無心、という状態も多分あるのだろうけれども、街を歩いている時に人はなにを見て、なにを考えているのだろう?
さしずめ女性だと洒落たブティックのウィンドゥや、感じのいいカフェを見て色々な事を夢見るのだろうか。僕の場合はどうしてもゴミに目が行ってしまう。歩道に落ちているゴミ、街角や駅構内に設置してあるゴミ箱の中、歩きながら無造作にたばこのセロファンを風に飛ばす人、アパートの前にあるゴミ置き場。ゴミには人の縮図を見て取ることができる。
ゴミ箱、ゴミ袋を開けて覗き込むことが商売だった時期がある。ニューヨークの街中を空き缶を求めて毎日さまよい歩いていた。
出されたゴミの中を、ゴミの出し方を見ればそこに住み暮らす人々の姿をある程度は想像することができる。選別もせずなんでも放り込んでしまう人。全ての缶、ビン類を洗ってからきっちりと選別をする人。CDの空ケースや、本の山からその人の趣味を想像する。着なくなった洋服をきれいにたたんで、それとわかるように出してくれる人。いつも通るルートで見慣れないゴミの出し方を見れば、新しく引越しをしてきた人があるのを知り、その逆では引越しをしてしまった人の事を思う。数百本ものビールの空き缶は、前夜のパーティーの模様を想像させ、毎日きっちりバドワイザーの空き缶を十二本ドアノブにつるしてくれているおばあさんの家にそれがない時は「病気かな?」、と少し心配もする。
人の数だけゴミとの関わり方があるのだから、とてもここで書き尽くせるものではないがゴミを見ながらその人の性格や、生活、あまり知らぬ町の雰囲気を想像してみることは楽しい。
ゴミ≒汚いもの。というのは世界の通り相場だろう。そうして<臭いものにはふた>の理で隠されてしまう。人々が一番他人に見て欲しくない物は自分の出したゴミであるのかもしれない。そうでなければゴミ箱にふたは要らない。自分ですら見たくないゴミもその中にはあることだろう。見せたくないもの、見たくないものを多くの人が持つ。
見栄を張ったり、自分を必要上に飾り立てる。今日ではそれは社会的常識や礼儀であることもあるが、過度のそれらはゴミ箱のふたであり脱臭剤に過ぎない。無意識のうちにゴミ箱のふたを閉じるように、自分という人間にもふたをしてしまう。ふたをしなければくさいから。ゴミを減らすこと、なくす事を考えずにふたをする。向き合うこともなく密閉する事を選ぶ。そしてゴミは段々臭くなっていく。臭い匂いは、根源を断たなければなくなることはない。たまにゴミを出し(他人の手にゆだね)、手を洗う。またゴミはたまっていく。
外見を整えなくても素的な人がいる。素のままであるのに、引き寄せられてしまう。そんな人はふたをすることすら考えていないのかもしれない。彼ら、彼女らが発する一種独特のオーラのようなものは自然にはぐくまれてきたものなのだろう。その人のそれまでの小さな時間の積み重ねが凝縮されたもの。そこには一体どんなゴミが出るのだろう?
隠す事を考えるのではなく、悪臭がたたないように考え、行動を起こせばこの社会ももう少しだけ住みやすくなると思う。
まず、自分のゴミに対する姿勢を考えてみようと思う。
ニューヨークのアッパー・イーストサイド(俗に高級住宅地と言われてはいるが、それは住む人の質が高級であるという意味では決してない)のゴミ処理施設に関して現在少し問題になっている。「俺んちの庭に臭いもんはいらネェ!」、とヒステリー気味に騒ぐ人々。ゴミの出口がいやならば、も少し入り口の方も考えようよ。