<あきめくら>という言葉を久しぶりに思い出した。この表現がこういう場に適しているかどうか不安ではあるけれど、この言葉のほかに的確な表現を見つけ出すことが出来ない。
<見る>ということは人間の五感の中でも飛びぬけて大切なものだろう。もちろん目でも表現は出来るがそれ以上にinputとして。そして実際に視力のない人でも物事も見ることは出来る。いや、かえってそういった人達の方がある視力に関しては高いものを持っているのかもしれない。
街を見る目、物を見る目、人を見る目、遠くを見る目、近くを見る目、過去を見る目、未来を見る目そして現在を見る目。好奇という名の色眼鏡を通しての目もある。いくつの目を持っているのだろう?その時々に何が映っているのだろう?
眼球に視力のある人は、当たり前の話ではあるけれど物を見ている。しかし、本当に見ているのだろうか?ただ網膜に画を映しているだけではないのだろうか。物事を見つめることがどれくらいあるのだろうか?ほとんどの映し出された画は記憶、処理されることもなく処分され網膜には次々に新しい画が映し出される。なにやらデジタルカメラに似ていると言えない事もない。
何かを見つめることが一日にどれくらいあるのだろう?無駄にされる映像がどれくらいあるのだろう?
映し出されるものは現在、しかも直後には過去になってしまう瞬間、に過ぎないのだけれど、そんなちっぽけな時間の向こうにもこちらにも綿々と連なる時間が存在する。何かを見つめるということは、それを単なる点ではなく線として、面としてとらえる事なのかもしれない。誰もが持つこの能力がとかくないがしろにされがちなのはどうしてなのだろう?忙しすぎるのか?もやは自分の足元を見る視力しか持ち合わせていないのか?
見つめる事をやめるという行為は、見つめられる事をもやめるのに等しい。他を見つめることのない者はやはり他から見つめられる機会も減っていく。たとえそれが視界に入ってもひきつけられることがあまりない。未処理映像として処分される。
色々な人が、何かをもっと見つめる機会が増えていく状況、機会を増やしていくことが必要だ。それでなければこの世界は数十億のあきめくらで埋め尽くされてしまう。
たまには古い建造物の表面だけではなく床下を覗き込み、日本古来から現在まで受け継がれてきている職人の技を見てみるもよし。一年足らずで完工してしまう最近の建築物を見上げながら「こんなに簡単でいいのかな?」、と不安になるのもまたいいだろう。大切なのはもっと、もっと何かを見つめて感じ続けていくこと。対象は自分自身だってかまわない。一日に一度でいいから何かを見つめてみる。使わない感覚は麻痺してしまい、いつの日かその機能を失ってしまう。そうなってしまう前に見つめていきたい。
そこは様々なヒントに満ちあふれている。
人間は実際の物の形状を見る目、その本質を見つめる目、二つの目を持っている。それは足元を見るためだけについているのではないと思うのだけれど。