ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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天国が少しだけ近く、広くなっていく
 今、締め切りに追われて記事のようなものを書いているのだけれど、むずかしい。日に何本もの記事を書く記者さんやライターさんには頭が下がるばかりだ。
 事実を見聞し、正確にしかも主観を交えることなく決められた文字数内に過不足ない情報を盛り込む。天性のものもあるだろうけれど、場数、そして必要とあらば適宜切り捨てる度胸を併せ持っていなければならない。まさに職人技だ。僕には出来ない。

 その点、現在僕がやっていることは記事のようなものとすら呼べないかもしれない。毎回<お題>を与えられてそれを調べ、取材して自分の中に放り込む。その後、僕の考えと流れで料理する。制約や制限がない分やりやすいともいえるけれど、それは同時になかなか形となって表われてくれない。それが先方から求められている事でもあり模索しながら歩いている。まぁ、僕の中ではめんどくさいけれど楽しい作業であると言ったほうが近いかもしれない。
 一番厄介なのは、自分の中にないものを放り込む、という作業。そこですぐ化学変化が起こってくれるのならいいのだけれど、そうもいかない。これには時間が必要だ。とりあえずそれをある程度自分のものにしなければ次へと進めない。そうしなければ、それまであったものと新しいものをからめる事ができない。お寿司のシャリとネタが口の中でひとつにならない感覚にも似ている。お寿司としての味も大切だけれど、お魚の味もごはんの味も失いたくはない。美味しいお寿司が熟練のお寿司屋さんの手でしか作れないように、僕程度の人間だとやはり時間が必要である。しかし仕上げなければならないし、仕上げてみたい。毎回が新しい挑戦でもある。
 新しい食材を前にした料理人はこんな思いをするのかもしれない。

 それは常に自己満足のため。他人の満足のためではない。そんなところがプロではない甘さなんだ、とはわかっている。しかし、最低でも自分だけは満足させたい。わがままだ。「あーでもない、こーでもない」、と材料をつついて転がしまわっている。しかしうまい具合に転がってはくれない。本当に難しい、創作料理は。しかも職人経験がなく、料理本を見ながらの見よう見まねでなった似非職人には難しい事だらけ。しかし、やはり楽しい。全ての根源は<楽しい>に尽きると僕は考えるから、これはいいことなのだろう。

 毎回こういう事態になることはわかっている。早めに仕込みを済ませておけばそれだけ時間もあり、いくらかでも美味しいものが出来るのはわかっている。それでも自分に言い訳をしてやまない。なまけもの。そして自分の中に苦しんでいる(?)自分を眺めているもうひとりの自分がいるのもわかっている。だからやめられないのかもしれない。
 あとひとつ言えるのは、<瞬間の力>を信じている自分がいるということ。技術や知識が拙い分、その瞬間にしか生まれない力もある。そんな何の根拠もない力を信じて待っている自分もいる。どこかで不完全燃焼を感じながらも。

 苦しみと楽しみは裏表。
 今は悪戦苦闘しているこいつもいつの日か僕のものになる日がやってくる。色々な人に会ってみなければ本当に好きな人に出会うことはできない。照れ屋で、面倒くさがり屋だから人に会うのは好きじゃないけれど大好きだ。
 毎回違った食材(お題)を与えられるのは、苦痛であり、不満足を引き起こし、そしてとっても楽しみでもある。まったく自分とは関係のなかったかのような領域に足を踏み入れる機会になるから。そしてそれを自分の中にネカセておくことができる。いつか来る日のために。その時にはもっとうまいものが食わせられることだろう。

 苦痛は最初だけ。天国を夢見ながら。自分だけの天国を。
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by seikiny1 | 2005-10-29 10:37 | 日ごろのこと
搬入口
 人はなぜかいい景色を好む。同じ見るのならいいものを見たいのは人情だ。
 ホテルもコンドミニアムもwith viewとwithoutでは値段に歴然とした差が出てくる。窓から見えるのが美しい景色であるに越した事はないけれど、隣のビルの窓に映る人影を見ながらあれやこれやと考えてみるのもまたおもしろい。

 いつもはマンハッタンへ入る際に橋の外側になるように選ぶ地下鉄の座席。気付いたら内側に座っていた。それも橋を渡り出してから気付く。午後二時ごろとあって空席が目立つ車両なのにいったいどうしたことだろう?
 いつもとは違う風景が過ぎていく。橋から見下ろす河口の遠景ではなく、目の前にあるのはわたる車もまばらな橋の道路部分。三車線あるうちのひとつは工事のためにふさがれている。

 華やかな場所デパート。しかし窓の少ないその横側にある搬入口のある通りを歩く人の数は少ない。「同じ歩くなら目を楽しませてくれる華やかな場所を」、と思うのもまた人情。しかし、そこにはそういった楽しみと引き換えに雑然とした人の波、騒がしさがあるのもまた事実。裏通りと表通りは一対。現実と夢想が交錯する。いくら裏通りから目をそらしても、そこには確実に裏通りが存在し生きている。
 三十五丁目から見上げるMacy‘s。ヘラルドスクウェアに古くからある老舗デパート。何十年もの煤が重ね塗られた下層階の外壁からは黒のグラデーションが上へと続く。四階より上の部分には当時はいいアクセントだったであろうレンガがはめ込まれている。最上階はレリーフがほどこされたアーチ状の窓。そして屋上のへりには青く錆びた真鍮が七番街の方まで続いている。今では誰も見上げることのなくなったこの面。往時はさぞ光り輝いていた事だろう。

