「ウーン、何かが違うな」
バスルームの窓辺で小さな白い花をつけたシクラメンの鉢植え。昨年、日本へ帰った際一ヵ月余も忘れ去れながら、それでも細々と命をつなぎとめて僕の帰りを待っていてくれた。十一月に再会を果たしてより水と太陽の恵みをしっかりと受けてもらい、一週間ほどで新しい息吹、小さな芽を出してくれた。
窓辺には空に向かって拡げた手のひらのような葉の中に、白い小さな花が二つ。そして根元ではいくつもの小さい命が産声をあげている。
しかし何かが違う。
葉の厚み、毒々しいがどこかか弱げなその色つや。その時間が短いからだろうか、つぼみから花に至るまでの形状の変化の仕方。直線的にヒョロリと伸びた茎からは力強さが感じられず、どこかもやしに似た印象を受ける。
実は数週間ほど前から週に一度肥料を与えている。
もしかしたら今の姿は一年前に花屋の店頭に並んでいた時のものに近いのかもしれないが。
多くの花屋には商売をするにあたり大量に、美しく、ある程度長持ちする商品を<作る>ノウハウがあることだろう。それらを駆使して効率よく花を支配することが花屋という商売なのかもしれない。実際僕もその花開いた商品を買ったのだから、何の不平もない。その花を通じてお互いが納得しあった結果、シクラメンは僕のアパートへとやって来た。
花は見ることももちろん楽しく、心を和ませてくれるが僕にとっては育てることもまた楽しいものだ。作るのではなく育てるということ。さて、この花の本来の姿とはどういったものなのだろう?店頭で出会った時の姿すら思い出すことが出来ないのだから、本来の姿など想像もできるはずはない。ただ、自身の中に<こうであって欲しい>というものがあるに過ぎない。今の姿がそれから少しずれているように感じるのは、その基となるものがはなはだあやふやなだけにこれまた心もとない。
肥料を与えるという育て方を考える前に知らなければならないことがあるのに気付く。そもそも、鉢植えという育て方が植物本来の育て方ではないのでこんな事を考えること無駄なことなのかもしれないが、本来のあるべき姿を知ることは悪いことではない。
本当の姿を知らなければ、その姿に近付くことすら出来ない。たとえそれが花であろうと、人であろうと。まずその本来の姿を知ろうとする努力、少なくとも姿勢が必要だ。間違った肥料を与えてしまえば、間違った育ち方をしてしまうこともある。開花を急がせるあまり生命を縮めてしまう危険もそこにはある。そうならぬために本来の姿を知らなければ。
花にも、人にもそれぞれの個性がある。<これ>と確定できるものは何一つない。その本来の姿を知る為には流してみるのもひとつの方法だろう。
周りの環境にゆだねてみる。とにかく太陽の光からエネルギーを得、雨に身体を打たれることにより水分を得る。地中から養分を吸い上げ、運がよければ落ち葉や動物の糞尿から滋養分をもらうこという幸運にも恵まれる。冬の寒さに命尽きるものもあれば、踏みつけられて瀕死の重症を負うものもいることだろう。そんな中でひと時を過ごし、厳しい冬の後に開いた花と葉。様々な影響を受け、また与えながら開いた花の色香や、葉の広がりや厚みがそれの個性、本来の姿と言えるのかもしれない。中途で命尽きるのもまたひとつの個性だろう。
ただ面倒を見るだけではなく、時には突き放して自然に、周りの流れに身を任せるだけの生き方も良いかもしれない。もしかしたらこのシクラメンは真っ赤な花をつけるべく生まれてきたのかもしれないのだから。
いくつもの春を迎えながら成長を、進化を遂げていく。
シクラメンの花、葉は天を仰ぐ漏斗のような形状をしている。そこに受けた雨は一滴の例外もなく漏斗の出口から茎を伝い地中へと流れ落ちる。
時間のマジック。
流行していた頃は好きでも嫌いでもなかった。小椋佳氏作の「シクラメンのかほり」。それを口ずさんでいる自分をたまに見かけることがある。
時間のマジック。