戦いの帰趨が武士や騎士といった個の手から離れた時、兵士は制服を着込んだ(着せられた)。そこで求められるのは、作戦の<一部>として存在することのみ。
「なぜだろう?」
昨年帰国したおりにある種の開放感に近いものを感じていたのだが、しばらくはその原因が思い当たらなかった。久しぶりの日本には、以前ではあまり感じることのなかった空気が濃くなっていた。
(小さくまとまってはいるが)それぞれが個性的になり、表現も多様になってきているように思う。アメリカで最近その逆を感じることが多いせいだろうか。
道行く人々を見渡してみても、制服を着込んだ学生や会社関係の人の数はめっきり少なくなったようだ。
取り巻くものが人へと及ぼす影響にははかり知れないものがある。その中で衣・食・住という生活の根幹を成すものはやはり群を抜いているだろう。服、食事、住まいが誰もが似通っていたら、やはり似たような発想しか生まれてこないのかもしれない。<皆と同じ>という安心感は心のよりどころになるかもしれないが、反面では異端を嫌い排斥するという顔も持つ。制服や給食といった共通項のもとに、<個性>という人間が持って生まれた宝はほとんどつぶされていくのではないだろうか?
もちろんそこには指揮系統が存在し、上官からの命令があるのだが軍隊の中でそれを受け入れる資質を作っているものに、同じ服、同じ食事、同じ住まい、同じ生活習慣とそのサイクルといった生活のほぼ全てを他と同一化していることがあるように思う。結果として、思考パターンまでが似通ってくる。
あなたは軍隊に属する人々の顔の見分けが瞬時にできますか?
僕は、それが日本人であろうと外国人であろうと親しい者(その個性を知っている者)意外を見分けることはできない。全てが同じ顔を持つように見えてしまう。
GAPの服を着込み、Starbucksで友人と待ち合わせ。出勤の途中でDunnkin’ Donutsを買い、昼食にはMcDonald’sへ。本が欲しくなったらBarnes and Noblesへ行き、彼女とのデートで観るのはハリウッド映画。台所のペンキがはげてしまったらHome Depotへ急ぎ、子供たちはStaplesの文房具で勉強をする。
表面上は全く別々の生活をしているかに見えるのだが、最近何かにつけてアメリカ人の制服化が気になってしまう。少し前の日本を思い出させる。
かつては世界中から移民を受け入れ独自の文化を創り出したこの国が、ついに国民を一色にぬりはじめたその結果の表われだろうか?上に挙げたような様々な制服を着せられた彼等は一体どこへ導かれていこうとしているのだろう?
街はきれいになり、犯罪は減った。便利にもなった。平均的な生活レベルも以前よりは上がったように見受けられる。その反面で失ったものは何か?
個性豊かな人々が減り、皆が似たような生活をし、絵に描かれたような幸せを追い求め一所懸命に学び、そして働いている。
彼らの行く先には何が広がるのだろう?その制服を世界中の人に着せるためだけに突き進んでいるのだろうか?
世界のどこにいてもビッグマックを頬張ることができることが、世界の為になるとは、幸せだとは到底思えない。そんな時代の到来を想像するだけでゾッとしてしまう。
アメリカ人にビッグマックを食わせているのは一体誰なんだ?