ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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三波春夫

 プリンターのインクが切れた。買わないわけにはいかない。現代人の生活に慣れきってしまうと、それは常に不便と背中合わせである事を感じさせられることが多い。
 近所のインク・ショップでインクカートリッジを買う。価格はメーカーの純正品の約三分の一。写真などの画像を印刷される人にはまた別の意見もあるのだろうけれど、僕の場合は黒しか必要でない場合が多いのでこれで十分に事足りる。

 さて、インクカートリッジや携帯電話に代表されるような電気子機器のバッテリーなどの種類の膨大なこと。そして値段の高いこと。これは一体どういったわけなのだろう?互換部品があの値段で販売できるのだから、大メーカーができないということは絶対ないはずだ。やらないだけ。やりたくないだけ。部品を売り続けることでしか存続できないメーカーたち。
 こんな事を考えていたら、子供の頃よくラジオから流れていた《トヨタ純正部品》という宣伝文句を思い出してしまった。純正部品を強調していたということは、どうやらあの時代からメーカーは廉価な互換部品に悩まされていたのだろう。もちろんプリンターのインクと自動車部品では一概に比べることは出来ないかもしれないが、視点を変えてみるとプリンターという機械がなんと安く売られているか、という事になってくる。ここ数年はコンピューターを買えばプリンターがついてくる。そんなお店があちこちにある。メーカーは部品を売るためだけに機械を開発しているのかもしれない。
 そうしてプリンターを手にした瞬間に、交換部品を買い続ける事を約束させられる。たしかにプリンターはあれば便利なので、ついつい使ってしまう。必要以上に使ってしまうことすらある。使う、買う、使う……。まるでドラッグの魔の循環のようだ。
 もちろん純正品でない粗悪品を使った場合には、本体自体が壊れてしまう可能性もある。そして、それはメーカーの保証外の事になってしまうのだろう。説明書のどこかに必ず明記されているはずだ。こういったメーカーは部品を売り続けなければ、その命脈を断たれてしまうのだから。そのために本体を安く提供しているのだから。やはりこの構図はドラッグ中毒と似ている。
 <交換部品が高い>→<互換品が出る>→<メーカーは新製品を次々に開発する>……。
 この構図は誰かが変えなければならない。こんなものに乗っかっている経済は間違っている、いつか必ず破綻してしまう。

 三波春夫は言った「お客様は神様です」。

 僕がサラリーマンをしていた頃のこと。アメリカに進出した某機械メーカーのエンジニアと酒を飲みながら話す機会があった(その特殊機械の業界は景気の動向が一番最初に現れるという。その頃は日本のバブル経済がかげりを見せだしていた頃だった)。日本から進出した各メーカーの中で、そのメーカーだけは元気だった。話の中で彼は言う。
 「ウチも作ろうと思えば何だって作れます。車にたとえるならばフェラーリだって、カウンタックだって作れます。その技術も力もあります。しかしカローラしか作りません」
 彼の勤める会社が常に腐心してきた事は、数十種類もある大型機械の部品間でいかに互換性を持たせることが出来るか、ということだったという。それは部品製造のコストと在庫を極力抑えることが出来、それに伴う流通コストや人件費をはじめとして莫大な予算の削減をすることができる。そして輸入品であるにもかかわらず常に在庫があるということ。注文を受けたらほとんどの場合は翌日に発送が出来る、というシステムを作り上げたという。お客からの信頼度が、機械販売につながっていった。
 客の立場に立ち、一緒に伸びていこう、という考え方。そして勝者になった。

 その時に利を上げる、それが全てではない。
 商売だけではなく、そんな所に立って物事を考えると何かが変わる。ちょっとくらいひもじい思いをしても、辛くっても。

 同僚の韓国人:Ahnが客からの苦情を受けた後、苦笑しながら言った。
 “Customer is always right”
三波春夫がいるのは日本だけではないようだ。そして今の時代にも彼は生きている。
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by seikiny1 | 2005-04-29 13:48 | 思うこと
ニューヨーク
 【自覚】
 手元にある辞書を引いてみると、
 自分自身についてはっきりと知ること。
 ①自分の状態・地位・任務・価値がどんなものかを、よくわきまえること。そのわきまえ。
 ②自分で感じ取ること。
 ③〔仏〕自分が主体となって迷いを断ち、正しい道をさとること。
  とある。
 辞書を引く前に僕が思っていたことは、
 病気などで言う自覚症状。鼻水が止まらない、などといった自分でわかっいている不具合が意識できる状況。
 それとは別に、意識はしていなくとも、既にそこに備わっている自覚というものもあるように思う。時として、外からの力によって気付かされる。
 日本人としてニューヨークに暮らす。
 このふたつの条件を常に意識しているわけではないけれど、折にふれ<自分が日本人であること>、<ニューヨークに暮らしていること>を気付かされる。
 自覚とは緊張感と表裏一体なのかもしれない。

