ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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いってきます
それでは、いってきます。
しばらくの間お目にかかれませんが、また帰って来た際にはよろしくお願いいたします。
その時何かが変わっているかもしれないし、そのままかもしれない。どちらでもいいと思う。
ただ、その時々の流れに逆らわずに、流されずに生きていくだけ。
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by seikiny1 | 2005-05-17 23:55 | 日ごろのこと
On the Way
 また同じ場所に立っている。右45度に首を回してみる。「そこに有っても、無くてもたいした違いはない」、と思っていたものに。別に意識してそうしたわけではない。そこに立つと、そうする事を習慣としていた自分に気付く。やはり少しだけ寂しい気分になる。有るべきものが突如としてかき消されてしまうのはやはり寂しい。

 電光掲示板の板自体はまだそこにあった。昨夜は夜だったのでそれは闇にかき消されていたけれど,昼の明かりのもと,それは一枚の黒い板になっていた。光から闇に変わった点。
 眼を凝らしてみても作業をする人の姿を見つけ出す事は出来なかったけれど、それは確実にdeconstructionの途中。先日までは赤い光を放っていた(今となっては)黒い板の上の<Biography.>の文字。今では<Biog .>となっていた。周りを囲む赤い枠線も一部が取り外されていた。この何の脈絡も無い解体工事のやり方がとてもアメリカらしくて、口元に笑いが浮かんできてしまう。きっと、あれを設置する時もこんな感じで工事をやっていた事だろう。それを見上げながら苦笑していた人もきっといたはずだ。
 
 そこに結果がある時、それには必ず経過がある。その経過がどういう形をしていようとも多くの人の目にとまる事が出来るのは、やはり結果であることのほうが多いように思う。何かを<結果>としてみる目。それを単なる<経過>のひとつの点と捉える目。同じものを見ていても、違った目で見てみるとそれはまったく違った表情を浮かべてくる。結果は大きな点に過ぎず、経過とは過去、そして未来とつながる先の見えない長い線。
 作る時も、壊す時も一瞬にしてそれを遂げる事は出来ない。そこには必ず経過というものの存在がある。僕達が結果として目にしているものも、長いピリオドで見てみるとやはり一つの経過に過ぎない。完成品である、と思っていたあの電光掲示板も、実は無に還るまでのひとつのピリオドを見ていたに過ぎないという事に思い至る。そしてその無から何かが始まる。
 Deconstructionが教えてくれた事。
 以前に、色々な場所からひとりで、また色々な人と見上げていた僕を包む情景もその一瞬、一瞬がとても小さなもので、どれもが無の方向を向いていたのだろう。見上げているその時にはまったく気付かなかったのだけれど。

 こんな事を考えていたら、飲み屋で隣に座っているスキン・ヘッドのお兄ちゃんの頭が気になってしょうがなくなってしまった。「一体どこまでが顔で、どこからが頭なのだろう?」。はっきりと言えることはただひとつ、頭のてっぺんまで真っ赤になっている事。酒を飲むと顔が赤くなる人は結構いるのだけれど、正しくは頭までもが赤くなるようだ。ただ、そこには多くの場合髪の毛が生えているだけ。髪の毛を剃った瞬間に、その境界線は消えてしまう。そして酒を飲むと頭まで赤くなってしまうというこの事実。顔と頭の境目は無い。ただ単に、髪の生え際であたかも線が引かれているように見えるだけ。
 境界線はいらない。それは引いたものではなく、引かれたものだから。
 僕達はどこまでも、いつまでもon the way。
 それはメビウスの帯の上を歩く蟻のようなものなのかもしれない。どこが起点でもなく、終点でもない。ゴールはいつも新しい出発地点。そうやって人も街も歩き続ける。

 数十年後に、あの電光掲示板があったビルの屋上を眺めながら何かを思う人がいる事だろう。そんな情景を想像すると、なんだか楽しくなってきてしまう。
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by seikiny1 | 2005-05-08 13:55 | 思うこと
電光掲示板
 あの電光掲示板は、一体何年あそこで時を告げていたのだろう?いくつのニュースを人々に伝え続けてきたのだろう?
 セントラルパーク内のシープ・メドウに寝転がればいやでもそれは目に入ってきた。十年程前、午前中からビールを飲みながら見上げていた青い空。昨年の夏の初めに、友達と寝転がってその後ろを流れ、ある場所に達すると全ての雲が消えてしまう不思議な風の流れの話をしていた事を思い出す。
 そこにあることが当然であったもの。あったからといって、別段有り難味を感じることも、邪魔であるとも思わなかったもの。しかし見上げれば、いつも時刻と天気についてひとりつぶやいていた。そんなものが何の前ぶれもなく突如として消えてしまう。そういった出会いと別れが普通なのかもしれない。あの日のWTCもそうだった。

