フラリ、と歩いてしまう。
車の来ない赤信号で立ち止まる。他所の町のことはわからないけれど、ここニューヨークではそれはちょっとおかしな、不思議な事かもしれない。点滅する信号の前であればなおさらだ。しかし、忙しい街中で堂々と立ち止まる事ができるこの機会を無駄にするのはもったいない。別にこれと言って何かをするわけではないけれど僕はよく立ち止まる。
歩くのがノロイ。自分で意識したことはあまりないのだけれどかなりノロイらしい。本気で歩いている時に、たまに気をつけてみてみるとたしかに子供やお年寄りが僕を追い越していく。そしてよく立ち止まる。
歩く自分の姿を見たことはないけれど、それを見たことのある人は「決してスローな感じや、頼りなげな感じじゃないけどフラフラ~ッと歩いている」と言う。面と向かって言われたことはないけれど、やはり忙しい人は僕と一緒に歩くのが最初はたまらないらしい。そう、人生の時間というものは限られたものだから。有効に使わなきゃならない。人それぞれに快適な歩行速度というものがあるはずだ。それがきっと僕にとってはゆっくりとしたスピードなのだろう。
しかし、こんな僕でも人との約束に遅れそうな時は早足で歩くし、一緒に歩く人のいる時は出来るだけその人のペースにあわせるようにしている。できるだけ。しかし、それはやっぱり快適じゃない。だから予定のある時は出来るだけ早い時間に出かける。そして人と歩くのはあまり得意ではない。たまには自分のペースに人を巻き込んでしまう時もあるけれど。
歩くことが好きだ。一人でゆっくりと歩くことが。
中高生の頃は用もないのに近所の繁華街を歩くのが好きだった。別に人づきあいが悪いわけじゃなかったけれど、その頃から一人という時間を大切にしていたんだろうと思う。友達と群れをなすのも楽しかったけれど、一人でいる時の方が快適だった。
街の中で一人になれることが大好きだ。僕がこの街が好きな理由のひとつはそんなところにあるのかもしれない。厳しさとやさしさ、孤独とハートが同居している街。
そこを歩くのは久しぶりだった。いつもは電車でその地下を通過するだけ。少し見ない間にここにも変化が起こっている。街の色が、空気が変わりつつある。薄暗くなりかけた日曜日の夕方に散歩に出かける。別に「散歩しよう」と思ったわけではないのだけれどそうなっていた。健康のためでもなく、何かを求めでもない。ただ「歩こうかな」と思っただけ。
時間に追われているわけでもない、どこといって行く先があるわけでもない。フラリと出る散歩。それは僕にとって最高のぜいたく。気ままに立ち止まり、道端に腰をおろしてみたりする。角を曲がって繁華街の方に。ホリデーシーズンも近く、日曜日の夕方だというのにそこにはまだたくさんの人が歩いていた。だれもが僕を追い越していく。通りざまに一人の見知らぬ男性が声をかけてきた。
「ちょっといい?君って××でアートパフォーマンスやってる人だよね」
「いいやちがうよ」
「そうかー。顔といい、髪型といいよく似てるんだけどなー」
「うーん、でもちがうなー」
「あ、そう。とにかく、ありがとう」
男性は首をひねりつつ去っていく。
ゆっくり歩いていると結構見知らぬ人と話す機会にも恵まれる。これもまたおもしろい。そしてまた立ち止まる。
しばらく道行く人を見るともなしに見ていると不思議な、少し懐かしい感覚がよみがえってきた。この繁華街の目抜き通り。そこのお店のディスプレーに並んでいる品々。そして足早に、楽しげに歩く人達。その間が線で結ばれている。お店の品物とそこを歩く人達の服装、その人達の持つ空気が似通っている。今時、こんな関係を目の当たりにすることができる通りも珍しい。これを感じられただけですごく得をした気分になる。
だいぶ暗くなってきた。
さぁ、またフラリと歩き出そう。
それが僕にとっての快適な歩行速度。