僕は基本的に、冒険心がない臆病者だと思う。別の言葉を探してみれば、保守的というものにぶち当たらないわけでもない。どこかで、そこに安心というものを求めているのかもしれない。
それが住み慣れた街であろうと、見知らぬ遠い町であろうとも、なぜか一度訪れた場所へと帰ってきてしまう。もちろん、そこには<いごこちがよい>、という必要条件が存在するのだけれど。
たまさか訪れた初めての町で数日を過ごし、「あぁ、冷たーいビールをグビっと飲みたい!」、と思った時に、たとえ立っているそこの軒先に"BAR"と大書された看板が風に揺れていようとも、電車を乗り継いででも、数日前のカンカン照りの下、"Happy Hour"という文字に引きずりこまれたように足を踏み入れた、何の愛想もないBARへと行ってしまう。
不思議なもので、こういう生活(?)を送っていると、どこの町へ行っても嗅覚のようなものが働き、地図を見れば大体の場所がわかり、電車に乗ってくる人を見ては安堵し、町を歩けばそういった場所にめぐる遭えることを確信することが出来るようになってくる。
そこで座る場所も、頼むものもほとんど同じで、まことにバリエーションの狭い、ツブシのきかない人間である、と自分でもこの頃はつとに思う。
居心地のよさ、というのは全く様々で、「雑踏が好き」、「愛想のいいサービスが好き」、「なんといっても流れる音楽」、「とにかく常に新しいもの、よりよいものをどう効率よく消化できるか?」などなど、人の数ほどそれがあると言ってもいいだろう。
さて僕にとってのそれはなんだろう?
広い意味で言えば「安らぎ」、と言えない事もない。刺激というものは、時として痛痒くなってくる。<ぬるま湯>と言われてしまえばそれまでなのだけれど……。
ただ、通り過ぎる人と、人との間に流れる不思議な柔らかな空気。そういったものに限りなく惹かれてしまう。そのためには、そんな中に一人で身をおかなければならない。そして身を任せること。全くややこしい自分だと思う。
そしてどんなぬるま湯の中でも、次の瞬間に何が起こるかわからない期待、そして少しだけの不安。そんなものに身をゆだねて、ボーッとしている時が最高の時。そのほかには何もいらない。
先端。先鋭。
先っぽ、というものは遠い昔からほとんどの場合尖っている、と相場は決まっているようだ。先頭ランナーは常に抜きん出ていなければならない。大変な話だ。ご苦労様。
かつてどんなに尖っていても-今でも、たとえ尖っていたとしても-、その物、その者の意思とは関係なく時間というものは、その一面を削りとってしまい<保守>というマークを貼り付けてしまう。時は残酷であるとも言える。
これは先っぽが丸くなってしまったものの言い訳に過ぎないのかもしれない。ただ、トンガリがあったからこそ丸いものの良さがわかるということもある。
最近ではぬるいビールを飲みなれてしまった。しかしそういったわけだろう、久々に冷たいビールが飲みたくなった。
そして、電車を乗り継いでバーにやってきた。やはり、保守で安穏な日々をどこかで求めているのだろう。しかし、そんな思いも、その中にいては薄れてしまう。だから歩くしかない。汗をかくしかない。
久しぶりにニューヨークのおいしい焼き鳥で、生ビールを飲みたくなってきた。
そろそろ、おかわりをたのもう。