気がつけばニューヨークの朝から青色が消えていた・
お決まりの台詞ではあるけれど、「ニューヨーク、アメリカの朝はコーヒーの香りと共に始まる」。街行く人のほとんどが、コーヒーの入ったカップを片手にある者は会社へ、そしてある者は学校への残りわずかな道のりを急ぐ。
以前よりはあらゆる意味で<洗練された>かのように見えるニューヨーク。それは新しいビルや、こぎれいな服装に身を包む人たちだけではない。あらゆる要素が、あらゆる方向からひとつの方向を目指し、流れているのを感じる。
人々が手にするカップも(相変わらず使い捨ての紙製ではあるけれど)古くからの青色のものから、スターバックスに代表されるような、白や薄い色を基調としたシンプルなデザインな物へと変わってしまった。無駄を嫌う都会生活というものに実にマッチしていると言えない事もない。
スターバックスが雨後のタケノコのように増え始めてから十年くらい経つのだろうか?
おかげで、お金さえ出せば僕の好みに少しだけ近いコーヒーを味わえるようになった。アメリカ人の中には「コーヒーってこんな味なの?」、と驚いた人もいたことだろう。それが今では、普通の味となりつつあるのかもしれない。今、アメリカに来た人にとってニューヨークの朝の色は白色と映っていることだろう。しかし僕の中のコーヒーの値段は未だに五十セントでなければならない。白色のカップはいまだにぜいたく品としての位置を占める。あの青色のバタ臭いデザインのカップが僕のニューヨーク。
スターバックスのコーヒーは味、値段、カップのデザインで多くの都会生活者の波をつかみ、その上それらを自らの波に巻き込む事により成功をしたのだろう。「こういう味のコーヒーもある」、ということを提案するだけではなくその外見でも多くの者を飲み込んでしまった。その波に抗うことが出来ず、(中身はともかくとして)多くのデリなどで使う紙コップもシンプルなデザインの物にとって変わられつつある。スターバックスのカップを持つことは、人気のブランドの紙袋を持つことで得られる満足感に似たものが得られるのかもしれない。
街は変わり、人は変わり続ける。いや、その逆か?
これだけ外観が極端に変わっても、朝のコーヒーの習慣は変わることなく自分の身の回りの無駄を省く考えはあまり変わらない。おいしいコーヒーの需要は確実に上がっているだろう。工事現場で休憩を取る人たちですらスターバックスのカップを手にしているのをよく見かける。ここまである、多分計算しつくされた、影響力。それらの経験や、計算を生かしてこれからはもっと別の方面に使えば、まだまだいい世の中になることだろう。
たとえば<本当の意味での>無駄を省くことを新たに考えさせる機会を提示するなど。紙コップは個人の労力や生活の無駄を省くであろうが、いかにそれが再生紙を使用していても無駄であること、ゴミを出すことには変わりない。マイカップを持つことのかっこよさを、彼らの持つノウハウで伝えればニューヨークの朝の風景もまた違ったものになるかもしれない。そんなことから様々な事に気付く人が増えるかもしれない。中身がカップについていくことがあるように、人間が後についていく可能性だってあるのだから。最初は目立たないものでも、それが当然なこととなる日も必ず来る。
こういったノウハウを悪用する者が出ないことは、ただ願うばかり。
企業をはじめ影響力を持つ者、計算をすることが出来る者がその向こうに見る<何か>を少しずつ変えるだけで何かが確実に変わる。それが出来ない変化ならばいらない。青いカップのままでいい。
五十九丁目で久しぶりに買ったコーヒー。うれしい事に青いカップだった。そのまわりには<Continental Airline>の文字が巻かれていたけれど。
値段は五十セント。航空会社のおかげであるのかもしれない。
SOP(Same Old Price)
相変わらずのニューヨークの味、薄味だった。
先日、ニューヨーク近代美術館のギフトショップを覗いた際、青いカップを見つけた。
それはなつかしのデザインで、陶製になっていた。
あのカップには紙の質感がよく似合う。
Same Old Song.