人はなぜかいい景色を好む。同じ見るのならいいものを見たいのは人情だ。
ホテルもコンドミニアムもwith viewとwithoutでは値段に歴然とした差が出てくる。窓から見えるのが美しい景色であるに越した事はないけれど、隣のビルの窓に映る人影を見ながらあれやこれやと考えてみるのもまたおもしろい。
いつもはマンハッタンへ入る際に橋の外側になるように選ぶ地下鉄の座席。気付いたら内側に座っていた。それも橋を渡り出してから気付く。午後二時ごろとあって空席が目立つ車両なのにいったいどうしたことだろう?
いつもとは違う風景が過ぎていく。橋から見下ろす河口の遠景ではなく、目の前にあるのはわたる車もまばらな橋の道路部分。三車線あるうちのひとつは工事のためにふさがれている。
華やかな場所デパート。しかし窓の少ないその横側にある搬入口のある通りを歩く人の数は少ない。「同じ歩くなら目を楽しませてくれる華やかな場所を」、と思うのもまた人情。しかし、そこにはそういった楽しみと引き換えに雑然とした人の波、騒がしさがあるのもまた事実。裏通りと表通りは一対。現実と夢想が交錯する。いくら裏通りから目をそらしても、そこには確実に裏通りが存在し生きている。
三十五丁目から見上げるMacy‘s。ヘラルドスクウェアに古くからある老舗デパート。何十年もの煤が重ね塗られた下層階の外壁からは黒のグラデーションが上へと続く。四階より上の部分には当時はいいアクセントだったであろうレンガがはめ込まれている。最上階はレリーフがほどこされたアーチ状の窓。そして屋上のへりには青く錆びた真鍮が七番街の方まで続いている。今では誰も見上げることのなくなったこの面。往時はさぞ光り輝いていた事だろう。
誰もが美しいものに目を向けたがる。その反面、美しくないものは誰も見向きもしない。そして多くの場合は放っておかれてしまう。まるでそこだけ時間が止まってしまったように。違う空気が流れているようでもある。たとえそこに美が眠っていようとも、誰も掘り起こそうとはしなう。そしてまた誰も見向きしなくなってしまう。いつの日か陽を浴びることを夢見てその面は生き続けるのだろうか?
デパートは華やかだけれど、そこの裏には搬入口があり従業員の出入り口がある。裏口と表口があってこそデパートはデパートとして機能することができる。
美しいものの裏側には必ず等身大の現実がある。飲み屋でどんなに派手な人でも、下げたくもない頭をどこかで下げている。そして酒を飲む。それはどちらも現実。裏側があっての表側。逆もまたしかり。
避けることなく、目をそらすことなく裏側を見ていこうと思う。それがそれのありようである限り。目をそらしていてもおもしろくないし、裏も表も好きになれることほどすばらしいことはないだろう。
橋の内側に流れる景色。
それはいたって単調だった。そういえば以前に見た時も一車線がふさがれていたように思う。この工事は本当に終わるのだろうか?
橋のある部分が灰色がかった青色で塗られていることに気付く。それは単調な青ではなく、陽にやけ排気ガスを吹き付けられて変色した箇所も多い。同じ色の中にも様々な表情がある。
石の部分には錆付いた金属が埋め込まれていた。これまでの長く、良い歳月をすべて見つめてきたような色をしている。
表にも生があるように、裏にもたくましい生がある。そこが落書きで埋められていようともその中から何かを見いだしていく。