ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
<   2009年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧
念仏踊り
 運転免許証が失効して10年以上が経ちます。この先の人生で車と復縁することがあるとも思いません。

 アメリカでの車遍歴は置くとして、日本での車。最初で、最後の1台。
 ダイハツ コンパーノ・ベルリーナという車でした。
 
 ぼくよりちょっとだけ年下の、それはかわいいやつ。すぐにすねたり、泣いたりするのですが、そこがまたかわいくて。
 ちょっときつい坂なんかを登ると大きなとめ息をつく。時には、
「ねぇ、ちょっと休んでいこうか……」と吐息まじりに語りかけてきたり。

 たった一つだけの悩み。
 部品が手に入らないんです。メーカーに問い合わせても部品の在庫はなく、中古部品に頼るしかないありません。
 ただひとつの道は、スクラップ前の同型車を見つけて確保しておくこと。これでやっと、ほぼ1セット分の部品が手に入るわけです。ずいぶんと回りましたよ、スクラップ工場を。
 これは今でも旧車と呼ばれるものを愛する人には変わることのない悩みだと思います。特に日本車に乗っている方には。

 ヨーロッパのことは皆目わからないのですが、アメ車に関してはパーツの心配はほぼ皆無。1950年代以降の車だったら車種に関わらずほとんどのパーツを手に入れることができます。
「あ、キャブレターいっちゃった……」
 早ければ翌日には手元に届きます。コルベットのように有名な車だけではなく、ぼくがはじめてこの国で手に入れた1978年製の超マイナー車:Chevrolet Monzaの部品までが手に入るのにはちょっと驚きましたが……。

 アメリカでも日本でも、今年は政府によるエコ・カーへの買い替え補助が大人気でした。アメリカなんて満員御礼で、あっという間に札止めです。日本ではエコポイントなどで家電なんかの買い替えも進んでいるようですね。
 ま、車も、冷蔵庫も、洗濯機も買う予定は全然ありません。ひねくれ者のぼくは、ニュースに映し出される、買い替えに嬉々とする人々を冷ややかな視線を注ぐわけです。
「踊ってるわ」、「踊らされてるわ」、「オメデタイ人たちだ」と。

 アメリカでも大人気のプリウスですが、こちらでのパーツ供給はどうなっていくのでしょう?
 アメリカではなぜいつまでも部品が手に入るか。そのわけは、メーカーがある程度旧式となってしまった部品の鋳型をただ同然で払い下げるかららしいんです。持っているとどんどん税金が発生しお荷物になってしまう。「それじゃ払い下げて勝手に作ってもらおうか」そんな感じなのでしょう。もちろん、それを元に製造して商売になるからこそ、払い下げられる側も喜ぶのでしょうが。
 
 対する日本。
 保守部品製造義務は該当車種の製造打ち切りから8年。
 極端な話ですが、もし、明日、プリウスの生産が打ち切られたら、8年後の大晦日にパーツがなくても怒鳴りこむところはなくなってしまう。まぁ、世界のトヨタさんですから、そんなことはしないでしょうが。もしかしたらその頃はアメリカでの現地生産がはじまっていて、パーツを逆輸入することができるかもしれませんし。

 長く乗り続けるシステムのない日本では、「長く乗ろう」と思っても乗り続けることは難しいですね。車が山中で、雪の中でエンコしてしまうほど心細いことはありませんから。そういった危険を避けるためには、安心のために買い替えなければいけないわけで。

「もっと燃費のいいやつ出ましたよー」の声に首を縦に振るしか現状では方法がないでしょう。
 どんなにいい車でも、愛着があっても15年も経てば廃車。工場はエコ・カーを作るためにフル稼働。モクモクと煙を吹き上げながら。地球にやさしい物作りのために、地球に負担を強いる。世界中の工場がエコにならない限りこの環はほどけないでしょう、きっと。

「地球にやさしいですよ」なんて言われてもね。
「地球にやさしい」と思っているのだけれどそれほどやさしくはないはずです。それよりも、古い車を乗り続けるほうがどれだけやさしいことか。
 
 10年程度の寿命の物を買いつないでいくほどの公害はないんじゃないのかな、とぼくは思うのですが。地球にやさしくありたいなら、新車なんて買わないことが一番です。高速道路なんか1000円でも乗っちゃ全然やさしくない。いっそのこと全線1車線にして、巨大な中央分離帯を畑にしちまえばいいのに。こやしの匂いをぷんぷんさせて。
 
 政府も「買わせる」ことばかり考えずに「使い続けることのできるシステム作り」ををもう少し考えてもいいのではないでしょうか。
「修理できません」
「修理をするとかえって高くつきますよ」
そんな物作りはそろそろ見直されるべきでしょう。

「で、物作って売れなくなったら国が立ち行かんでしょう。どうしてくれんのよ?」
なんて僕にいわれても困るので、こんな時こそ政治家というおエライ方や大会社のお歴々、経済学者が頭をひねってください。
 カセット・テープなんてほとんど見かけることもなくなったけど、カセット・メーカーは生きています。CD屋は消えそうですが、大手レコード・レーベルも何とか食いつないでいきそうですよ。国単位でも何とか活路は見出せるでしょう。実際、ハイブリッド・カーなんてマジックを考え出して業界に新風を巻き起こす頭を持つ人がいるわけですから。