 誰もが美しいものに目を向けたがる。その反面、美しくないものは誰も見向きもしない。そして多くの場合は放っておかれてしまう。まるでそこだけ時間が止まってしまったように。違う空気が流れているようでもある。たとえそこに美が眠っていようとも、誰も掘り起こそうとはしなう。そしてまた誰も見向きしなくなってしまう。いつの日か陽を浴びることを夢見てその面は生き続けるのだろうか?
 デパートは華やかだけれど、そこの裏には搬入口があり従業員の出入り口がある。裏口と表口があってこそデパートはデパートとして機能することができる。
 美しいものの裏側には必ず等身大の現実がある。飲み屋でどんなに派手な人でも、下げたくもない頭をどこかで下げている。そして酒を飲む。それはどちらも現実。裏側があっての表側。逆もまたしかり。

 避けることなく、目をそらすことなく裏側を見ていこうと思う。それがそれのありようである限り。目をそらしていてもおもしろくないし、裏も表も好きになれることほどすばらしいことはないだろう。

 橋の内側に流れる景色。
 それはいたって単調だった。そういえば以前に見た時も一車線がふさがれていたように思う。この工事は本当に終わるのだろうか?
 橋のある部分が灰色がかった青色で塗られていることに気付く。それは単調な青ではなく、陽にやけ排気ガスを吹き付けられて変色した箇所も多い。同じ色の中にも様々な表情がある。
 石の部分には錆付いた金属が埋め込まれていた。これまでの長く、良い歳月をすべて見つめてきたような色をしている。

 表にも生があるように、裏にもたくましい生がある。そこが落書きで埋められていようともその中から何かを見いだしていく。
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by seikiny1 | 2005-10-27 09:38 | 思うこと
巨人軍は強かった
 野球にはまったく興味がない。メジャーリーグはもとより日本のプロ野球にも興味はない。スポーツは観るものではなく、やるものだと思っている。スポーツファンの人には申し訳ないけれど興味がないのだからしょうがない。
 そんな僕でも小さい頃の巨人軍のV9は知っている。テレビをつけると、そして父の読む新聞からはいやでも巨人軍、長嶋、王、川上などの文字が飛び込んできていた。そして、巨人軍=強いものという公式が植えつけられた。ジャイアンツでもGでもなく巨人軍だった頃。

 原体験で<あそこ>にWTC(ワールド・トレード・センター)を見ていた者にとって、それがないという事実は実に寂しいものだ。しかし、生まれてきた時に既にそれはなく、ただそういった事件があった事のみを知る者にとってはそういった感情はあまり生まれないことだろう。
 あと数十年もすればジャイアンツは普通の球団というのが世間一般の常識になっていても何の不思議はない。

 腕を組んだり、手をつないでいる両親を見たことがない。
 そういったことも手伝ってか、人前で女性と手をつないだり、腕を組んだり、肩を抱いたりするのもされるのも苦手だ。これはまったく僕の一方的なわがままなのだけれど、いやなものはしょうがない。
 だからといって他人がそうしているのを見るのは不快でもなく、それどころか「ホノボノとしていていいなー」などと思ったりもする。
 こんな親たちを、大人たちを見て育った子供たち。近い将来、日本人もそういったことをさりげなく、実にうまくやってのけるようになっていることだろう。それにしてもアメリカ人は実にサラッとやってのける。そういったさりげなさがまた好きでもある。

 ニューヨークの地下鉄で一番空いているのは先頭車両。僕はいつもホームを歩くわずらわしさより車両内での安息をとる。いつもホームの端っこ近くで電車を待っている。
 電車がやってきた。目で空席を追いながら停車するのを待つ。
 後ろから乗り込んできた僕と同年輩のカップルが斜め前に並んで腰を下ろした。動き出した電車の中で二人は仲良くおしゃべりにこうじている。男性の腕はさりげなく女性の肩を抱いている。日曜の午後ののどかな光景。

 抱くという行為は単に愛情の表現方法のひとつではないように思う。そのほかに<護る>という気持ちの現われでもある。いくら女性が強くなったからといってもその存在はやはり弱く、護る対象であることがほとんどだ。そういった弱い者をさりげなく護る、という気持ちがさりげなさの底にはあるのだろう。やはり狩猟民族たちの方が我々農耕民族よりもそういった無意識の意識が強いように思う。
 やはり日本人にこのさりげなさが根付くには、まだまだ時間がかかるかもしれない。
 巨人軍はまだまだ勝ち続けなければいけないのだろうか?ご苦労様。

