ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
<   2006年 11月 ( 4 )   > この月の画像一覧
Wet Paint
「バリ、バリッ」
 いやな音がした。

 昔と比べるとかなりきれいになったとはいえ、ニューヨークの地下鉄構内は日本の常識で言うきれいというところとは少し違う。それはあくまで「かつて」よりきれいといったところだ。ホームの端に立ち線路をのぞき込むと、必ずと言っていいほどに枕木の上を走る大きなネズミ(rat)を見つけることができる。落書きのない駅はまず皆無といっていいほどで、何度もペイントを施された鉄柱はどこも丸みを帯びている。
 MTA(都市交通局)の肩を持つ事もできる。
 深酒をした帰りには〈構内洗浄部隊〉と遭遇することも決して珍しい事ではなく、どうやら定期的に清掃を行っているようだ。そんな時、駅舎の外には数台の大げさなトラックが停まり、コンプレッサーの音と共に圧縮された水をホースへと送り出す。ホースの先に立つ係員はレインコートに長靴といった重装備に身を包み、壁といわず、床といわず、天井といわず洗礼の水を浴びせかける。娑婆の悪が線路の中に流れ落ちて行く。そんな夜はネズミ君たちにとって待ちわびたごちそうの日となるわけだ。
 捨てる人、流す人。善人(ゴミを捨てることによってそれを掃除するという仕事を作ってくれる)とも悪人とも言うことのできる両者。そのネズミごっこならぬ、イタチごっこの終わる日はまず来ないだろう。
 もちろん日中にはホームに落ちた(落とされた)目に付くゴミを掃除する人、ゴミ袋を交換する人、タイルの落書きをゴシゴシと薬品でこする人……、そんな人達を見かけることもある。突如として線路のゴミさえも消えてしまう日もあるくらいだからそこも掃除されているはずだ。それでもやはりお世辞の語尾ががモグモグとなってしまうところがニューヨークの地下鉄。

 そんな中にわなは待っていた。
 そいつはまるでカメレオンのように駅の落書きの中に埋もれていた。よほど気をつけていないと見過ごしてしまうほど情景にとけこんでいた。いやな音に振り返ると、白い紙に黒い文字が書かれている。
”WET PAINT(ペンキ塗りたて)“
 風もないホームで少しだけ斜めを向いている貼り紙。すぐ横では誰かにお歯黒を塗られてしまった大きな美女がポスターの中から脱力感をともなう微笑みを投げかけている。よく見てみるとポスターの枠がゆるい光沢をたたえていた。どうやらこの黒枠を塗ったらしい。それにしても同じ黒枠の中でもまだペンキのはがれたままになったところが数ヶ所もある。ペンキ屋さんは仕事の途中で帰宅の時間となってしまったのだろうか?

 緊張感を持つ。
 それは大切な事なのかもしれない。それはわかっている。しかし僕程度の人間にとって四六時中それを維持するというのはなかなか厳しい。拷問に近いものであるかもしれない。とにかくまたたく間に神経衰弱に陥ってしまうのはまず間違いのないところだろう。その代償といってよいものかどうか、(物的にも、精神的にも)色々な拾い物をするわけだけれど。
 そんな失われた緊張感を呼び覚ましてくれるものに小さな事故がある。どこかでけつまずいたり、よく晴れた朝の数時間後にビッショ濡れになっていたり、はたまた背中にペンキがついてしまったりと。きっと命とは遠い所にいるこんな事故は「ヨシ」としなければならないのだろう。ツケは払わなければならないのだから。
「なれ」という事は常日頃よく考えさせられることのひとつだけれど、そんな中からあと一人の自分をたたき起こすために事故は(あたりまえの話だけれど)なんの前触れもなくやってくる。

 濃紺のダウンベストに入った真新しい黒線を眺めていると風が近づいてきた。

 「なんだか寒い」
 帰宅してそれでもなにかがおかしいのに気づく。スウェットシャツを忘れてきてしまっていた。あの音を聞いた瞬間に浮かんだ「ついてない」という言葉が再び頭をもたげようとしたけれど、やっと強引にねじ込んでやる元気が出てきた。

 今宵、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーに灯が入れられる。
 その光は僕の中の何を呼び覚ましてくれるのだろう?