 やはり気にかかるのは、最近の中国や韓国の日本に対する動き(それは国家だけではなく、個人をはじめとする<人>にまで向けられているように思うのだけれど)。日本からもらうe-mailには「ニューヨークは大丈夫?」、といった内容の文が添えられていることが多い。少なくとも今の時点ではこれといった問題はない。

 この街の魅力、そしてそれを作り上げている要素のひとつに緊張感というものがある。別に常にピリピリとしているわけではない。たまに頭の上にのっけたお皿を意識してしまう、そんな心地よい緊張感。ハッ、と精神が引きしまる瞬間はほかの都市よりはまだまだ多いはずだ。
 それは<危険と同居している>、といったわけではないのだけれど、電車で隣に座っている男がいきなり拳銃を引き出し僕の頭に銃口をあてても何の不思議もない。そんなことを納得させる空気が流れている。ゆるんだ空気の中にさえ張りつめたものを見つけることが出来る。ここは、そんな緊張感の上で常にバランスを取り続けている、まるでやじろべえのような街。支えているのは、なんともたよりないまるで針のような支点。
 月並みな言葉に「ニューヨークはアメリカではない」、といったものがある。それだけ様々な国から来た人や、文化的背景を持つ人々が<共存>している。それぞれが、自制とけん制を行いながら。主張と妥協を繰り返しながら。それぞれが、何とか理解しようと泣いたり笑ったり。そんな中から道を見つけていく、生きていく正直な姿がここにはある。
 こういったバランスのとり方が、現代の国際社会の理想なのかもしれないと思う。
 人間という事意外に何の共通項も持たぬ者同士が、ののしりあい、主張をし、そんな中から何かを見つけていく街。見つけることができる街。強烈な欲望と安堵のための衝突の街。
 ここにいる者達が-国を捨ててきた者達ばかり-と言われてしまえばみもふたもないけれど、人間は誰もが弱い。決して一人では生きていくことはできない。たとえ横にいる者が悪とわかっていても、足並みをそろえなければならない時もある。弱い者が自分の弱さを認め、それが許される街。弱い者の心がわかるような気にさせてくれる街。

 この街で民族や宗教間の大衝突が起こり、それを収拾しきれなくなってしまった時、それは世界の終わりかもしれない。

 十年以上前のことだけれど、黒人と朝鮮半島出身の人々の間に短期間にいくつかの小さな衝突が繰り返された。ちょうどロスで黒人の暴動(この暴動という言葉で表現されきってしまうことにも、いまだに疑問が残っている)があった頃の前後であったように思う。この時も、それはある程度の規模以上になることはなく次第に沈静していった。

 中国人の友達が言った。
 “I love my country, but I don’t like my government. And I LOVE NEW YORK!”
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by seikiny1 | 2005-04-24 13:05 | ニューヨーク
さぁ、飛び乗れ!」、そして……。
 初めてニューヨークでバスを降りた翌日、三十四丁目にあるメーシーズ・デパートへと出かけた。以前に何かの本で読んだことのある、木製のエスカレーターを見るために。意外な事に(当然と言えば当然だけれど)それは黙々と与えられた仕事をこなし続けていた。
 エスカレーターが一般に使われ始めたのはいつのことなのだろうか?事の始まりは多分ベルトコンベアーなのだろうけれど。人を運ぶ、という目的を持ったエスカレーターという物の起こりは、「二階、三階にも多くのお客さんに足を運んでもらい、限られたスペースでもっと効率的に金儲けをしたい」、といった意外に単純な商売上の理由からではないのだろうか。新幹線の停車駅付近の町が栄えるように、それは二階以上の階の売り上げを人と一緒にグンと引っ張りあげたことだろう。

 一九七〇年に開催された大阪万国博覧会では<動く廊下>が話題になった。今でこそ、ちょっと大き目の空港へ行けばどこででもお目にかかることが出来るけれど、小学校に入りたての僕が憶えているくらいだから当時としてはかなり大きなニュースだったのだろう。最近の記憶では、ラスベガスや昨年行った沖縄の海洋博跡で乗った、エスカレーターと動く廊下の中間に位置する<動く斜面>には少し驚いた。考えてみれば、これこそ工事現場のベルトコンベアーその物なのだけれど。