 そんな地下鉄の中でのカップルを見るともなしに見ていた。
 男性がいきなり立ち上がった。電車は三つ目の駅で停車していた。少し前に次の停車駅を告げるアナウンスが流れていた。そう、これはExpress Train(特急)。次の停車駅までは一気に三十ブロックを駆け上がる。
 立ち上がった男性の勢いにびっくりしている女性を後に男性は足早に電車の扉へと歩み去る。女性はまだ座ったまま。
「さぁ、早く。ここで降りなきゃ」
 扉の前で振り返りながら男性は言う。女性はあわてて後を追う。女性がホームに降り立った直後に扉が閉じた。
「まにあった……」

 少なくともあの肩にまわした手は<護り>のそれではなかったようだ。
 ホームを歩きながら女性は一体なにを考えていたのだろう。

 手をつなぎはしないけれど、女性を先に送り出す事くらいは僕もやる。
 抱くという行為は考えずに自然と出てくるからこそその価値があるのかもしれない。抱くことをする前に、護ることを本能で知っていなければそれは自分を抱きしめているに過ぎない。
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by seikiny1 | 2005-10-25 08:09 | 日ごろのこと
忘れ<もの>
 よく忘れ物をしていた。
 家に、学校に、友達の家に、遊び場に、バスの中に。
 バスの営業所には忘れ物を受け取りに何度も足を運んだ。そのうちに係りのおじさんと顔見知りになった。おじさんの後ろの棚には、傘、かばん、本、腕時計、上着……、ひとつひとつタグをつけられた様々な物が入っていた。

 学生のある時期を熊本市で過ごした。そこには国鉄(現JR)が運営していた<忘れ物払い下げ所>があった。保留期限が過ぎて受け取り手のない物を販売する場所。中学生頃から古着の魅力に取り憑かれていた僕は足繁くそこへ通っていた。色々なものを買った。
 今思えば、そこはアメリカのスリフトストアとまったく同じであった。品揃え、そして立ち込めるにおい。ありとあらゆる中古品が所狭しと並べられ、積まれていた。中古品のデパートという言葉がピッタリとくる空間。そこには、飼い主を求める仔犬たちが並ぶペットショップのような空気が立ち込めていた。スリフトストアとの最初の出会い。
 そこで買った一九七六年製、アメリカ建国二百周年を祝うZippoのライターが大のお気に入りだった。そして、手に入れた数年後、ある飲み屋に忘れてしまった。そいつは行方を断ってしまった。今頃、一体誰の手に抱かれているのだろう?大切にされているといいな。

<忘れられてしまう物>という宿命を背負った物もあるのかもしれない。
 人の手から人の手へと転がり続ける人生(物生?)。あちこちで人に思い出を与えながら転がり続ける。
 忘れてしまった物達のその後が幸福である事を願い、そして忘れられた物達を大切にしながら生きていきたい。それは<忘れた>だけで終わってしまうものではないと思う。物は姿を消しても、それにまつわる<もの>は決して忘れられない事を願って。

 物、それはその存在だけではなく、時を経るに従い周りの物や、物でない<もの>さえ切り取って、巻き込んで、重ね着を続けていく。最初の物が消えてしまっても周りの<もの>が消える事はない。何かを見る時に、その物だけを見るか、それともその周りの<もの>まで見るかの違いで様々な事が変わってくる。
 物だけではなく、そのまわりの<もの>も。そしてその<もの>がまた見せてくれる<もの>。終わりなき旅。
 さて、遠くの方に見えるあれはなんだろう?

 いい思い出、いやな思い出。それらは物とは違って忘れる事は出来ない。忘れてはならない。捨ててしまってはいけない。一緒に歩いていかなくちゃいけない。身軽が身上だけれども、そうとばかりは言っていられない。過去と向き合う事もまた大切ではある。

 忘れ物をしながら人は歩いていく。そしてたまには何かを拾いながら。それは誰かの忘れ物。
 忘れた<もの>を、そしてその頃を思い出し、先を見つめる。

 バス営業所のおじさんの後ろの棚に入っていたのは、物だけではなく<もの>もはいっていたんだろう。
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by seikiny1 | 2005-10-23 06:45 | 思うこと
リップクリーム
 子供の頃はチョッキという言葉しか知らなかった。それは毛糸で編まれたかぶり式のもの。中学一年生の頃、ダウンベストが大流行してベストという名をはじめて知った。それ以来、チョッキ=かっこ悪い、ベスト=そうでもない、といった公式が頭の中にできている。それでもベストを着ることは最近まであまりなかった。

 秋もどうやら本物になってきたみたいだ。日中、長袖のシャツで歩く街は気持ちいい。今日はいつもより少しだけ長い時間外にいることになりそうなので、クローゼットの奥からここ三年ほど愛用しているフリースのベストを引っ張り出した。軽く、かさばらず、季節の変わり目には重宝する。