○この記事を読まれて<なにか>を感じられた方。
ここを押していただけたらウレシイです。



○ブログ《ボーカンシャ》です。よかったらのぞいてみて下さい。
[PR]
by seikiny1 | 2006-11-30 07:32 | 思うこと
夜と朝の間で
 ホームへと続く階段を下りて行くと五本の使い捨て注射器が散乱していた。

 知らない人も多いと思うのだけれど、ニューヨークの地下鉄にも時刻表は存在する。駅によってはあまり目立たない所にひっそりと貼り出している。日本のように堂々と名乗りを上げているのではなく、まるで日陰者のようになぜかできるだけ目立たないように貼られているのがおかしい。もちろんwebからダウンロードする事も出来る。まぁ、普通に考えれば運営する方は事故の起こらぬようダイヤを編成しているわけで、ないほうがおかしいのだけれど。それでもこの街に時刻表は似合わない。いつか来る、必ず来るそんな地下鉄でいい。
「はたして予定通りに来るのか?」
 特に理由はないのだけれどここ数日、時刻表を持って外出している。結果は。なぜかいつも二分ほど早く来てしまう。早く着いてしまったホームで時間調節をするわけでもなくそそくさと次の駅へと向かい、人を吐き出しそして吸い込みまた次の駅へと向かう電車。腕時計は何度もあわせてみた。電池もまだ寿命じゃない。それでも二分早くやって来て、去って行く。地下鉄運営側の時計がくるっているのだろうか。とても几帳面に二分前を歩いて行く地下鉄。ニューヨークらしくもあり、その決めの細かさは彼女らしくもない。
 
 どうしてなんだろう?
 今朝はなぜか時間通りにやってきた。まばらに座っている人達のほとんどが眠っている箱の中。僕が乗り込んで行くと一人が目を開き、少し離れた席へと移りやがった。人を強盗候補とでも思ったのだろうか。用心するに越した事はないけれど、眠ればそれで「ハイソレマデヨ」。洋の東西を問わず、悪い事をする奴はどんなことをしてでもやってのけようとするのだから。安心という言葉がこれほど似合わない乗り物も少ない。お互いにね。
 静まり返った車内でガラスに向かって喋り続けている老女が一人。耳をそばだててみると器用にも一人で二役をこなしている。
 後ろのドアから黒ずくめの男が乗り込んできた。辺りをキョロキョロと見回しながらガラガラの車輌を縦断すると、一度前のドアからプラットホームへ降り、そしてまた前の車輌へと入って行く。どこへ行くのだろう?
 背中で何かが動いている。さっき乗り込んできた男はよりにもよって僕の真後ろに座り込んだ。高速で曲がるカーブでは肩が触れ合ってしまう。乗車率数パーセントの車両内で触れあう赤の他人の肩。日本ではなかなかできない体験だろうけれど、できることならあまりやりたくはない。

 キャナル・ストリートではホームを千鳥足で歩く男がいる。改札のそばで暇そうにしている帽子を脱いだ婦人警官が目だけで彼の後を追いかける。ここにも予定通り、午前四時三十分についた。

 ブルックリン発マンハッタン・バウンドのトレイン。それは大きな音をたてて夜と朝の間を走っていた。同じ箱に乗っていても、同じように眠たげな顔をしていてもそこでは朝を迎えた人と夜のさなかにいる人とが同居をしている。一日のはじまりであり、そして終わりでもある。起点でもなく終点でもない。生きていて死んでいる。

 ニューヨークが素顔のままでいられる時間。
 やっぱり時刻表はいらない。


○この記事を読まれて<なにか>を感じられた方。
ここを押していただけたらウレシイです。



○ブログ《ボーカンシャ》です。よかったらのぞいてみて下さい。
[PR]
by seikiny1 | 2006-11-28 08:52 | 日ごろのこと
感じるの
 いやいやほんとうにこの街には色々なものが落ちている。サンクスギビング・デーの翌日、散歩の帰り道でのことだった。すっかり陽も落ちてしまった繁華街の中で道端に置かれている紙袋をついついのぞき込んでしまった。習慣というものはおそろしい。
「何なんだろう?」
「あたりに持ち主はいるのか?」
「なぜこんなところに、こんなものが?」
「さて、何に使おうか?」
 三歩ほど進む間に様々な思いが通り過ぎ、そして足は戻る。しゃがみ込み、使いそうなものを二つ取り出して手近に落ちていた新聞紙で手早くくるむ。数秒後にはその場を立ち去っていた。
(物を拾うコツのひとつに「スピード」というものがある。スピードを維持しつつも適当な判断を下すというわざは場数を踏んでいなければ出来ない。自分では結構早くなったつもりでいても、三歩プラス三歩。都合六歩分スピードが足りていない。それでも再度自分の部屋のゴミ箱に放り込まれる物もあるわけで、こちらの修行のほうもまだまだ途上といったところだ。)

