ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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幽霊電車

 幽霊を見たことがありますか?
 僕はないです。それでも、その存在を信じており、一度くらいだったら出会ってもいいような気はします。いや、やっぱりいやだ。でも興味はある。

 幽霊と妖怪の違いというのはなんとなくわかってはいた。それでも、これまで調べてみたたことがなかった。今日は朝からこの言葉が頭にはりついて離れないので、辞書を開いてみた。

【幽霊】①死者の魂。亡魂。
②死後さまよっている霊魂。恨みや未練を訴えるために、この世に姿を現すとされるもの。亡霊。また、ばけもの。おばけ。
………「やっぱり会いたくないな」
③形式上では存在するように見せかけて、実際には存在しないもの。
【妖怪】人の理解を超えた不思議な現象や物体。想像上の天狗、一つ目小僧、河童など。ばけもの。
―大辞泉―

「ばけもの」というところは共通している。
〈幽霊会社〉などというのは③からきているのだろう。要は、実体のないものといったところか。

 クリスマス明けの今朝は、学校が休みであったり、連休とあわせて休暇をとる人も多いのだろう、歩道の人もまばらだ。駅への角を曲がった瞬間に、なんだか場違いな場所にいるような感覚にとらわれてしまう。それでも、ホームに下りてみると、通り過ぎていく電車は結構混んでおり、ようやく現実へと引き戻される。
 数本の電車を見送ったあと、いつもの電車がやってきた。通勤ラッシュの真っ只中でもほとんど混むことのないこの電車は、僕のぜいたく品。ゆったりとした朝を過ごすためには、数本の電車を見送っても十分おつりがくる。今日はいつにも増してガラガラだ。

 どうして「幽霊」という言葉が気にかかってしまったかと言うと、僕はこの電車のことを「幽霊電車」と呼んでいるから。別に黄泉の国へ連れて行かれるわけではないけれど、この電車はこの時間に、この場所を通っているはずのない電車だからだ。始発はマンハッタン島南端で、そのまま北上し、ミッドタウンを東へと折れ、終点のクィーンズへと向かう。それなのに、なぜか毎朝、不似合いすぎるほどの空席を満載し、ほぼ決まった時間にブルックリンの各駅に止まりながらマンハッタン、そしてクィーンズへと進んでいく。気になって時刻表を調べてみるとやはり載っていない。
 そんなことがあって僕はこの電車のことを「幽霊電車」と呼ぶようになった。しかし、辞書どおりに解釈をするとこの呼び方は正しくない。
 毎朝必ずやって来る。それなのに時刻表には載っておらず、路線外でもある。「存在するように見えて存在しないもの」ではなく、「存在しているのに、存在していない」ようにみなされている電車だから。他の人の目にはあまり映らないからいつも空いているのかもしれない。うーん。透明人間のほうに近いか。それじゃ、これは「妖怪電車」になるのかな。

 混んでいないせいもあって、乗り合わせた人々をゆっくりと見ることもできる。

 大判の本を50センチくらい話して読む男性。
 新聞を読んでいる人もいる。よく見ると3日前の新聞だった。
 ねぐせのついたチャイニーズの兄ちゃん。
 紺色の作業着上下に身を包んだ、レイ・チャールズに似た人。
 音楽にあわせて激しく頭を振り続ける女性。いやフォンの白いコードが出ているショルダーバッグからは、ポタポタと水滴が落ち続けている。
 どの駅でも、停車してから20秒ほどドアを開けない車掌。

 今朝、印象に残ったのはこんな人々だった。

 いくら幽霊電車とはいえ、毎朝ちゃんと目的の駅で降ろしてくれる。階段を上がると真っ赤な衣装に身を包んだ人がビラを配っていた。たった一日遅れてしまうだけで、どこか哀れな印象になってしまったサンタクロースを横目で見ながら信号待ちをしていると、いつの間にか歌を口ずさんでいた。
♪ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲー……♪
 寒風に吹かれながらしばらく唄っていると、僕の顔を覗き込みニヤッと笑う日本人がいた。僕も、幽霊、妖怪のたぐいに見えるのかもしれない。

 さて、「人間の証明」とはなんだろう?
 人間であることを証すものはなにか?
 戸籍か、名前か、住所か、IDか?
 それらを持たないものは幽霊なのか?そうなると少なくとも数年前までの僕は幽霊か妖怪だったことになる。ばけものだ。そんな僕が今は妖怪電車に乗る。
 名前や、自分が所属するところというものはそれほど大切なんだろうか?僕はそうは思わない。ただの人、それだけでいい。

 数日前よりも少し薄くなった人の層が僕の前を通り過ぎていく。
「1分間に僕の前を通り過ぎていくすべての人に、ほんとうに名前があるのか?それは必要なものなのか?」
 そんなことを考えながら、師走だというのにあいかわらずボーッとしてしまう。通り過ぎていく人たちはただの風景に過ぎず、こうして座っている僕だってまた風景だ。〈地球の人〉というのではだめなんだろうか?

 人はいつから名前をつけるようになったんだろう?
 人どうして名乗るようになったのだろう?
 落書きに名前を入れたくなるのはなぜだろう?
 デパートに並んでいるぬいぐるみにつけられたタグとどれだけの違いがあるのだろう?