「?」
 ポケットに何か入っている。
 左のポケットからは昨年の今頃、銀座のマツモトキヨシで買ったのど飴。そして、この二年ほど使っているリップクリームが出てきた。
 右のポケットからは、この春に給料を受け取る際にもらった封筒、そしてイーストヴィレッジのバーで自称アーティストが僕の名前をグラフィティー風に書いてくれた紙切れが出てきた。そういえばあの夜、それと引き換えに一ドル紙幣をを持っていかれたっけ。
 封筒はゴミ箱へ、のど飴はダイニングのテーブルの上に。紙切れは再びポケットにしまう。そういえばヨーロッパから帰って来た日にこのテーブルの前に腰をおろし、ズボンのポケットを空にした時に出て来た二十セント硬貨(ユーロ)はまだテーブルの上に転がっている。
 さて、このリップクリームとまたひと冬を越すのだろうか?
 いくつものポケットやかばんの中を転がりながら思い出したように役に立ってくれる。やはり冬場はこれなしだとつらい。それなのにどこかに紛れ込み、次のを買う。まるで昔の百円ライターのように、その生命が永遠であるかのような錯覚にとらわれる時すらある。

 母親にチョッキを着せられていた頃、リップクリームなんてお目にかかったことがなかった。それは<その辺に転がっている>という存在ではなかった。ある日、薬箱を開けたら細かく仕切られた四角の中のひとつにポツリとおさまっているザーネのリップクリームを見つけたときの情景、そのケースの色、赤と青の点、そんなものまでよく覚えている。それだけ特別なものだったのだろう。<何か>のために存在していた大切なものだった。どこかに忘れ去られる事はなかったように思う。
 今では冬はおろか夏場でも「あぁ、リップクリームが欲しいな」、と思う時もある。それは僕の年齢によるものなのか?住み暮らす場所が変わったせいか?地球環境が変わってしまったせいか?

 毎年キチリと衣替えするわけではなく、ただなんとなく袖が長くなったり短くなったり。生地が厚くなったり、薄くなったり。Fade inそしてFade out。季節の終わりに洗濯や、クリーニングに持っていかない物だってある。そしてポケットの中には忘れ物。思わぬ発見。
 そのひとつひとつを通して、ちょっと昔の事を思い出したりする。
 忘れていた物が、忘れがたい物や、者を思い出させてくれる。まるで、そのためにそこへ忘れられたかのように。物を通して情景が目の前に拡がっていく。

 忘れ物をすることはは決して悪いものではない。

 ベストをはおってでかけた。

 あと十日ほどで冬時間になる。長くて寒い冬がそこまで来ている。
 北欧の冬はどんな冬なんだろう?
 冬を忍ぶことで、春の喜びもひときわ大きくなるのだろう。
 冬を経験せずに春の喜びだけを味わう。そこには何か不完全燃焼のようなものがあるような気がする。

 ポケットにはリップクリーム。
 何か忘れ物はないかな?
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by seikiny1 | 2005-10-21 08:09 | 日ごろのこと
HAIKU
 あまりテレビを観ない。それでもたまには観ることもある。昨夜はそんな夜だった。

 テレビのチャンネルはいつも13Ch(PBS)になっている。理由は別の機会にでも書いてみよう。
 機関銃のようにしゃべりまくっている若い女性がいた。どうやら音楽業界のあるジャンルで注目を集めつつある女性らしい。とにかくよくしゃべっている。それでも司会者はうまいもので、時を見計らって相槌を打ったりさらに掘り下げた質問をしたりしていた。
 彼女がひとつの時間内に詰め込んでいる単語数はそれほど際立って大きな数字ではないのかもしれない。しかしあまりにも抑揚のない口調。途切れのない一本調子でのしゃべり。いつまでもしゃべり続ける。内容は、というと、どうやらほとんどが自己主張のよう。
 「若いから」、「そういう機会があまりないから」と言ってしまえばそれまでだけれど、とにかくその音声が耳障りで、めったにないことだけれどチャンネルを変えてしまう。こういったものを受け入れる事が出来ない僕自身にもなにか問題があるのかもしれない。しかし、不快はやはり不快でどうしようもない。
 気持ちばかりが先走りしてしまって、周りが見えないのかもしれない。自分を客観的に見ることは難しいかもしれないけれど、もう少し冷静であってもよいように思う。もっと落ち着いて、ひとつひとつの言葉を大切に。そして、<間(ま)>を持ち、少しだけでもき抑揚をかせればいいのに……。
 まぁ、他人事だからこんな批評ができるのかもしれない。

 <間(ま)>という無音は使いようによっては自分だけではなく、相手をも納得させたり反論を持たせたりすることができる。小さな共有空間に無限のメッセージを詰め込むことが出来る。そうであるからこそ、「次はどうだ?」、などと受け取り手を引き込んでいく。それは音だけではなく、文字、絵画、写真などあらゆる表現手段に言えることだと思うのだけれど。
 <間(ま)>はゼロではなく∞(無限大)により近いのかもしれない。これをうまく使えば(本当になにかを伝えたい時、計算していないのに不意に出てくることがある。それが本当の<間(ま)なのだろう)もっと効果的に何かを伝える事ができるのに。<間(ま)とは決して無駄なものではない。

