ニューヨークで、アメリカで得た解放感に似たもの。それは、目に見えるもの、見えないもの、あらゆる間口の広さだろう。それは、この国の歴史に負うところが大きいはずだ。寛大に扉を広げ、世界中からの移民を受け入れてきた。その間口は以前と比べると格段に狭くはなってしまったが、それでもこれほどの移民を受け入れている国はこの国を置いて他にはないだろう、
そんなところで生活をしていると、<入り口>という観念がかなり薄れてしまう。それは、あたかもそこに入り口というものが存在しないかのような錯覚を起こさせる事だってある(反面、種々の人々が暮らす国であるからこその入り口の固さを思い知らされる事もままあるのだけれど)。そうして、突如として閉ざされたい入り口に出遭ってしまうと「エッ!?」、ということになってしまう。入り口は入るためにあるのだけれど、その前に入る者を選ぶためにある。
考えてみると-当然のことなのかもしれないけれど-、入り口の起こりとは多分、拒否する事だったのだろう。受け入れるためではなく。外部から、外敵から身を護るために。
家の玄関から見知らぬ人物がゾロゾロと入ってきたら、それはおっかない事だ。世界中で城壁に護られて発達した古い街を見ることが出来る。そういった街への出入りは、衛兵に護られた城門からしなければならなかったようだ。
自由に入る事が出来る。そこにはお互いの信頼関係がなければならない。<自由>とはまた違うが、そこに無言の契約があるからこそ入り口を開き、また入る事が出来る。
オフィスまで毎日自転車通勤をしていた彼。久しぶりに会った彼は普段のバイク・スーツではなくオフィス着(スーツ)に身を包んでいた。「???」の問いに彼は、ロンドンのテロ以降オフィスのあるビルのセキュリティーが固くなり、自転車をオフィスまで持ち込めなくなってしまった、と答えた(彼の高価な自転車は路上に停めておけるシロモノではない)。
確実にこの国でも入り口は狭く、硬くなってきているようだ。それは仕方のないことなのかもしれないがやはり寂しい。この国の大好きなところなのに。
入り口は拒絶するためにある、ということを最近切々と感じる。
入り口から入る事が出来ない。それは哀しい。
出口から出る事が出来ない。それは怖ろしい。
先日帰国する折の事。エアラインのカウンターで手続きを済ませ「××番ゲートへ、出発の一時間十分前までには行っておいて下さい」、と言われた。頭をひねりながらも、その言葉に従わないわけにはいかない。
ゲートのあるビルの入り口で通常のセキュリティー・チエックを受け、当該ゲートまでの長い廊下を進む。アメリカ行き便の出発ゲート。そこは幾重にも棟が交差したビルの一番端だった。そこだけ黒いテープで囲まれていた。そこには再度セキュリティー・チエック・ポイントが設けられていた。その向こうでは、(アメリカ市民、旅行者など)全ての乗客に対して十五分間ほどをかけ、個別に質問が行われていた。それに当たっているのは、もちろんアメリカの出入国管理官ではなく、出発国の係員の人達。
出口を固められている。と言うよりも、他国の出口を自国の入り口として使っている。
飛行機の座席に落ち着いた時、トム・ハンクス主演の映画『ターミナル』が頭をよぎった。
出口がないことほど怖ろしいことはないのかもしれない。
何もなかったかのように飛行機は定刻に離陸した。
アメリカの入国審査には30秒もかからなかった。