 階段が、廊下が動き出し、そして人間もまた動くようになった。
 一体いつの頃から人はエスカレーターの上を歩くようになったのだろう?
 ニューヨークに来てしばらくしてから、そういった人達が結構いる事に驚いていた自分がいた。そして昨年の日本。それに乗るほとんどの人が歩いていた。エスカレーターの脇には「歩かれない方は、左側へお立ち下さい」、といった看板をあちこちに。どうやら<エスカレーターの上を歩く>事の方が今では主流のようだ。
 それに乗り、さらに歩く事によって速度が変化する物。そういった意味では、エスカレーターは唯一無二の乗り物かもしれない。
 そんなに急いでどこへ行くのだろう?左側に立つ僕は、何度もにらむような視線を感じた。出発から到着までの所要時間の差は数秒程度だろう。しかし人は前へ、前へと進む習性があるのかもしれない。そしてエスカレーターで、つかの間足を休める僕は怠け者なのだろうか?始点も同じ、終点も同じ。そこにあるのは「何を求めているか?」の違いだけ。しかも、それは極めてあやふやな場合が多い。

 当初の目的から少しだけはずれ、エスカレーターはスピードアップすることの出来る乗り物となってしまったようだ。上がったり、下がったりするだけの乗り物ではない。楽をするためだけの乗り物ではない。自分をむち打つ乗り物なのかもしれない。
 ここニューヨークでは、静止しているエスカレーターもまた多い。そういう物に出会った時、僕ははるか上方を眺めてため息をつきそうになる時がある。一方で、その上を歩く事になれている人達は不機嫌になったり、イライラしたりするのだろうか?
 頭では「静止している」、とわかっていても最初の一、二段目ではついついたたらを踏んでしまう。そこにあるべき物。あって当然な物。それが消えてしまった時に、人間の何かがこぼれ落ちる。

 かけ声と共に飛び乗った我々のうち、ある者はその上を歩き始めた。さぁ、次は何だろう?いっそのこと飛んでみるか!もしかしたら空を飛ぶことが出来るかもしれない。

 動く廊下の上を歩く時の、フワフワとした浮遊感は結
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by seikiny1 | 2005-04-22 12:30 | 日ごろのこと
空白
 僕は決して下手な字を書くほうではないと思う。書かねばならぬ時にはそれなりに書くことが出来る。しかしノートに書く時は、まるで脳ミソのからの出力について来れない鉛筆がもどかしいかのように字が踊っている。なぐり書きのようになってしまう。はっきり言えば悪筆だ。ただ、そこから何かが展開をしていくこともある。それは躊躇していたその一歩を踏み出した途端に自分の意思とは無関係に様々なことが起こる、冒険旅行にも似ている。
 僕と鉛筆の不思議な関係。

 僕はセコイ。だからノートはそれが文字であろうと、絵であろうととにかく何かでギッシリと埋められていなければ気が済まなかった。思いつくまま、鉛筆が動くままに任せてスピードで書き込む。ピリオド。それっきり。読み直すことはおろか、古いページを繰ってみることすらあまりなかった。それでもここ数年分のノートはとってある。それもセコイから、という理由からだけなのだろう。捨てる事ができない。これからも読み返すことは多分ないとだろう。それはデジカメで撮られた写真が入ったCDや、テレビ番組を撮ったビデオテープと同じで記録することだけで安心をしてしまっているのかもしれない。あとは山と積まれていくだけ。悪筆ゆえにそれが自分の書いたものであるにもかかわらず解読不可能な場合が多々ある、という言い訳も出来ないではないけれど。
 とにかく僕にとってのノートは単なる消耗品に過ぎなかった。

 ちょうど一週間ほど前から、<いかにスピードを保ちながら読みやすい文字を書くか>,ということを心がけている。ノートの方も初めての試みとして、左半分だけを使い、右半分はひとまず白紙のままで残しておく。左側のページも左端の三センチほど残しておき、簡潔なタイトルのようなものを書いている。右ページの空白には後で気付いたことを書き加えていくために。<読み返すもの>としての前提を持つノートに只今挑戦中だ。実際には右ページの方のが足りなくなってしまうこともままある。これまで使い捨てであった自分の考えを見直すことで、さて何が変わるのだろう?とても興味のあるところだ。
 空白。そこには無限の可能性がある。
 それはちょうど新しいノートに変えたからかもしれない。焼き鳥屋に入る十歩ほど手前でそんなことを思いつき実行をしている。こんな事に今更ながら気付いた。気長に自分という範囲で少しでも完成品に近いものを作るために。

