思いつめる性質だと思う。
とはいっても、生き死にに関わるようなところまで行ってしまう大物であるはずもなし、かなりな部分がいい加減で出来上がっていて、そんな証拠を総合して<AB型説>が出たりする。血液型は知りません。
「あ、そう。しょーがないね」
思いつめていたわりにはサラリとしていた。それほどまでこだわっていなかったということだろう。どちらかと言えば「どーでもいい」というグループの方に属するんじゃないかな。それでもたまに食べたくなる。「食べたい!」ってほどじゃないけど。
アメリカで子供時代を過ごした人たちにはまったく別の思い入れがあるんだろうね。これは食事というよりも文化に近い気がする。
マカロニ&チーズ。
先週から食べようと思っていた。食べたいと思っていたわけではなく、食べようと思っていた。それでも先週土曜日の時点で今日の昼飯のメニューとしてすでに織り込まれている。そこにこだわっているのか、そうでないのか自分でも今ひとつわからない。
店へ行ってみるとあいにく売り切れで、ぼくの順番が来ても無駄話に余念のないお兄さん。裏の台所から補充される気配はない。少し残念だったけどあっさりと別のものを注文した。
まさかこんな日がやってこようとは。
初めて口にしたのは、アメリカへ来て日も浅い頃のこと。印象は「不味い」ではなく「味がしない。よくこんな物ニコニコしながら食えるなー」といったところ。もしかしたらこちらの方が「不味い」とはねつけるよりも評価としては下なのかな。たしかカッテージチーズそんな印象だったと思う。
2度目はスープキッチンで。
チリ・コンカーン、フライドチキン、ミックスド・グリーン、ロースト・ターキー、ポーク・チョップ、マッシュポテト&グレービー、ミートローフ……。思い返してみると、本当の意味でのアメリカの食事を口にしたのはあの頃だったんだろう。自分の好みでメニューを選ぶことはもちろんできない・出されたものを詰めこんでいくだけ。
もし、それ以前の状況で暮らし続けていたとしたら、あれほど徹底してアメリカの食事を口にすることはなく、いまだにマカロニ&チーズという選択肢はないはずだ。しかも、当時はどこかに「今食っておかないと……」という危機感があったのか、食べていた量も並大抵じゃなかった。
これまでの人生で「うまいなー」と心の奥底から呟いた事はないように思う。単純に味の評価として。
「うまいなー」はいつも目に映るもの、場の雰囲気、同伴者、季節、精神状況など様々な要素の総合評価で、味のみでの判定を下したことがない。失礼な言葉を使わせてもらうと、「うまいなー」のどれもが味にかんしては「OK」だった。というよりもそれほど深く考えない。ちなみに、何かに対して評価を下す時にアメリカ人はよく「OK」という言葉を使う。アレが大嫌いなんだ。
飽きがこない。
家庭料理のポイントは意外とこんな所にあるんじゃないかな。飛び切り美味でも、特別でもないのに無性に懐かしくなったり。
正直言うと、マカロニ&チーズが品切れとわかった時、少しだけくやしかった。