 物を次から次に買い替えさせるシステム。終わりのない経済発展を願い、邁進していく考え方・教育にも限界が見えてきているのではないでしょうか。
「上が必ずしも善であるとはかぎらない」
 そんな教育をするだけでも先々かなり変わるとは思います。進歩だけではなく、雌伏する、一歩下がってみることもまた素晴らしいことだと個人的には思うのですが。


「大きいことはいいことだ……」
 子供の頃にテレビで流れていた山本直純さんが出演していたCM。

「消費は美徳」、「内需の拡大」
 不景気になると呪文のようにどこからか聞こえてきます。

 そして
「エコ」

 こうして見てくると、われわれ全然変わってませんね。
 この数十年。いつの時代にも民衆は喜んで踊ります。踊らされます。政治家の、お金持ちの唱える念仏に、
「ありがたや、ありがたや」と随喜の涙を流しながら踊り続けるんです。

 買い替えというエコ……。
 そろそろ念仏踊りはやめて「ええじゃないか」でええじゃないか。
 
 もぷそろそろ来年のこを言ってもいいでしょう。
 新車買おうかな、チャリの。





にほんブログ村 海外生活ブログ ニューヨーク情報へ
にほんブログ村
[PR]
by seikiny1 | 2009-12-29 12:17 | 日本とアメリカと
マイ◯×
「Vか……」
West 4th St.駅上りホーム。
だんだん大きくなってくるオレンジ色のサインを見つめながら。
「あ、だからVラインを使うのかな」

クリスマス明けの12月27日まで。
日曜日だけですが、1930年代の地下鉄車両が走っています。
Vラインの上を。
Vintage Trainが。
そんなダジャレみたいなことを考えていました。
もしかしたら、当たっているかもしれませんが。
まぁ、Vラインだと路線の長さが短いので管理がしやすい。
そういったところでしょうね。

初めてNYの地下鉄に乗ったときに感じたこは。
「殺風景だなー」
と、いうことでした。

もちろん当時の車体は派手なグラフィティーに埋め込まれてはいたのですが。
地下鉄に乗って目が行くのは車内です。
あたりまえのことですが。

プラスチック製の椅子。
網棚もなく、吊り革もありません。
ビリビリと音割れのする車内アナウンス、「聞きとろう」という気も起こりません。
移動する箱。
それが当時の地下鉄のイメージでした。

「どうしてあんな便利なものが?」
ずっと不思議でなりませんでした。
混み合う電車の中、背の低い女性は背伸びでもするようにしています。
揺れる電車に翻弄されぬよう、高いところを走る金属製パイプを握り締めています。

つい先日のこと、謎の一部が融けました。
「あった」
1970年代に撮られた映画のスチール写真を見ていた時のこと。
白黒写真に収められた当時の車内風景。
金属製ですが、シッカリと吊り革がぶら下がっていました。

さて、どうして吊り革は消えてしまったのか?
「なにか事故があって全撤去になった」
「背の高い人の方が多いからじゃまでしょうがない」
「取り外して地金屋に売る者が後を絶たなかった」

少し前の日本で跋扈した金属ドロ。
こんな方が昔のNYには結構いたもんです。
末はアパートのドアノブ、番号札(銅製)まで持っていってしまうんですから。
もちろん今でも、街のクズ鉄集めを生業とする人もいます、合法的に。
ずいぶんと平和になりました。

Vトレインに揺られながら、駅の入口で配られていた地元無料誌を広げてみると。

b0063957_127464.jpg


《マイ箸》、《マイ・バッグ》、《マイ・カップ》、《マイ・ボトル》……。
とかくマイがブームの世の中です。
それでも、こんなものを、《マイ・吊り革》なんてものを考えつくのは世界広しといえども、この国の人達くらいでしょう。
アメリカ人のこんなところ、大好きです。

「今年こそはVintage Trainに乗ろう」
手垢にまみれた吊り革を握りしめてきます。
[PR]
by seikiny1 | 2009-12-26 01:28 | アメリカ
ツメタイクリスマス 
 基本的にへそまがりです。
 ああ言われれば、こう言います。速攻で切り返せるほどの頭はもっていないけれど、しばし考えて忘れた頃にポツリ。
 
 数日来の寒波もひとやすみ。
 それにしても、今年のクリスマスはツメタイ。
 サンクスギビングの静けさから一転、街はイルミネーションで埋め尽くされていっています。今年は、文字に違うことなく「輝く」という表現がぴったりです。数年来言われ続けているLEDライトへの切り替えが加速したようで、ビルディングやお店を彩る灯りもグッと明るく、きらびやかです。
 明るい、地球温暖化防止効果、長寿命……。
 まさに素晴らしい光源ではあるようですが、<明るい>のところにちょっとひっかかるんですね、ぼくは。