 空白とスピード。このふたつは今僕の中では共に大切なものとなりつつある。空白は作ろうと思えばどれだけでも作ることが出来るだろう。だからこそ振り返ってみることもまた大切。スピードは注意を払いながら上げていく。このふたつをうまくバランスさせることが出来れば何かが変わるかもしれない。
 鉛筆以外のスピードはこのままで、自分の中にももっとたくさんの空白を作っていこうと思う。

 高校生が気付くようなことを今やっている。自分自身を消耗品として終わらせないために。
 ノートを細枠から太枠に変えた時、自分の中で何かが変わっていったように感じた。さて今回の手ごたえはどうだろう?
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by seikiny1 | 2005-04-21 12:45 | 日ごろのこと
SHAVEのSLAVE
 よく前を通るガラス張りの小さな店がある。先日信号待ちをしながら何気なくその店を眺めていた。オープン直後の午前中、三人の店員と思しき人達がデスクを囲んで談笑中。朝ののどかな風景を感じながらガラスに目を泳がせて見るとそこにはポスターが一枚。いつからそこに張ってあるのだろう?今まで気付いた、意識したことはなかった。
 「!!!、???」
 それは一瞬であったけれどすごい勢いで僕を襲ってきた。<SLAVE>の五文字。混乱しながらもよくよく見直してみると書かれている文字はSHAVEだった。その上にはT字型剃刀の写真。正体がわかっても僕は<SLAVE>という言葉を引きずり歩き続けた。
 僕の中ではSHAVEよりSLAVEの方が重きをなしているのかもしれない。
 常に何かの奴隷であり続ける自分がいる。たとえば「毎朝ひげを剃らなければ<ならない>」。そんな生活をしている。ホームレスの頃はイヤになったら、自分で不快を感じたら剃るだけだった。果たして個人的にはどちらが幸福なのだろう?はかりになんかかける事は出来ない。失ったものもあれば得たものもある。比較の基準がまったく異質なものである。それでも人は比べずにいることが出来ない。まったく同じ言葉<幸福>で表わされるもの。それでもひとつひとつがまったく違う要素から成り立っている。共通しているのは常に何かの奴隷として生き続けるということ。しかしその奴隷は多くの場合自分の中にある。奴隷である事に引きずられている。SHAVEのSLAVEに自分からなっているのかもしれない。

 奴隷。それは心の持ちようで変わってくるはずだ。朝のひげそりを心地よく感じる自分を持つことが出来れば、それは義務から楽しみへと変わる。SHAVEのSLAVEから解放される。
 このお店は男のこだわりグッズのお店。ヒゲソリ用品の専門店。ただの道具へのこだわりだけではなく、そういった<精神面でのひげそりとの接し方を変える>というところにもこのお店のコンセプトはあるのかもしれない。たしかにその一枚のポスターは物事から解放される方法を僕に暗示してくれた。

 楽しみながら生きていく。嫌なものでもいいところを見つける。好奇心を持つ。嫌なやつの(自分では否定している)長所に目をあててみる。そんな小さな解放の積み重ねによって僕らは幸福になれるはずだ。
 まず手はじめに半年ほど使っている刃を交換してみよう。一年に数回しかそれを行わないほど僕はズボラ。交換した直後の肌の上をすべるような感覚は好きだ。変えればそれを味わえる事はわかっている。しかしその幸福は長続きしない。<滑らない>と感じるのは何日目からなのだろう?それはある日急に滑らなくなるのではなく、緩やかな曲線を描いて滑らなくなってしまうはずだ。しかしひげそりが毎日の点点の行為である以上、その日は突然やってくる。自分の感覚や、その時の気分もそれに影を落とす。そしてその曲線は段々とゆるやかな勾配になりそれでもいつまでも剃れ続けていてくれる。刃を交換した直後に大きな幸福感を味わうためだけに僕は刃を交換しないのかもしれない。そこにはいつの日か訪れる幸福の保証があるから。いや、その幸福はすぐに逃げ出してしまうことを知っているからなのかもしれない。幸福を失うことを怖れているからなのかもしれない。そして、ガサガサと引っ掛かり気味に肌の上のデコボコ道を進んでいるそれも「ひげを剃っている」という実感があり決して嫌いではない。
 たった一本のひげそりでこれだけ考えることの許された僕は幸福なのだろう。ありがとう。
 そう、物事は見方次第でどのようにもなる。誰だって幸福になる事が出来る。
 生活の奴隷にはならない。
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by seikiny1 | 2005-04-19 14:02
おやすみなさい(疲れで変な文になってしまいました。気というのは大切なものなんだ)
おやすみなさい(疲れで変な文になってしまいました。気というのは大切なものなんだ)