 なくしてしまったものに対する思いが募るのはなぜなのだろう?子供の頃に失くしてしまった消しゴムの事を思い出すことがある。
 <ここにある>=<いつかなくなってしまう>、ということだろう。そんな公式は頭の中ではわかっている。しかし寂しい。わかっていても寂しい。わかっているからこそ寂しいのかもしれない。たとえそれがどれだけ愛したものであろうとも、単にいつも目にしていただけのものであっても必ず別れの日はやってくる。それは無作為であるがゆえに平等で、残酷だ。永遠という言葉はあるけれども、永遠というものはないのかもしれない。
 昔の人は「会うは別れのはじめ」、と言った。小学三年生の時にクラス替えがあり、その直後に新しく担任になった先生が言った言葉。その時の先生や友達とははなればなれになってしまったけれど、その言葉は今でも消えずに僕の中に生きている。
 別れはたしかに辛い。痛みを感じることすらある。それがどんなことであろうとも、皮肉な事に思えば思うほどにその別れは痛みを増してくる。しかし思わずにはいられない。痛みたくないゆえに痛んでくる。

 僕達が生きる世界に永遠、というものが存在しないのであればそれを現実のものとするのは自分自身しかないのかもしれない。あの言葉のように、どれだけの永遠を宿していくことが出来るのだろう?ただ、ただ、そんな永遠を増やすためだけに生き続けているのかもしれない。
 駅からは伝言板や掲示板が消え、かつてはデジタルによる情報伝達のトップランナーだった電光掲示板は街から姿を消した。今花盛りのインタ-ネット上の掲示板だって同じ運命をたどらないと誰も断言することは出来ない。そこには誰も見ることの出来ぬ未来が立ちはだかっている。
 永遠は自分の中にしか存在しないのかもしれない。
 生のある限り消えることのないもの。それはしっかりとした思い出でなくてもいい。いつか、どこかで「フッ」と思い出す。ただそれだけでいい。それもひとつの永遠なのだから。かなうことならたったひとりでもいい、誰かの中で僕自身も「永遠になってみたい」、という思いはある。それに向けての努力はしない。ただ歩くだけ。電光掲示板のように。彼と同じように笑っていたい。
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by seikiny1 | 2005-05-04 17:16 | 日ごろのこと
おしらせ
 急なのですが、あと少しでしばらくの間NYを離れる事になりそうです。今のところ日々の生活は全然変わっていませんが、やはり準備などで(物理的なものではなく精神的なもので)殺される時間がどうしても増えてしまっています。相変わらずノートの方には手書きで色々書いていますけれど、なかなかキーボードに打ち込みきれずにいます。
 正直に言ってしまえば不本意なのですけれど、期日が来る前に前倒しでやっておかなければならないことも色々とあり、そんな言い訳を自分にしながら甘えん坊の僕は更新をとどこおらせています。NYを離れたら、コンピューターに触れる環境ではなくなってしまうので出来るだけ<今>やりたい事をやっておきたいのですけれど、思うにまかせません。
 そうであるからといって「一日が二十四時間以上あればいいのに」とか、「自分がもう一人いればいいのに」、などということは全く考えませんし、きっとこれからも考えることはないでしょう。どんな人間にも平等に与えられるもののひとつが一日二十四時間であり、自分は一人であるということ。それを感謝しています。決してそれ以下ではないという事に。その平等に与えられたもので、どれだけ自分に納得のいくように生きることが出来るか。ただそれだけです。
 たくさんの事をいっぺんにできるほど器用ではないので、ひとつひとつをかたしていくだけ。

 NYに帰ってきた時には少しだけ何かが変わっているかもしれない。
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by seikiny1 | 2005-05-03 16:17 | 日ごろのこと
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