まだ朝の八時だというのに変な旅をしていた。目を閉じてみると様々な情景が浮かんで、そして消え去っていく。中途半端な空腹状態のおなかにコーヒーを流し込みながらもう晩飯の事を考えはじめていた。
「チクワブが食べたい」
頭の中にそんな言葉が飛び込んできた。東京出身のあいつ。東京ではおでんにチクワブはあたりまえだという。僕はおでんが大好きだ。
九州にいた頃、チクワブの入ったおでんにめぐり会ったことはなかった。そもそもチクワブが「どういうものであるのか」。そんなことさえ知らなかった。ただ、その言葉だけはどこかで聞いたことがあるような気がする。それがいつ、どういう状況でかはまったく思い出せない。
チクワブ入りのおでんをはじめて食べたのはニューヨークに来てからのこと。日本食のレストランも今ほどはあふれかえっておらず、それなりの値段を払って日本食のようなものを食べるのがぜいたくだった頃。そしておでん盛り合わせを食べた時に出会った。感想は「なんとも思わなかった」、おでんだねとしてなければなくてかまわない。そういった存在。その位置は今でも変わっていない。
今、日本の食材を扱うスーパーへ行くと、おでんのたねの詰め合わせがパックに入れられて売られている。日本でもやはりそうなのだろう。たしかに、小さな家族ならそれひとつに足りないものを少し買い足すだけで十分だろう。そう、日本ではおでんの缶詰がひそかな脚光を浴びていると言う。
詰め合わせのおでんのたねが出回るのとともに、チクワブは東京だけのものではなくなっていくのかもしれない。地方特有の物が消えていく可能性もある。鹿児島あたりの男がチクワブを「大好き」、と言う時代が来ても何の不思議もない。チクワブは普通の存在になってしまうんだろうか?
スーパーでの買物。パック入りのおでんのたねを買うことで地方色が消えて平均化が進む。まぁ、食べ物とは僕達が考え、常に声高に論じるほど実際には大切なものではないということの現われなのかもしれない。
おでんパックという名の情報。
情報は素晴らしさとおろかさの両刃の刃。しかしそれで個性が消えてしまうわけではない。たしかに昔からある<伝統>のようなものは薄れていくかもしれないけれど、そこにまた新しいものが入ってきて新しい伝統になる。伝統は静止しているものではなく常に変わり続けるもの。時代を反映しながらも。それはまるで<数十年もの>のおでんのだし汁のようでもある。古くからあるものに少しずつ新しいものをつぎ足していく。
ただ、時として人はそれが静止していることを願う。
これは僕が今朝考えた伝統。
もう、頭の中にははっきりとおでん鍋の形があらわれてきている。
「さて、<伝統>ってなんだろう?」
とりあえず辞書を引いてみた。そこには、
【伝統】昔から(いつからなんだ?)うけ伝えてきた(誰が?)有形無形の風習・しきたり・傾向・様式。特にその精神的な面。 (かっこ内は僕の言葉です)
とある。実に怪しげで、あやふやな説明。こういったところが日本人の伝統なのかもしれない。良くも、悪くも。言葉というものもまた生き物で、所詮説明のつくものではない。新しく生まれもするし、死んでいく言葉だってある。
子供の頃、赤塚不二男の『おそまつ君』というテレビマンガが大好きだった。その中に出てくるチビ太はいつも串にさされたおでんを食べていた。
僕は鍋に入ったおでんではなく「串にさされたおでんが食べたかった」。それは串にさされているだけで、我が家のおでんとなんら変わるところもなかったかもしれないけれど、子供の頭にはまったくの別物と映っていたのだろう。
マンガを通したおでんという名の情報。
いつか本で読んだのだけれど、おでんがここまで広まったのは江戸時代の屋台売りを通しての事だそうだ。ファーストフードのはしりと言えないこともない。屋外でも食べやすいように串が打たれたのだろう。そんな時代をおでんの事を考えながら思い浮かべてみる。
おでんの串のことを考えていたら、色々な串が出て来た。
「そういえば昔はてんぷらも屋台売りをしていたらしい。焼き鳥はどうなんだ?団子もきっとそうだろう。串カツはどうだ?」
「そうそう、おでんの発端は田楽という説もあったはずだ。串はその時代からのなごりかもしれない。そもそも<お田楽>は宮中の料理が起こりらしい。おでんの事を大阪では『関東煮』と呼ぶと誰かが言っていたな……」
「『おそまつ君』の中で、いつもチビ太はおでんを屋台で買っていた。いや、チビ太がおでん屋だったのかもしれない。その屋台の出ている道は土であったような気がする。あの頃の東京にはまだ地面というものがあちこちに残っていたのだろう。『おそまつ君』だけではなく、当時の様々なマンガの背景にも地面が出てきていたようだ」
たった一本のおでんの串から想像は無限に広がり続ける。それはなんだか旅をしているのにも似ている。形を変えながらも伝統は生き続ける。
朝からこんな事を考えられるのはきっと平和なんだろう。
昼過ぎに街に出てみた。
いつもとはなにかが違う。
スーパーマーケットでは通路まではみ出るほどに食品が積まれていた。その間を縫うようにして大勢の人達が買物をしている。ショッピング・カートの中をのぞいてみて明日がサンクスギヴィング・デーである事を思い出す。
牛乳一本だけを握ってレジの列につく。
“Happy Thanksgiving day!”
お釣りを受け取りながらレジの女性にそう言うと、今まで忙しさのためにこわばっていた顔が見る間にくずれ、白い歯を見せてくれた。ありがとう。
街行く人達の誰もが心なしか微笑んでいるように見える。
“Happy Holidays!”
別れ際のこの言葉が僕は大好きだ。そんな言葉があちこちで聞かれる季節に今年もなってきた。明日を過ぎれば「生の」クリスマスツリーが街角で売られ始める。聞こえてくる音楽も今日までとは違ったものになってくるはずだ。
そんな風景、そして街の空気に幸福と伝統を感じてしまう。
おでんは明日にしよう。串は打たずに。