 今日は土曜日の夜。しかも結構疲れているのでお休みさせていただきます。
 相変わらず細切れな時間を見つけては、ノートに書いているのですけれど。とてもアップする気力が起きません。鉛筆で書いたものをそのままアップできれば楽なんですけれど。「ノートの紙面を写真に撮ってアップしようかな?」、とも考えた。しかし、あの文字たちは僕以外の人には読むことが出来ないでしょう。

 久々に早く帰り着く予定が、週末に行われている路線工事のために地下鉄のラインが変更。乗り換えた地下鉄もエクスプレスのはずなのにいきなりローカルの路線を走り出し、そのうえ信じられないほどののろのろ運転でした。
 結局、帰り着くまでに一時間半(普通だと二十分ちょっとくらいなんですけれど)もかかってしまい、それだけで疲れてしまいました。まぁこれもニューヨークの地下鉄ならではなのですけれど。頭の中が「三十分後にはビール」という色に染まっていたのでやはりつらかったです。同じ車両に乗っていた人達も、そのあまりの遅いスピードに一様にあきれて、疲れた顔をしていました。静かな車両内に不思議な空気が流れていました。そんな障害があっても目的地に着くことができるだけでも幸せなのかもしれません。高いお金を払って乗ったのにも関わらず、途中で沈んでしまったというタイタニックの例もありますから。「納期には間に合わなかったけど、納品はしたよ」、というところでしょうか。そんな頭をひきずりながら駅を降りてしばらく歩くと最近では珍しいことなのですが発砲事件直後のシーンに通り合わせてしまいました。この辺りも近頃ではヤッピー風の人が集まりだし、街にある意味で活気がなくなってきていたはずなのですけれど。

 この文章はキーボードに直接打ち込んでいるんだけれど、やはり疲れる。毎日色々なことを思いつくままに「ダダダダダ……」っと打てる人を本当に尊敬します。

 それではおやすみなさい。


 境セイキ
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by seikiny1 | 2005-04-17 13:21 | 日ごろのこと
9800と8900
 「なんでこいつがあるんだ、こんなもの消えてなくなっちまえばいいのに」
 
 アメリカのごく普通の文房具屋へはいり鉛筆を買う。棚には数種類のものが並べられているけれど、そのほとんど全てのお尻に余計なものがくっついている。毎度の事ではあるけれど、それでも時として憎たらしくなってしまう。これは女性の下着や水着に対する感情にも似ているのかもしれない。
 消しゴム。

 鉛筆の最大の特徴と言えば<消せること>。これを使う多くの人はそれがあるからこそこの筆記用具を使うのだろう。小学校の低学年ではこの割合はかなり高いはずだ。買い与えられた物ではあるのだろうけれど。こういった原因からか、この二人は密接な関係にある。消しゴムはまるでろくでなしのダンナの尻拭いをする女房のようでもある。切っても切れない関係。それにしてもこの二人は一体いつから所帯を持つことのなったのだろう?どうしてそんなろくでなしと別れないのだろう?そんなにこのダンナには魅力があるのだろうか?そして、どうしてこの国では日本以上にこの二人は仲がいいのだろう?まぁ、合理的なことが好きな国民性の現われなのかもしれない。それならばどうしてもっとよく消えるものをひっつけないのだろう?質より量、といった考えがどうしても主流なので減りの少ない物を選んでいるのかもしれない。