 包丁のセットだった。暗くなった街を、たとえ新聞紙でくるんでいるとはいえ包丁を手に歩く男の図はあまりいいものではない。さっそく開店したクリスマスツリーの出店の先を曲がりアパートが見えてくるまではなんだか落ち着かない。この落ち着きのなさがまた人には怪しく映るのかもしれないけれど。物を拾うということもこれでなかなか大変なことだ。
 建物の階段を上がりながら頭の中にはもう砥石の音が響きはじめていた。
 明るい場所で見てみるとそれほどいい物ではなかった。それでも研いでみると存外使い勝手は良さそうだ。そうなってくるとどうしても試してみたくなってくる。試し切りがしたくてウズウズするのは武士の専売特許ではなさそうだ。それでもはやる気持ちをねじ伏せながら一夜をすごさなければならない。まぁ、旅行に行く前の楽しさと似ていない事もないなどと自分を説得しながら、その夜は酒で気持ちを落ち着かせることにした。

「魚をおろす時はねー、包丁じゃなくて刃先のほうの角度に神経を集中させるといいよ」
 ずいぶん前に聞いた板さんの言葉がよみがえってくる。図を描いてみれば簡単な、当たり前な道理なのだけれど、それを聞いた時にはまさに目からウロコが落ちる思いだった。
「見えないでしょー。刃先で感じるの。感じるの」
 また声がする。
 研ぎあがった包丁の刃先で「コツッ、コツッ、コツッ……」と感じる骨は「うん、うん。うまくいってるよ」と僕に話しかけてくる。その声を励みに包丁を引っ張っていくと、頭の中にある三枚におろされた哀れな魚の姿がだんだんと濃くなっていく。

 見えないもの、見ることのできないものは他の感覚を研ぎ澄まして感じていくよりほかに手はない。見えないものだからこそ他の感覚が大切になってくる。
 きれいにおろされた鯖の亡き骸の向こう側には目の不自由な人、身体に障害を持つ人達そして自分がいた。。情報を脳に入力する器官が作用しない人達は他の正常に働く器官でそれを補わなければならない。その結果としてよく使われる器官が通常の人よりも発達をしていく。それは彼ら、彼女らの宝物。僕らがどんなに努力しても決して手に入れることの出来ないものだ。なにかを犠牲にしたから、せざるを得なかったからこそ手に入れることができたもの達。それはハンディではなくアドバンテージと言ったほうが正しいのかもしれない。
 ハンディーキャップ。障害者。いやいや健常者といった言葉ですらこういったある器官が発達している人達をどこかで見下しているような響きがついてまわる。それは障害ではなく、ハンディでもなく、ましてや僕らが正常であるとも言えない。数の論理で全てを片付けることはできない。人の顔が様々であるように、こうした姿が〈特別なもの〉ではなくひとつの常態として意識下を通り過ぎて行く状態こそ普通ではなのではないのだろうか。かわいそうでもなく、大変でもなく、彼らの姿がそこの角で信号待ちをしているおじさんと同じように映る時。視点がそこで止まらずに通過していく時。そんな日がそろそろ来てもおかしくはない。
 僕らは決して健常者ではない。
 感じることの大切さ、それを忘れつつある単なる多数派に過ぎない。

 フジ子・ヘミングさんがまたカーネギーホールに出演するという。そんな記事をまな板の上にしかれた古新聞の中に見つけた。なにか少しできすぎた話のような気がするけれど……。



○この記事を読まれて<なにか>を感じられた方。
ここを押していただけたらウレシイです。



○ブログ《ボーカンシャ》です。よかったらのぞいてみて下さい。
[PR]
by seikiny1 | 2006-11-27 03:51 | 思うこと
ごぶさたです
おひさしぶりです。
長い間放置のままでした。
またボチボチアップしていくことにします。
僕のペースで。
[PR]
by seikiny1 | 2006-11-27 03:50 | その他
記事ランキング 画像一覧