写真を撮られる時のポーズ、タバコの長いヤツと短いヤツ、PKOのPだってそうだ。ざっと思いつくだけでも身の周りにこれだけある。
ピースという言葉がここまで浸透してどれくらいの時が経つのだろう?僕の中での最初の出会いは小学生の時だった。田舎町の小学校ですら、日本ではピースマーク、アメリカで言うところのハッピー・フェイスの黄色い笑顔に満ちていた。それは消しゴム、鉛筆にはじまり運動靴やTシャツまで。当時、僕らはそれをラビピースと呼んでいた。そしていつの頃からか、指二本をジャンケンのチョキのように立ててカメラに向かい笑顔を作るようになっていた。
世界的に見ればやはりベトナム反戦運動が盛んだった一九六〇年代後半にこの言葉は広く使われるようになったのだろう。ビートルズ、フラワーチルドレン、サンフランシスコ……。その後、若者の合言葉のように定着し、さしたる理由もなく、時としてわけもわからず広く使われるようになった。
街は悪意も、真意も汲み取ることのかなわぬピースであふれかえっている。
数の持つ作用のひとつに人の感覚を麻痺させてしまう、ということがある。たとえそれが正しくない、と分かってはいても多数決で決定されてしまえば従わざるを得ない。従わなければならない。今の社会の仕組みではどうやらこれを民主主義と呼ぶらしい。数の後ろにあるものが全く反映されないことも良くある話だ。三百より大きい一だって存在する。数に惑わされてしまう。何の意味をも持たないにもかかわらず。
最近ではラスベガスやアトランティク・シティーといったカジノのスロットマシーンもすっかりと様変わりをしてしまい、毎回コインを入れて当たれば吐き出される、といった機械は姿を消しつつあるらしい。機械に紙幣を入れ、その金額のポイントや勝ち点が表示され、やめる際に清算ボタンを押すとその点数を金額に換算したものが印刷されて出てくるという。現金を得るためにはその紙切れを換金所に持ち込まなければならない。即ち二十五セントのスロットマシーンに五ドル札を入れれば二十という数が表示され、百という数字を換金すると二十五ドルになる。五ドルが二十になった瞬間から多くの人はお金ではなく数とたわむれ、もてあそばれる。一杯のビールが四点になり、日頃はコーヒーの値段にこだわる人もそこでは十点を架けても何とも思わなかったりもする。
数時間後にため息をつく人、おいしい食事をする人。
これだけあふれかえるピースの中で、それの持つ意味を考える人がどれくらいいるのだろうか?一日にほんの一瞬考える人ですらまれであるかもしれない。
僕にとってピースという言葉は<平和>というよりも<安らぎ>といった方がしっくり来るようだ。一人一人が心のどこかに、帰りつく我が家にそれを持つことができればそれでいい。
最近一番心に残ったピース。それは昨年亡くなった長崎の少女の写真。彼女は、友達はピースという言葉を知ってはいてもその言葉の意味を考えるまでには至っていなかったのかもしれない。彼女の笑顔と共にあげられた二本の指がとても印象的であり、切なかった。
これほど身近にあふれていながら、ここまで考えられることのない言葉も珍しい。
あふれかえるピースよりも、小さなピースを大切にしていきたい。