 僕は最後のギリギリまで鉛筆を使う。消しゴムが邪魔でしようがない。そのため短くなってしまい書きにくくなった鉛筆にはカッポスをつける(このカッポスとは標準語か外来語だとつい最近まで思っていたのだけれど、そうでない事がわかった。多くの人にこの用語が通じない。文房具用語では<補助軸>と呼ぶらしい。鉛筆が短くなった際に装着する銀色の軸のこと-こいつのお尻にもたいてい女房殿がついてくる-)。その際に消しゴムによって微妙にサイズが違うせいか、そこが引っかかって入らないことがある。外出の際はキャップをつけてかばんに放り込む。短くなってくるとキャップが鉛筆と消しゴムを結ぶ金属の部分より奥へは入っていかず、すぐに抜け落ちてしまう。削ろうとすると、コレも金属部分がじゃまをして最後まで削ることが出来ない。鉛筆の寿命をまっとうさせてあげる事が出来ない。天寿がまだ残っているのに……。寿命を宣告された病人が早く死んでしまうようなものだ。消しゴムの分だけ余命が目減りしてしまっている。
 そして何よりも僕は消しゴムを一切使わない。そのくせにこの嫁はうるさくつきまとう。どこへ行くにもついてくる。ついてくるだけならまだマシだけれど、いちいち小言をたれる。
 鉛筆の後ろの消しゴム。
 僕の身の回りで一番無駄なもの。

 鉛筆と消しゴムは同時期に発明されたのだろうか?多分鉛筆の方がおじいさんだろう。
 消しゴムが発明された時、人々はさぞや喜んだことだろう、それはひとつの革命と言ってもいいかもしれない。その衝撃は、再生だけではなく録音・消去が出来るテープレコーダーが世に出た時以上のものであったかもしれない。
 「失敗をしてもやり直しがきく」
 犯罪者をなぐさめてもそれほど喜ばれない言葉かもしれない。道理ではそうなのだけれど、現実はすべてが道理にかなっているとは言いがたいのは周知の事実。しかしこれらの記憶媒体は、その道理と現実をほぼ等号で結んだ。 何度もやり直すことが出来る。素晴らしいことだ。<失敗>という事実を消し去ることが出来るのだから。成功はそうそうないかもしれないが、とりあえず失敗は減る。いや、消せると言ったほうが正確かもしれない。
 これはあらゆる記憶媒体に言える事かもしれないけれど、消し込みが出来るという事実はその分だけ緊張感を削いでしまう。一度きり、という事実が遠くなってしますから。テレビでNGを出しても撮り直せばよい。一文字、一文字を緊張して書くことも以前のようにはなくなったことだろう。「ここ一番」、と張り切ってデートをする男も減ったのだろうか?
 間違うことを前提にする、とまでは言わないがそれを供してくれる鉛筆。
 しかし僕はその最大の魅力を使わない。これは絶世の美女を嫁に持つ男が、その容姿をあまり見ることなく一つ屋根の下で暮らしているのにも似ている。その男には容姿などはどうでもよいのかもしれない。その美貌ゆえに周りで噂をされたり、嫁に言い寄ってくる男がいたりしてかえってじゃまに思っているのかもしれない。彼が惚れたのは女房の美貌ではなく性格なのだから。それだけで幸せなのだ。
 僕が鉛筆を好む理由は、書き味がよいこと。それゆえにスピードが出ること。削る時の香りや感触も好きだ。その他にもいくつでもあげることが出来る。ただ、その中には女性に対する感情のように言い表すことの出来ないものもある。女性を好きになるのに理由はいらない。
 消しゴムを使わないのもやはりスピード、ただの面倒くさがりなどといった理由からだ。嫌いになるのにも理由のない時がよくある。

 以前は「自分の過去を消してしまいたい」、と思うこともあったがではそうは思わない。「消されてたまるか!」、というのが本音だ。そのひとつひとつが貴重なものだから。はたから見ればへたくそな文字であっても、それは僕の宝。愛着がある。

 好きな鉛筆は<三菱の9800>と<トンボの8900>。


 *女性の方を不快にしうる表現があることをお詫び致します。愛するものはやはり女性と重なる部分が多いということをご理解いただけたらと思います。
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by seikiny1 | 2005-04-16 14:02 | 日ごろのこと
白色の街
 本当に白いイヤフォンをよく見かけるようになったものだ。別に欲しいわけではないけれど気になる。それだけi-podが売れているということ、そして白のヘッドセットが珍しく、目につくということだろう。この色にしたのは僕達が考える以上に、時代を読んだ、時代を変える大きな決断だったのかもしれない。

