それは多くの人が当事者であり同時に被害者でもあるという意味で最近ではまれに見るニューヨークの大事件だったはずだ。ある意味(ほとんどの人にとっては)直接的な生命の危機を伴わないテロに似た面もある。その時の人々のとった行動は、そこに生まれた感情は?
これからが戦争なのだろう。人々はテレビのこちら側で核兵器の所在や、首謀者の処分の映像を見ながらビールを飲む。もう目の前の石は蹴飛ばしてしまった。
もう石はない。
それでいいのかな?
「歩くことによって何を目にしたか?何を考えたか?」
他人から、自分からもう少しそういったところにスポットを当てるべきだろう。このストはそういった無言のメッセージをたくさん含んでいる出来事だと思う。
たとえば歩くことの爽快さ、都市生活というものの基盤の惰弱さ、人と人とのつながり、本当に大切なものは……。そんなことを考えたのは僕だけではないと思う。そんな中からひとつだけでも先につなげていくことが出来ればそれでいい。
この一見マイナスにしか見えないもの。それをいかに少しだけでもプラスに換えていくか。それがこの小さなテロに、戦争に巻き込まれた人々がやらなければならないことのように思う。少なくともこう思うことだけでもこのストをプラスにすることは出来る。
このストの意味を考える。
それは起こした側にもやはり求められるもの。もちろんそれを感じている人はたくさんいるだろう。
「クリスマス前のこのストによってプレゼントをもらえなくなってしまった子供がいるかもしれない」
怒ることはたやすい感情表現ではあるけれど、それはいつも双方に気まずいものを残していく。
怒るだけではなくエネルギーをあと少しだけ他に向けてみてはどうだろう?
引き締まった冬の空気の中を歩くことは気持ちよく、楽しい事でもある。
<憎しみの構図>というものもそこではひびが入り音をたてて砕け散る。
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『ボヤキTV』というのができました。
ニューヨークの日系誌に三年ほど連載している僕のコラム『犬のボヤキ』とこのブログをあわせたようなコンセプトで作っていただいています。ニューヨークの街角でブツブツと言っている動く僕を見ることができます。
正直言って「観て欲しい」と「観ない方がいいんじゃない」という気持ちが半々です。
まぁ、これからもボヤいていきます。直らないでしょう。
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