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ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ノート2冊
 ノートの書き方が少し変わってきている。
 これ、といった理由はないけれど強いて言えば気持ちがいいから。気持ちがいいことに弱いのは死ぬまで変わらないと思う。今は、この書き方が気持ちいい。できるだけ丁寧に書くように心がける。

 発端は日記のようなものをつけはじめたとことにある。大学ノート、日記帳、手帳、インデックスカード……。さまざまな形状に挑戦し、やっと手帳大のノートに落ち着いたけれど、約2年の間、天気と食事内容だけは最低でも書き続けてきた。できるだけ感じたこと、考えたこと、気づいたことを羅列。少ないときにはたったの数行である日もあるが、とりあえず自分なりに丁寧な文字を書き続けてきた。

 ノートに思いを書く。この7年間ほとんど毎日続けてきたことだが、これは怒鳴っているようなものであることが多かった。自分の思いをノートに叩きつける。脳みそと心地よい程度にリンクをしたスピードで書くとどうしても文字は汚くなってしまい、誰かに拾われても解読不能といったセキュリティー上の利点もある。そのスピード感は解放感とつながり快感でもある。一方、昔のノートを引きずり出して来た時に、自分ですら何を書いてあるのやらわからないときもある。よくある。叫びであるので、叫び終わった後、心は平安となり部屋のどこかにあるはずのノートがなかなか見つからない。書くことで完結をしてしまっているのだ。終わったことを振り向かない性格のせいか、ただ「(どこかに)ある」という安心感だけで生きているようなところがある。少し前まで、ノートは記録をする媒体ではなく単なる叫びの場に過ぎなかった。そこに会話の成立する余地は微塵もない。まことに一方的な、自分にとってだけ好都合な場所であるだけだった。

 ところが、丁寧に書くことを心がけるようになってからは「対話をしている」という実感がともなうようになっていた。別に意識していたのではないけれど、書きながら「ん、なんか感じが違うなー」とは思っていた。心のどこかにそのことが引っかかっていたのだろう。と、ある日浮かび上がってきた言葉が対話だった。
「おい、そんなにかたく考えなくていいんじゃないかい」
「そ、だな。ま、軽く流しちゃうか」
 これまで一人で走り続け、息切れをしたりしていたが、たまにカウンターに腰を下ろし2,3人で会話をする機会が少しずつ増えてきている。

 対話というのは書くということだけではなく、音楽、絵画、舞踏……すべての表現手段―時に芸術と呼ばれる―にあてはまるのではないか?なんて遅まきながら考えている。ギターと、ドラムと、絵筆と、キャンバスと対話をする。自己との対話。それを横から見て表現だとか芸術だとか言う人がいるだけのことではないのだろうか。ノートを比較的きれいな文字で埋めながらそんなことを考えていた。
 ここで誤解をして欲しくないのは、ぼくの書くものが芸術であるなどと言っているつもりはまったくないということ。ただ、ノートとの対話がこんなに気持ちのいいものであることを発見したことを言いたかっただけ。芸術の根源は自分へ対するメッセージではないのかと。自己との対話のないところには何も生まれないのではないかと。自分とすら会話ができないのであれば、拒むのであれば他の人と話すことすらできるはずはなく、そこには虚構しかうまれないのでは、という疑問。できたものと、何らかの意思をもって作られたものは一見似てはいるが別物であるということ。

 ノートとの対話は楽しい。
 そして、ここにはあとひとつの楽しみがある。丁寧な字で書いておくと、しばらくして昔語りをすることができる。あの頃の自分と。そこには、その時には気づくことのなかった栗が落ちていたりする。ひと粒で2度も、3度もおいしい。
 
 ページを繰ってみると3ページ前と比べ、かなり乱雑になってきていることに気づき軌道修正。
今は叫ぶノートを対話をするノート2冊が手元に。 
by seikiny1 | 2009-10-24 04:35 | 日ごろのこと
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