 この齢になっても、未だに自分の人生を長いスパンで見ることができません。すなわち、その日暮らしに限りなく近いぼくにとってのLED電球。まだまだ選択肢にははいっていません。それにしても、もう軽く折り返し地点は過ぎているはずなんですが、どうしたもんでしょう、これは。
 世の中、実にうまくできています。お金を持ってる方が得をするように出来ていますね。
 まとまった金を持たない人はローンで車を、カードでテレビを買い金利を払っていかなければなりません。身近なところでは、地下鉄のメトロカード。ここ数年は1ヶ月乗り放題のものを買ってはいますが、そんなものを買えなかったあの頃はシングル・ライドという一回こっきりのものを乗る度に買っていました。もちろん割高ですが、先立つものがない、不安がある身にはその数十ドルさえ大きな買い物です。当面をしのげればいいか、ということになります。
 もし、です。LED電球が、もし仮に10年もつとしたらもちろんすべてを替えてしまった方が得でしょう。10年の寿命に関しては色々と説があるようですが。
 ちなみに僕の部屋の電球を数えてみると……。
 大きなのが11個、小さいのが6個。蛍光灯はありません。
 ま、金のことは置いておいて。

 今年のクリスマス・イルミネーションに使われている白色LEDの色が嫌いだ。
「わぁ、明るい!真っ白!」という世界なんでしょうね、きっと。ぼくの目には冷たく、拒絶感をはらんだ白としか映らないんです。その電球が集合すれば、集合するほどに……。
 心に闇の部分を持つ、ぼく自身に問題があるのかもしれませんが。
 
 やはり熱を伴わない光というのは、人間の奥深いところで冷たく感じてしまうのではないでしょうか。
 LEDがあまり発熱をしないということを知っている、知らないということではなく。生まれて間もない赤ん坊にも、まったく違った質の光として受け止められているような気がします。
 もちろん光の目的のひとつは明るく照らし出すことのあるのだから、明るいことは決して悪いことではないのですが。それでもぼくは、じんわりと闇ににじんでいく光のほうが好きなんです。心にいくつもの層ができるんです。

 生まれる前の遠い記憶のどこかに火の光というものがあるんでしょう。それを囲む人々。火がまだ大切なものであった頃のこと。
 生まれてからの近い記憶にもそんなものが残っています。薄暗い裸電球。古くなって端っこのところが黒くなり、チカチカと点滅を繰り返す蛍光灯。もちろん、ホームレスの頃ロウソクで読んでいた本も。
 
 貧しさを煌々と照らし出されるのはやはりたまらない。そんな場面にはやはりアタタカイ裸電球がやさしい。
 明るければすべてよしというわけではなく、灯りを考えるときには影の部分を、あわい翳りをもっと大切にしていきたい。明かりは闇との対比で明かりたりえるんです。

 1週間前の話。
 TV Japanという放送局が、無料お試し視聴キャンペーンをやっていたときのこと。明治初期を舞台としたドラマだったのですが、歌舞伎のシーンで一番目を引かれたのが灯り使い方でした。舞台の上にはポツリ、ポツリとメガホン状の白紙でくるまれたろうそくが数十本置かれています。こんな設定で見れたらまた歌舞伎も面白いものなんでしょうね。

 もっともらしいことを言って、さんざんLEDの悪口を並べてきましたが、値段が十分の一になったらちゃっかり買っていると思います。そんな人間ですから。でも、直接照明にはしていないと思いますよ。
[PR]
by seikiny1 | 2009-12-14 01:12 | 思うこと
ピンクのガリ
空白はあった方がいいのか。
埋めた方がいいのか。
埋めずにいられないのか。

人間の性としては埋めずにいられない。
高級寿司店の大皿。
ポツリ、ポツリと盛りつけられた空間ではなく。
折り詰めされたパック寿司。
ぽかんと開いた空間にガリを詰め込みたくなってしまう。
あえてピンク色のやつを。

そこだけがポッカリと空いてしまうと、なんだか落ち着かない。

仕事と仕事の合間の小さな時間。
立ち上がって流しに。
コーヒーカップ、皿やスプーンをを洗ってみたり。
それを<今>やる必要はないのに。
<今>この時は、ぼんやりしていたほうがいいのはわかっている。
それなのに、ついつい立ち上がりスポンジを持ち蛇口をひねる。

空白を埋めたいがために手に入れたものはどこにへ行くのだろう?
あの、小さなな時間が還ってくることはない。
時間をかけて飯を食ってみたり。
ベッドで3ページだけ余分に本を読んでみたり。
もしかしたら、たばこを1本だけ余分に吸ってしまい、実際は身体によくないことをしているのかもしれない。

空白を埋めたからといって、新しいものが生まれるとは限らないのだ。

どうしたわけか、いつのまにか飛ばしてしまったノートの1ページ。
ピンクのガリで、空白を埋めるためにこれを書きました。
[PR]
by seikiny1 | 2009-12-02 09:13 | 思うこと
記事ランキング 画像一覧