 こう言う僕自身もいまだに悩んでいる。というよりも、いつも悩んでいる。
 たとえばこのブログ。
 もっと短い文章に詰め込んだ方がよいのかもしれない。
 この文字の羅列を目にし思うこと?
 どうしてもパッと見が重苦しい。アクセントがない。
 文字を減らして空白を増やし圧迫感を与えないように心がけた方がいいのかもしれにない。
 写真はどうか?あまり乗り気じゃない。
 しかし本当に変える必要はあるのか?堂々巡り。
 などなど。
 とにかく情報量を減らしてその分だけ<間(ま)を増やす事をいつも頭のどこかで考えている。しかし何一つとして実行はしていない。ただ、あっちに行ったりこっちに行ったりとウロウロしているだけ。
 僕がチャンネルを変えたように、一見して次の瞬間に次のサイトへ飛んでいく人もかなりいるだろう。
 もし、この件に関して何かいい案があったら教えて下さい。メール、コメントどちらでも構いません。テレビの中の彼女のように自分では見えない部分がかなりあるはずだから。

 詰め込むだけではなく、いや、できるだけ詰め込まないように。受け取り手のイマジネーションを引き出す事ができるもの。しかも効果的に。
 俳句とはそういったものなのかもしれない。空白の中になにかを感じさせる。感じ取る。もっと快適ななにかを求めて。

 やはり年季の入ったミュージシャンのステージでは、無音の中に音以上のなにかがあるのを感じる。早弾きだけがギタリストのすべてではない。しかし、その無音も若かりし頃一所懸命に早弾きを練習し、たくさんの音楽を聴き、様々な人と出会い、とそうした生き方をしてきたその人の音を凝縮した結果なのだろう。一朝一夕で手に入れることは出来ないもの。


♪My love she speaks like silence
 Without ideals or violence......♪
 僕が好きな曲。Bob Dylan
 - Love Minus Zero/No Limits -
 Dylan二十四歳の時の作品。

 今、彼の自叙伝を読んでいる。
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by seikiny1 | 2005-10-20 08:49 | 日ごろのこと
それぞれのスピード
 お行儀よく揃えられた靴。
 ハンガーにかけられフェンスで風にひるがえる洋服。
“WORKS”と大書された紙が貼り付けられたエアコン。

 ニューヨークは足の街。大勢の人が歩いている。運がよければ歩道で色々なものと出会うことができる。それらはまだゴミではなく、そして誰かの持ち物でもない。

「あと四十分しかない!」
 あわててアパートを飛び出す。早足で駅へと向かう。二十メートルほど歩いたところで、右目の端っこに段ボールが飛び込んできた。抗う事はできない。立ち止まって中を見ると本が三十冊ほど。ほとんどが料理の本だった。その横には入りきれなかったのか、十冊ほどが平積みにされていた。手早く二冊を選びアパートへ逆戻り。上質紙を使った料理本は重い。
 映画の開演時間は刻一刻と迫ってきている。時計を止める事はできない。
 本を置き、再び駅へと早足で向かう。さっきの場所を通り抜けざまにまたまた目をやらずにはおれなかった。
「?」
 親しみのある名前が飛び込んできた。Pの文字で始まるその作家は、アメリカへ渡る前から好きだった作家の一人。端っこが折れた大判のペーパーバックの反りあがった表紙が風に揺れていた。なんと平積み本の一番上に乗っかっている。何で気付かなかったのだろう?気付いた時は既に十歩ほど遠ざかったあとだった。
「あぁ、読みたい……」、時間は迫っている。十歩戻ってかがみこみ、それを手にして再び駅へ。その数十秒で地下鉄に乗り遅れるかもしれない。映画に間に合わないかもしれない。何分、連れもいたのでそう何回もやっかいはかけられない。そんなことを十一歩目が歩道につくまでに考え、十二歩目を踏み出した。

 週末でダイヤが乱れ、ホームは人でごった返している。人込みを避けて列車の先頭車両が到着するところまで移動。少しは空いている。
 滑り込んで来た電車は意外と空いていた。ブルックリンブリッジ側に座る。日曜日午後の地下鉄には平日とも土曜日とも違った空気が満ちあふれている。
 右手にCDプレーヤーを持ちリズムを取る人。
 中国誌を広げている人。
 買ったばかりのゲームソフトを機械に入れ、さっそく遊び出す子供たち。
 大きなデパートの買い物袋をいくつもぶら下げている人。
 僕の斜め前の三人がけの椅子には中年男性がひとり本を広げて座っている。列車が地上に出て橋を渡り始めると、その男性は読んでいた箇所に人差し指を挟み本を閉じた。通り過ぎていく午後の陽射しを受けた街並みを目が追っている。何気なくその本の背表紙に目がいった。
 Pete Hamil “Downtown”
 駅に向かう途中で目に飛び込んできたペーパーバックと同じ本。この男性が持っていたのは透明のカバーがかぶせられた図書館のもの。ハードカバーだった。
 もし、帰る時にあの本がまだあったなら拾って帰ろう。出会いとはそんなものかもしれない。
 列車が地下にもぐると男性は再び本に目を落とした。

