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ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ボヴ・ディランはロックなのか、フォークなのか?どっちでもいい
 ヘソマガリなのかもしれない。「○○はXXだ!」と決め付けられるのがきらいだ。
 CD屋でミュージシャンの作品は置きやすいように(探しやすいように?)ジャンル分けされていく。自身ではそうは思っていなくても、お店側が勝手に「あ、これロックね」と言ってロックの棚に差し込む。まぁ、それが一般的な評価なのかもしれないけれど、その棚ではじめて彼のCDを見つけた人にとっては、彼がロックミュージシャンとしてその場で確立してしまう事だってある。
 いっそアルファベットと五十音順だけで並べてくれればいいのに。音楽を判断するのは聞き手なのだから。クラッシックのアルバムを探している人がヒップホップのアルバムを手に取ってしまう。そんな不思議な出会いもまたおもしろいかもしれない。

 コトバは怖い、コワイ。
 コトバでは表わしきれないことのほうが多いから。それは映像などと違って、より直接的に、あまりブレのない直球で受け手にパンチを喰わせる。あやふやな判断をさせることなく「これね」と言い切ってしまうことが出来る。
「ここのラーメンを食わずしてラーメンを語ることなかれ!」
 もちろん首をひねる人もいるだろう。でも、ほとんどは「あぁ、そうなんだ……」、と変に納得してしまい、次の瞬間には頭は別なことを考え出している。小さなことが積み重なっていく。
 コトバが意思を持った時、それはコワイ。
 それは何かを意図して、時には単に興味をそそるため面白半分で使われることもある。その理由はどうあれ意思を持ったコトバはコワイ。それが悪意を含む場合はなおさらだ。コトバが意思を持つことによって受け手の選択・判断の余地のかなりの部分が侵されてしまう。それは強制されたものではないから、変に納得できる部分があるからこそ決め付けられるよりいっそうコワイ。

 ちょっと古い話。ライブドアのニッポン放送株買収問題(←この「問題」という言い方もどうかとは思うけれど)がマスコミをにぎわせていた頃。駐車場からビルの入り口へ足早に向かう堀江社長を数十人の記者が追いかけていた。「一言お願いいたします!」
 そんな記者の言葉に答えた彼の言葉が印象的だった。
「僕がなにか言ってもあなた達はそのまますべてを伝えないでしょう。適当に面白おかしく、切り貼りして伝えるだけ。だから何もしゃべるつもりはありません」
 彼はそれまでの経験で意思を持ったコトバのコワサを十分に知っていたのだろう。

 なにげなしに漏らした言葉にその人が凝縮されていることもあるだろう。しかしそれが全てではない。その人を<それ抜き>で語ることはできなくても、<それのみ>で語りきれるものではない。それはその人についてのたった一つの事実に過ぎないのだから。意思を持って<それ>を伝えられるのがコワイ。

 報道に限らず日常生活でも意思を持ったコトバと出会うのは珍しいことじゃない。そして気付いたらそんなコトバに支配されている自分がいたりする。
 あるひとつのコトバ、歴史、背景があって「この人はこうなんだ」、「これはこうのはずだけど」……。そんな像が頭の中で出来上がっている。そしてその人の一言一句、一挙手一投足のすべてをそのコトバに結びつけ、納得し、確認する。そして安心する。変な安堵感がそこには確実にある。さて、いったいなにを安心しているんだろう?そこに自分の公式が間違っていない事を見いだしているのかもしれない。それは果たして自分の公式なのだろうか?
 間違って、曲げて、深読みしすぎて投げられたコトバの持つものはあまりにも重くて大きい。

 たとえば僕はホームレスであった事を公言し、それと向きあって生きていくつもりであり、本名で様々なことに接してきた。もちろんそれを利用している面もあるけれど、どちらかというと障害のほうが大きい。とにかく<ホームレス>というコトバを使うにあたってはそれ相応の覚悟はある(親姉妹はこの限りではない。誠にすまないことをしたと思っている)。こんな生き方をしていると案の定、
「あの人は元ホームレスだから……」
「ジャンキーあがりだからああなんだ……」
 そんな言葉がよく聞こえてくる。ほとんどの場合は聞き流すけれど、それでも押しつぶされそうな圧迫を感じる時だってある。時には相手のむなぐらをつかんで
「おぁ、俺はお前が言ったように元ホームレスだよそれがどうした!?文句あるなら堂々と言いやがれ!」。そんな衝動に駆られそうになる。

 数日前、東京都町田市で女子高校生を殺してしまった高校生がいる。
 人を殺めてしまうのはもちろんいけない。しかし、そうであるからといってあまりにも偏った見方をしてしまうのはどうだろう?
 事件を起こした時に制服のブレザーが汚れてしまい、翌日はそれなしで登校したという。先生には「自転車で転んだ」と説明したらしい。心配した先生は「事故に巻き込まれたのでは?」と問う。生徒は『そんなへまはしない』と答えたそうだ。
 新聞を見ると『そんなへまはしない』というコトバに意思が感じられてしょうがなかった。そこに不快感が残った。彼がやったことはたしかにいけない。精神的に不安定な面もあったのかもしれない。常人では考えられない行動でもある。それでも、そんな事件、彼のことを伝える時にそのコトバに意思を持たせるのはどうだろう?こんな取り上げ方は間違っている。事の善悪ではなく、伝え方が。
 日頃、日本の新聞を読まない僕がたまたま目にした記事がこれだったのかもしれない。もしかしたらこんな報じられ方は一般化して、<普通>になってしまい誰も抵抗感を覚えないのかもしれない。そうであるとしたらコワイ。この記事は少なくともスポーツ新聞のそれはなかった。
 

 岡本太郎が好きだ。
 しかし、芸術は必ずしも爆発する必要はない。爆発寸前の緊張感。ただの静寂そのもの。そんな中からも大きなエネルギーを感じる事もある。
 自分の内側にも意思を持ったコトバがたくさんあることに気付く。コトバに支配されることのない自由な精神、スポンジのような感受性を僕は持ちたいな。
by seikiny1 | 2005-11-17 05:16 | 思うこと
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