新聞を開き、はじめに目に飛び込んできた番号をダイヤルした。
“Hello?”
電話線の向こう側から聞こえてくる声は、十年以上も会うことのなかった永年愛した女性のもののように心のはしばしまでじわじわとしみこんでくる。しばし、とは言っても実際にはほんの一瞬であったのだろうが、その感触を味わったあと、
“I‘m sorry, I got wrong number.”と送話口に向かってひとりごとのようにつぶやき、数秒の間の後に受話器を戻した。
最近ではあまり旨く思えなくて「やめようか」、と思っているタバコ。それでも食後のそれはそれなりに旨い。風呂上りのビールは間違いなく旨く、ラーメンにははやり白胡椒がいい。電話なんてその存在自体が面倒くさく、かけるのはもとよりかかってくるのさえ好きではない。それでも電話のある生活をさせてもらっており、問われればそれはこういった生活を送る上で必要である事を認めざるを得ない。日頃その存在を考えたことすらないけれど、無ければ困ることもあるかもしれない。名前や住所と肩を並べて、もはやこれを持たぬ者は<生活人として当然クリアすべきもの>を持たぬ≒失格者、とみなされる社会になってしまったようだ。いや、もうそれは過去のもので、その的は携帯電話に移ってしまっているのかも知れない。名前だけで生きていける時代は遠い過去のものとなってしまった。太古には名前すらも無かったはずなのに、それでも人間は生きていた。時の経過と共に多くのものを背負いながら生きていかなくてはならなくなってきた、そしてその数はこれから増え続けることはあっても減ることはないだろう。
強い存在感があるわけではなく、かといって自己主張をすることもない。そんなもの達に囲まれて生きている。
突如、電話が事故で不通になってしまうように、日頃はあまり目立たない存在ながらも常にある(べき)ものが突如として消えてしまう。こういったことが起こると、それ自体が及ぼす影響というものがさほどではなくとも、何だか落ち着かず不安な気持ちで時が過ぎてしまう。普段は目の端にすらとまらないものでも(だからこそ)、心のどこかに穴を開けてしまう。風通しがあるのはいいのだが、すきま風が身にしみてくる。気付かないうちに自分の一部となっている物・者達。直接的に<何か>をやってくれて、その恩恵を味わっているわけではないがなくなってしまっては自分自身が立ち行かなくなってしまう。そのもの達はあまりにも自然に、「そこにあるのが当然」といった風体で立っているためか、しっかりと目を見開いていなければ見過ごしてしまう。まるで空気のように。
常にアツイ想いを口にして、“I love you, I love you…….”と抱擁を繰り返す、そんな恋人であるよりも電話線のような恋人でありたい。そういう相手を愛したい。ただ、そんな存在に気付くのはいつも失くしてしまった後なのだけれども。
目を見開いて。
さぁ、今日も美味しいビールが飲めるかな?