 チケットをもらい地下へ通じる一つ目の幅の狭いエスカレーターに乗る。三時二十八分開演二分前。
「チッ」
 背後で誰かが舌打ちをする。振り返ることもせず僕はエスカレーターの上を歩き出す。その男はエスカレーターを降りると早足で僕を追い越していく。二つ目のエスカレーターは動いていない。その上を歩いて降りる。地下二階に着くと、背後から数人が走り抜けて行く。三時二十九分。開演一分前。
 舌打ちをした男がトイレに入っていく後姿が見えた。

 館内はまだ明るかった。「ゴトン、ゴトン」、と時折遠くを走る地下鉄の音が聞こえてくる。やがて照明が少しずつ落とされていく。三時三十五分。開演予定五分過ぎ。
 それぞれの時間が、それぞれのスピードで過ぎていく。

「百万ドルもかけて補修工事をやったのにこのありさまだ。二つ目のエスカレーターはいつも動かない。ほれこの自動式になった手洗いだって四つのうち二つが壊れちまってるよ」、ご老人が隣で手を洗う人とおしゃべりを始めた。
 手洗い場の後ろには数人が並んで順番を待っていた。僕の後ろで貧乏ゆすりをしている人がいる。ご老人は石鹸を使い丹念に手を洗っている。水を切った後、ペーパータオルのレバーを五、六回上下させたっぷりの紙で手をふき始めた。今度はどこからかため息が聞こえてくる。
 僕はチャチャッとすばやく手を洗い、レバーを二回上下させ必要量の紙で手をふく。
 トイレの出口で先ほどのご老人と一緒になる。

 映画のストーリーが終わった瞬間に席を立つ人。
 最後のキャスティングまで見て席を立つ人。
 通路の横の席でいつまでもゴソゴソと帰り支度をする人。
 立ち話をしている人。
 早足でトイレへ一直線の人。

 それぞれの時間が、それぞれのスピードで過ぎていく。

 本はもうなかった。
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by seikiny1 | 2005-10-18 08:04 | 日ごろのこと
石畳職人
 人間が作り出すもののなんと頼りのないことか。
 数日前の夜中、懐かしい音で目がさめた。大家さんが春先に修繕してくれたはずの雨漏りが再発していた。長かった今年の夏。その後に訪れた約十日間の長雨。人間のもがきは自然に翻弄されてまた天井が涙をこぼし始めていた。
 人間の力は自然には遠く及ぶ事はない。お釈迦様の掌の上をキントン雲に乗って飛び回る孫悟空の姿を思い浮かべる。コンクリートはいとも簡単に割れてしまう。
 一方ヨーロッパでは、古い寺院が大気汚染による石の風化(劣化)が深刻な問題となっているという。人間の力による副産物が地球上のあちこちで自然を危機にさらしている。

 少なくなったとはいえ、ニューヨークではまだまだ石畳を見つけることができる。
 雨に濡れた石畳。夜の淡い光に照らし出された艶やかな石畳。それは文字通り艶があり、神秘的な光を放つ。その上に立ってじっと見下ろしてみると、石と石の間の小さな溝をタバコのフィルターが、色の変わった小さな木の葉が流れている。アスファルトで舗装された道路に溝はないけれど、石畳にはある。似ているようでまったく異なる表情を持つ石の間を埋めるように。みんなをまとめてひとつのものとさせて機能させるように。
 石畳と地下鉄の内部はなんだか似ている。溝は必要であり、じゃまなものでもある。
 取り壊された古いビルを懐かしく思う僕もただの石。
 そこに建ったガラス張りのビルを見上げて「すばらしい」、と感嘆する人もまたただの石。
 てんでバラバラの石。お互いがどこにいるのか、その存在すら気付かない事がほとんどだ。ある者の無価値が、別な者にはかけがえのないものであったりする。その逆もまたある。僕達はまるで石畳の石。周りに水を流すために溝を掘られた石。

 アスファルトの道では、雨水はその表面を流れ去るだけ。
 土の道では、雨水は地中にしみこみ、その粒子一粒、一粒をひとつにする。しかし、ぬかるみ地すべりを起こす事もある。日照りが続くを割れてしまう。
 石畳の道では、雨水は溝を伝って流れ去る。その溝は、それぞれを隔離しているようで実は一緒にしてくれたりもする。それをどちらと取るかはその人次第。石畳は溝なくして成立する事はできない。溝があるからこそ石畳。

 大雨が降り、その量に都市の排水機能が追いつかなくなった時に街は水であふれかえる。石畳の溝は何の役にもたちはしない。ただ、川となるだけ。溝ばかりではなく、人間が何かを守るために営々と築いてきた柵さえも何の役にも立たない。ただ一面に水が広がるばかり。そこにそれまで見えなかった深い溝があり、大きな壁が立ちはだかることもある。

 車が駆け抜け、数え切れぬほどの靴で踏みつけられた石畳。
 ローマで、石畳を修理している職人さんを見かけた。土中に埋める部分を三角形に削り出した石。しゃがみこんだ二人は気長に鎚で叩き込む。照りつける太陽の下、帽子もかぶらず手袋さえしていなかった。溝は埋まらず、新しい誰かが仲間に加わっていく。