 長い間オーディオ機器といえば<重厚長大>が良しとされてきた。やはりそこには音が安定するという理由があるのだろう。そして色と言えば黒とシルバーが基本であり、それ以外の色をあまり見かけることはなかった。色に関しても重厚なイメージを大切にしてきた結果だろう。そして白までの過渡期にはウォークマンに代表されるような俗に言うパーソナル・オーディオそして携帯電話の普及で様々な色が出た。しかし僕の知る限りでは白は珍しい。しかも常に外部に出ている物、イヤフォン。それらはついこの間まではイヤフォンとは呼ばれずヘッドフォン、ヘッドセットだった、色は黒。
 白色。それには軽快な、清潔なイメージが宿る。医者はや理師は白衣を着る。何らかの安心感を与える作用もあるのかもしれない。しかしそれは使いようによっては軽薄、華奢にもなり、ことイヤフォンに関しては深夜にテレビを観ていた父親の背中とダブる。数十年前のパーソナルな音の出力機器はモノラルで安っぽいつくりのイヤフォン。色々なコードの長さの物が売られていた。ペラペラの膜が振動しているような音がまたその時代にあっていた。今にもコードが「プチッ」と切れたり、「バキッ」という音と共に膜が破れそうなイメージが伴う。
 i-podは《白》という結論を出した。

 その色が珍しいだけに人目を引く。イヤフォンという古典的な名称。そういったものがまたそれを持つ者の心をくすぐるのかもしれない。革新的な差別化戦略とも言える。ターゲットはコンピューターを持つ人がほとんどだろう。時代はもうそこまで来てしまっている。「持っていて当然」という強気の戦略。これはコンピューター需要の掘り起しにもつながる。
 イヤフォンの先にはi-pod。その先にはコンピューター。そのまた先にはそういった生活レベルにある人。そんなことが連なっていく。

 こういうものを持つ人が爆発的に増えるということは、今、マンハッタンは景気がいいのだろうか?そんな世界とは全く無縁な僕にはわからない。そしてここ数年はビルの建設ラッシュでもある。それらのデザインに共通しているのは、ガラスやステンレスの多用。この街のあちこちに真新しく光り輝くビルが誕生している。それらが新しい街の風景の一部となり、不器用にこの街に溶け込もうとしている。
 これらのビル、白いイヤフォンと似たようなイメージを受ける。その押し出し方、コードの先にあるであろう物。新しく、軽快・清潔感がある。都会に住む者の心をやわらげ、少しだけ自意識を刺激してくれる。本当に持っているのかどうかさえわからないステイタスの中を漂わせてくれる。いい意味での誤解をさせてくれると言ってもいいのかもしれない。
 だが、白いイヤフォンは取り替えることが出来る。ビルは余程こまめにメインテナンスを行わなければ、時と共にその輝きは鈍くなってしまう。その求められる耐用年数はi-podとは比較することすら出来ないほどに長い。百年後に今のフラットアイアンビルに見られる、まるで使い込まれたあめ色のかばんのような光沢を放つことが出来るのだろうか?<味>が出ることまで計算して設計されているのだろうか?
 ただ、これは今現在の僕の価値観。百年の歳月を経ればその<味>といったものも変わっているのかもしれない。黒いヘッドフォンが白いイヤフォンに変わったように。今、都会を染めつつある白色と無色。それはいつの日か田舎の風景にさえ何の違和感もなく溶け込んでいるかもしれない。その時に都会の色は?

 オーディオ機器の定義も変わり、キャディラックもリンカーンも小さくなった。この国も小さくまとまる道を歩んでいるのかもしれない。国策と共振していると言えないこともない。重厚長大、軽薄短小。時代と共に価値観は変わる。

 どうやら白いイヤフォンが気になるのは僕だけではなさそうだ。i-podを狙った強盗が急激に増えているらしい。彼らは白いイヤフォンの先に何を見ているのか?
 昔、いつも真っ白な靴下をはいているホームレスがいた。
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by seikiny1 | 2005-04-15 13:39 | ニューヨーク
着火材
 結構と言うよりも、かなり数字にこだわってみたり、縁起をかつぐほうだ。「あそこの横断歩道だけは直角にしっかりと曲がり、はみ出さないように渡る」とか「地下鉄の改札は一番端を通り抜けなければならない」など。自分の中で<3>と<9>がラッキーナンバーだと何の根拠もなく信じ出して少なくとも二十年は経っていると思う。こんな人間がギャンブルなんかやりだしたら大変だろう。
 毎朝、まず占いから全てが始まる人がいるけれど、そんなことをしていたら僕の場合はがんじがらめに縛られてしまい身動きが取れなくなってしまいそうなので絶対に読まない。たまに、その日の終わりに読んでみて、納得したり、こじつけてみたりするのが心地よい。