 こんな風に考えてしまうのも、毎朝、幽霊電車に揺られているせいなのかもしれない。それでも、時刻表に載っているのになかなか来ない電車を待つよりも、幽霊電車のほうが好きだ。そこに実体があるのに目をそむけるのはいやだ。
「○○の見地からは認められない」ということがよくある世界。
「そこにあるんだよ、そこに!」
 名前なんかいらない。

 クリスマスも終わり、街行く人々の表情がどことなく「ホッ」としたように見える。
 おくればせながら、
“Merry Christmas!”


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by seikiny1 | 2007-12-27 10:52 | 思うこと
風がないている?
「あ、もうあかるくなってる」
 台所から水道を使う音で、半分だけ目が覚めた。
「お湯か……」
 お湯の出ているさまを想像しながら、水とお湯とではステンレス製の流しに当たる時に発する音が違っていることをはじめて知った。と、言うよりもはじめて認識をした、。寝ぼけ頭は、突拍子もないことを考えたりする。
 そういえば、流しにカップ焼きそばのお湯を捨てても「ボコンッ」というにぶく、異様な、はねかえり音を最近では聞かなくなっている。そんな音があったこと自体、長い間忘れていた。ステンレスの質が上がったのか、それとも厚みが増したのか。深夜の台所で酔った頭を揺らせながら何度も聞いたあの音は、僕を現実のもとへと引き戻してくれていたのに。消えてしまった音。今の僕が正気であるかどうかを確認できる音はなんだろう?

 風の音、水の音、火の音、光の音……。
 木枯らしに鳴る電線、体を打つ熱いシャワー、煮えたぎるスープ、夏の陽射しにに焼かれていく首筋……。
 僕たちは様々な音に包まれているけれど、その多くはそれ自体は音を持たない。なにか別のものと出会うことによって、はじめて音を聞かせてくれる。まるで人の感情のように。

 いろいろな音が生まれ、消える。
 そんなことを考えながら、また眠りへと引き戻されていった。
 もうすうクリスマス。



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by seikiny1 | 2007-12-22 14:30 | 日ごろのこと
The Winds of God: 空を仰ぐ
気づいたら口をあけているということがよくある。

 夏の空、冬の空、晴れた空、泣いた空、深夜の空、明け方の空。たとえ、それがどんな表情であっても、空はいつも元気を分け与えてくれる。
 小さい頃、よく道端で立ち止まり、通り過ぎていく飛行機を見上げていた。自転車で追いかけたこともある。気づいたら夜空を飛びぬけていく飛行機に見とれていることが今でもよくある。口をあけて。

 空が好きだ。
 こんな僕にもたった一つだけきらいな空がある。
 ぬけるように晴れわたった秋の空。2001年9月11日のことだった。飛行機は、なにものかに吸い寄せられるようにビルディングにめりこんでいった。
“This is KAMIKAZE attack! KAMIKAZE attack!!......”
と連呼するCBSラジオの声に、
「ちがう」
と、いちいち反論しながら朝を迎えた。たくさんの、相手を持たない言葉が闇にかき消されていくのを感じながら。

 今でも、あの時のざらついた気持ちがよみがえってくることがある。


 今朝は、めずらしく霧が出ていて、高層ビルの中ほどから上は雲に隠れて見ることができない。
 重たい空がたれこめていても、この時期のニューヨークは一年のうちでもっとも幸せな雰囲気につつまれる。ホリデーシーズンを迎え、凍てつく風に吹かれながらも、街を歩く人々の表情はどこか穏やかだ。この街の12月は、平和ということを感じ、考える時期でもある。

1941年12月7日
 日本軍による真珠湾攻撃が遂行され、アメリカは第二次世界大戦へ突入した。毎年この日には、新聞やテレビで特集が組まれ、人々は思い出し、識り、平和を喜び、その意味を考える(のだろう)。

1980年12月8日
 ジョン・レノンは自宅であるダコタ・アパートの入り口前で銃弾に倒れた。ひとつの時代の終焉。毎年この日には、セントラルパーク内にあるストロベリー・フィールドにさまざまなバックグラウンドを持つ人々が集い、夜中まで歌声が絶えることはない。

 空を見上げるとき、口があいてしまうのは無防備だから。「なにか」に備える必要はほとんどない。こんな時代に、環境下に生まれあわせたことを本当にありがたく思う。ほんの数十年前、空は恐怖の出入り口だったのだから。今でも、きっと地球のどこかではそうなのだろうが。
自分ではなにもしていない。たまたまそういう現場に居合わせているに過ぎない。

 平和は常にそこにあるものではなく、手に入れるもの。たいせつに維持し、育んでいくものであり、そうしなければならないもの。そんなことを強く感じさせてくれる映画だった。まさに感銘という言葉がぴったりとくる。
 先週の金曜日は真珠湾攻撃からちょうど66年目にあたる。そんな日に1本の映画がニューヨークで封切られた。タイトルは、
The Winds of God

 空を仰ぐ人の口が自然とあいてしまう日がいつまでも絶えることのないよう、ひとりひとりが何かを感じ、その一部でも行動に結び付けていかなければならない。この空は決して常態ではないのだから。
 身近にあるほんの小さなことでいい。

和をもって。
環をつなぐ。



The Winds of God



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by seikiny1 | 2007-12-11 08:34 | 日本とアメリカと
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