 さて、今度の屋根の修理はどんな具合になるんだろう?
 人間は進歩するからこそ、その価値があるのかもしれない。でも、石畳の溝を埋めてしまうような進歩なら要らない。そこには溝が必要なのだから。自分を取り囲む、誰かと触れ合うことの出来る溝。たとえそれが自然の前でははかないものであっても大切にしていきたい。

 今日は久しぶりにおひさまが顔をのぞかせてくれた。
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by seikiny1 | 2005-10-16 05:08 | 思うこと
性格バトン
 写真家のDEEPBLUE Ryuさんから今度は『性格バトン』なるものを受け取りました。まだ助走がついていないのにいきなり渡されました。なんだかバトンに中華模様が刻まれているようだけれど……。帰国そうそうご苦労様です

 性格は難しい。そういい方ではないと自分では思うし、人はそんなことはないと言ってくれる。自分にも、人にもそのすべてが見えるわけじゃなくまた日々変わっている部分もきっとあるだろう。
「性格は一生変わらない」、と言う人がいる。
「性格は変わっていくもんだ」、と言う人もいる。
「あいつの性格が変わっちまった」、と大騒ぎした事もある。
 全部ほんとだと思う。見方、感じ方でいかようにも受け取れる。算数じゃないんだから。

◇◇◇◇◇◇◇◇
Q1:『あなたは賑やかな人と大人しい人どっちですか?』
 おとなしい。
 かなりおとなしい方だと思う。無理してにぎやかになろうとした時期もあったけれど、しんどくなりやめた。流れに身を任せるうちにそうなっていくのならともかく、やっぱり無理はいけない。どっかがずれてしまい、ストレスがたまってしまう。それはいけない。しんどい。
 おとなしいということと向き合えればそれでいい。これもまた心地よい生きかたでかわいいもんだ。自分らしいとも思う。

Q2:『あなたの性格に相応しい単語を5つ挙げてください』
1)楽天家
 とにかく「なんとかなる」という気持ちがいつも心のどこかにある。そして「なって」きている。それは幸運に恵まれているとか、怖いものがないとかそういったものではなくむしろその逆なのかもしれない。
「なんとかなっている」のではなくて、自分の中を無意識かに調整して「なんとかしている」と言ったほうが近いかもしれない。それを「なんとかなる」と思ってしまう僕はやはり楽天家なのかもしれない。「なんとかなる」、というのは意外とそういうものなのかもしれない。

2)完璧主義者⇔いい加減
 この相対する性格。しかし僕の中では表裏一体。自分の好きなもの、「ピンッ」ときた物には徹底的な完璧主義者の顔で望む。一方、興味のないものにはとてもいい加減。「こんないい加減な男が、この世にいるんだろうか?」と思うこともしばしば。しかし、この二つは切り離す事が出来ない。二人でひとり。それでなんとかバランスが取れている。どっちかひとつだったら?それはこわい。
 子供の頃、好きな本を何冊か丸暗記していた。そらで最初から最後まで音読していた。
 子供の頃、家庭科の宿題の手提げかばんを縫わずにボンドでひっつけて提出した(先生にはばれなかった、と思う)。
 子供の頃、寝癖が気になっていた。毎朝、鏡でその部分を切っていた。そのうち親と先生にばれた(あさはかな完璧主義と、いい加減さの同居)。

3)内気
 間違いなくそうだと思う。この歳になって言うのも変かもしれないけれど内気。そこには「これくらいわかってくれるだろう」、「わかってくれよ」といった甘えがきっとあるはずだ。そういったところは、そのうち直さなきゃな、とも思う。
 最初の一歩、それだけが大変で後はそうでもないのはわかっている。それでもなかなかできない時がある。だからこそ、その一歩を踏み出せる人には頭が下がる。
 女の子に「好きだ」、なんてそうそう言えるもんじゃない。過去に何度かあるけど、その時はそれこそ死ぬような決心をして臨んだことをよく憶えている。

4)爆発
 ごくまれに爆発する。手がつけられなくなってしまう。日頃「パンッ、パンッ」と鳴らない分、それがいい爆発であろうと、悪い爆発であろうととことん行ってしまう。
 しかし、いい爆発は必要であると思う。積み重ね、圧縮し火をつけてみる。持てる力以上のものが出る、これをもっと計画的に、効率よく使うことができればいいのだけれど。
 暴発は慎もうとは思っている。

5)like a rolling stone
 転がる石のように。
 そこに意思はないのかもしれないけれど、転がり続ける。止まってしまうと苔が生えてきてしまう。転がろうとは思わないけれど、転がり続ける石でいたい。ただ、転がり続けるだけではなく不必要な角を落とし、そんな中にもある面を鋭利なナイフのように研ぐのも忘れない。意思のある転がりはこの中に含まれない。
 砥石で研がれたナイフより、不恰好な石が好き。そう作り上げようと思って出来た形でない形。

 うーん、これは性格というよりも希望なのかな?