 何かを書く時、そばにはいつもビールがいてくれた。それがひとつの着火材になっていた。まずビールを買い,どこかに腰をおろす。ビールを少しずつ飲みながらボンヤリとして、それから思いついたことを書き始める。
 最初は多分自分の本能から、欲望から出たものに間違いない。しかしいつの間にかそれが儀式になっていた。そしてそのこと自体に縛られていた。それは着火材ではなく、単なる自分に対する言い訳。それに脳ミソを反応させて着火材と位置づけていただけなのだろう。
 最近、少しだけ酒に弱くなったせいか、いつの間にか着火材を使わずに火を起こしていた事に気付く。<とにかくどこかでノートを広げて書き始める>。しいて言えばこれが着火材になっていた。バーベキューの炭にとにかくマッチと紙を使って着火しているようなものなのだろう。ただ、いくつかの条件の中で<外で>、<どこかに坐って>というのはやはり抜けない。これは必要条件なのかもしれない。少なくとも今、現在においては。

 着火材、数字、縁起……。こんなものにこだわってしまうのはやはり自分に自信がないからだろう。「何かすがりつくものが欲しい」。何かを頼りにし、うまくいかなかった時にはその責任をそちら側に振る。そうしてあれや、これやと頼りながら生きてきている。ドラッグにはまり、その深淵に落ちていったのも僕の中のそうした何かに頼る性質から出ていたのに違いない。「何かが見えるかもしれない」、「とりあえずこれをやっとかなきゃ」。そんなことはそれをやるための単なる言い訳だった。
 着火材、誤解を招いてしまうかもしれないけれど、それはある意味では宗教と少し似ているのかもしれない。
 そんな着火材をひとつずつ葬り去る事によって人間は少しずつ強くなる。自分に、自分の持てるものに頼りながら小さな、大きなことを解決して自信というものを身につけていくのだろう。

 実は、最近少し忙しくなってきたのでここ数週間は小さな時間を見つけては「サッサ」とノートにメモ程度のものを取ることが多かった。しかもシャープペンシルを使って。文章を書く作業はキーボードに打ち込む際に行っていた。しかし、それは作り出された声に過ぎない。しかも、とても未熟な。それをはじめてから、数日を経た頃から違和感のようなものがつきまといはじめた。自分の中で全く納得のいかぬまま終わってしまった事も何回かある。しかし相変わらずその手法を使っていた。「忙しい」、と自分に言い訳をしながら。
 言い訳はやめて。自分でも聞きたくない。
 元来の鉛筆とノートに帰ろうと思う。そうしなければならない。鉛筆で最初から最後まで。これは着火材ではなく、とても大切なプロセス。考えることなく、立ち止まることなく鉛筆のスピードで書き上げる。このふたつは僕の脳ミソと唯一直結できる出力道具だ。この先も、何物にも換えることは出来ないだろう。これはこだわりではなく、結論。決して縛り付ける鎖ではない。
 こうしてここに書いてしまった以上、もう言い訳は出来ない。至らない点があったらそれは僕の未熟さ、おごり以外の何ものでもない。ひとつだけできる言い訳のようなものは、常にそれは僕自身の等身大であり、しかも成長中ということだけ。

 そして、それがいつの日になるかはわからないけれど、自分の中の数十パーセントが自然発火することを願う。自然発火の山火事はこわいぞ。
 四十三歳の誕生日にふと考えたひとつの自己分析。

 ノートに書く時は飲まなくても、キーボードを打つ前にはほぼ毎日飲んでいます。ただ、打ちながら飲む、と言った器用なことは出来ません。
 それにしても鉛筆で一気に書き上げたら気持ちよかった。そう、それが一番。
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by seikiny1 | 2005-04-14 13:19 | 思うこと
誕生日
 今日はめでたい日だった。
 誕生日とは小さい頃は親が祝ってくれ、長じてからはそれを口実に飲んだり騒いだり。そしてその後は一年を振り返り、これからの一年を思う日なのかもしれない。
 そんなこととはまったく無縁な一日だったけれど、春の青空が広がりとても充実した(日常的に)いい日だった。そういったわけで、今日はかなりお酒を飲んだので更新できません。ただ、シラフの時に43にして思うことがあったのでその事については、明日にでも書こうと思っています。

 ニューヨークの焼き鳥屋で飲んでいて、トイレに入った直後に目を腕時計に落としてみたら自分の誕生日の日付になった7秒後でした。
 誕生日は大切なようで、実はそう大したものではないのかもしれない。少なくとも僕にとっては。しかし、やっぱり無性にうれしく、少しだけ寂しい。
 さて、あと何回飯を喰えるんだろう?
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by seikiny1 | 2005-04-13 14:04
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