今回はあまりきれいな話とはいえません。もしお食事中でしたらご勘弁下さい。
あなたの家のトイレは洋式ですか、それとも和式ですか?
物心ついた時に家のトイレは洋式でしたか?
現在の日本家庭に於ける洋式トイレの普及率はかなり高いと思う。平均的な家庭に育った僕の家に洋式トイレがやってきたのは一九七五年前後だったと記憶する。多分このあたりが和式から洋式に移行するピークだったのかもしれない。そして奇妙なことに、これは日本の高度成長期の終焉の時期と一致する。人々はなにを求めて洋式に乗り換えたのか?そして物心ついた時から洋式トイレが身近に存在する場合、それはどんな影響を及ぼしていくのだろうか?
僕自身を振り返ってみれば、トイレが洋式に変わった頃から自分の中の緊張感のようなものが少しずつなくなっていったように思う。そうしてそれは現在まで続いている。
便所、トイレ、厠、御不浄、W.C.、はばかり、お手洗い、化粧室……。
思いつくだけでも日本にはトイレに対する様々な呼び名が存在する。その中で日本人のトイレに対する距離感を最もよく現わしていると思うのが<御不浄>。「きよくはない」がそこに尊敬の念がこもっている。単に排泄を行う(不潔な)場所としてだけではなく、生活の中で何か別格の存在であるという意識の現われなのだろうか。そういう場で和式トイレにまたがるという行為は、知らず知らずのうちに毎日の生活に組み込まれた数少ない真剣勝負であったのかもしれない。
一方、洋式トイレの長所は、まずリラックスできること。そして身体に障害を持つ人やお年寄りにもやさしく手を差し伸べているところだろう。また、映画のシーンなどに使われても画になる。和式だとそういうわけにはいかない。まさに生活に融け込んだ、あまり距離感のない存在ということだろう。
洋式トイレに腰をおろしていると物思いにふけり、景色を眺め、本を読み、などなど心身ともにリラックスしているのを感じる。実際、僕に関して言えば様々なアイデアはトイレで浮かぶことが多い。それだけリラックスできている証拠だろう。ただ、学生時代に足を怪我した際、学校のトイレで「どうやってカタをつけるか?」と創意工夫する事を学び、「絶対にやり遂げる」という根性を身につけ、<痛みと排泄>を天びんにかけてそこから優先順位の存在を学んだようにも思う。そういう面では、洋式トイレは過保護なのかもしれない。
いつもこんな事を考えているわけではない。ただ、今回の帰国では公共の場のトイレを使わせてもらうこと多く、そこには和式トイレがいまだに存在しているのを見てある種の安堵感を抱いていた。腰を下ろしたり、しゃがみこんだりしながら壁の一点を見つめ考えていたこともある。
何よりの発見は和式と洋式の共存だった。それは多分衛生上の理由によるところが大きいのだろう。洋式一色に染まることなく、その場その場に応じて上手に使い分けることは大切なことであり、それは日本人の長所であるとも思う。この先、割合に変化こそ出てくるかもしれないが和式トイレが絶滅することはないだろう。同時に日本のトイレはきれいであり続けるとも思う。日本の公共の場にあるトイレがアメリカと比して格段に清潔なのは、管理する側の心配りもあるだろうが、それにも増して使う側のトイレに対する意識が違うからではないのだろうか。
和式トイレがなくなり、公共の場のトイレが汚くなった時、日本人は日本人でなくなってしまうのかもしれない。
自分自身の中に和式トイレ(真剣勝負)を持ち続けることにしよう。
僕にとってこの毎日コラムは和式トイレなのかもしれない。一日に一度、真面目に物事に接し、考えてみる、ということでは。
国会議事堂と議員宿舎のトイレを全て和式にしてしまえば、この国の政治も少しはましになるかもしれない。