Q3:『好きな友達のタイプは?』
 『嫌いな友達のタイプ』ではない人。(誰でもそうだと思うけれど)基本的に「あいつはここが嫌いだから友達にしない」、とは思わない。友達の「ここが好き」、「ここが嫌い」、と思うだけ。好きで嫌いな友達もいる。

 しいてあげるならば、思いやりのある人。きれいな目と心を持つ人。場をわきまえて言動を取ることの出来る人。素直な人。豊かな感情を<秘めて>いる人。やたらと周りを<巻き込まない人……。

 さて、どこからが友達で、どこからがそうでないんだろう?
 線引きって結構嫌いなんです。引くのも、引かれるのも。

Q4:『嫌いな友達のタイプは?』
 わがままな人。自分の利得の事しか頭にない人。礼儀を知らない人。言葉遣いを知らない人。努力をしない人。自己顕示欲が強すぎる人。偉そうな人……(まだまだありそうだ)。
 「偉そうなやつ」ってのが一番嫌いかな。何がそんなに偉いの?

Q5:『立ち直りは早い方ですか?』
 結構引きずるけれど、ある場面までくると「いいや!」とひっくり返して吹っ切れてしまう。それでも完璧に忘れることはない。自分では立ち直っているつもりでも、周りから見ればボロボロなのかもしれない。それでもいいと思う。それもまた財産。

Q6:『恋人にしたいタイプは?』
 思いやりがあり、少しの言葉でもわかりあえる人。女性である事を忘れず、忘れさせず、感じさせてくれる人。

Q7:『恋人と一番の親友、選ぶならどっち?』
 恋人 
 残酷な質問ではある。

Q8:『バトンを廻す5人を選んでください』
@だいたい<こんな>性格だと想像はつくけれど、やっぱり知ってみたい yyuko55さん
@逆境に感謝しながら坂道で自転車をこいでいそうな suikayan さん
@「どうやったらあんなきれいなもん作れるんだろう?」、と一度は頭をかちわって見てみたい artigana-g さん
@under the bad moonのもとに生まれた(誕生日が同じだけです。他意ナシ) なんし~さん
@前からちょっと気になる存在で、これを機にその性格も知ってみたい endunham~さん

以上の皆さん。全く一方的で申し訳ないのですが<のんべぇバトン>受け取っていただけたら幸いです。


◇◇◇◇◇◇◇◇
 こうやって書いてみてもまったく自分の性格がわからない。
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by seikiny1 | 2005-10-13 08:15 | 日ごろのこと
深夜のキャッチボール
 深夜にがらにもなく熱い日本茶を飲んだせいだろうか?眠れなくなってしまった。時計を見るとしばらくの間は眠っていたようだけれど、それも長いことではなかったようだ。
 なぜか「寝なくちゃいけない」、なんて考えて寝返りをうったりしながら一時間ほど試してみたけれどあきらめる。冷静な第三者の目で眺めてみると、まるで何かにもがいている子供のようでもある。一体何をもがいているのだろう?

 もがいている。そういう時は考えるでもなく、必ず何かを考えている。お坊さんの言う<無>の世界は遠いかなたにあるみたいだ。そんなもがきと引き換えなのか、考えあぐねていたある事にいいアイデアが浮かんだ。意を決して起き上がる。

 真っ暗な寝室でアイデアが浮かぶ事が多い。そこには半覚醒した自分と闇しかない。頭の全てが働いているわけではないけれど、日頃使われていない部分が使われているのかもしれない。とにかく半覚醒している僕と闇の間に不思議な力が生まれる瞬間があるのかもしれない。僕の中では、覚醒と睡眠がキャッチボールをしている。そして、たまに誰かが
ヒットを打ったりもする。ホームランはまだない。
 闇の中そしてベッドの中の空間。これは、とにかく他のあらゆる誘惑に惑わされる事なく、思考する事ができる空間。しかし思考しようと思って、できる空間ではない。
 こう考えると眠れない夜もそうそう悪いものでもない。

 ベッドから抜け出して浮かんだアイデアを書き留める。ノートとのしばしの仲良しに別れを告げて今度こそ眠れるように酒を飲んだ。時計を見上げてみると午前五時を過ぎている。
「少しだけ本を読んで寝よう」

 朝に弱い。かなり弱い。
 ここでは毎朝、睡眠と覚醒が今度は背中を向けながらキャッチボールをしている。
 たまにだけれど、ここからもヒットが出る。

 食後の(五分程度)の短い昼寝が好きだ。短い時間でかなりのリフレッシュができる。その前と後では頭の回転がまるで違ってくる。

 僕は睡眠との縁がほかの人よりかなり深いのかもしれない。
 一生の三分の一を睡眠にあてるのをもったいないと思う人もいる。しかし、僕の場合、それはかなり必要なもの。ただ眠っているだけではない。確実に生産性があるように思う。もしかしたら、起きておくために眠るのではなくて、眠るために起きているのかもしれない。人は一体どちらが本来の姿なのだろう?
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by seikiny1 | 2005-10-12 09:34
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