ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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お会い
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最近は色々な出会い方があるので、
一概に「お会い」と言うことはできないのですが、
少ないながらも交流の続く人とは感覚的には「お会い」です。

ただ、<会う>という感覚は少しずつ摩耗しているような。
「初めて<お会い>したような気がしませんね」と言葉を交わすのは、
いいこと?それとも悪いこと?


ひげフレディーさん。
初めて架空空間でお会いしたのは5年ほど前のこと。
当時は日記なんてつけてなかったので詳細日時は不明。
そんなひげフレさんが配信しておられる
Pod Cast Radio ”Fredio"
に出演させてもらいました。


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縁というのは本当に不思議です。
周りにいる人のすべてと、縁という糸でつながれています。
そのどの人とも、
「あの時、どこかの角を右に曲がってゴミ箱を覗き込まなかったら……」
出会えていない人しかいません。
それは親や兄弟もまた同じでしょう。

一昨日のこと。
約一月の間、頼まれ物をあちらこちらと歩き回りながら探していました。
もうほとんど諦めかけていたんです。
「ま、ここだって一度のぞいとかなきゃな……」
半分義務感のようなものに駆り立てられて入ったのは、
自宅から20mほどしか離れていない、とあるお店。
ありました。


先日はイベントの告知をさせて頂いたのですが、
絶対に結びつかないであろう何の関係もない友人同士が、
細いながらも同じ糸の両端を握っていたり。


今朝、久しぶりに通った路地。
道ばたに置かれていた数冊の本が気になって立ち止まる。
3冊あった本の中に、シカゴ美術館発行のシュールレアリズムの画集が。
それほど興味があるわけではないのですが、持ち帰ってみることに。
さて、ここからはどんな糸が伸びていくことでしょう。

このところ、様々な場面で縁というものを感じきます。
縁とは立ち止まってみること。


全く関係ありませんが、何度か形を変えたとはいえ、
手書き日記をつけだしていつの間にか2年経過。
このぼくがよく続いています。
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by seikiny1 | 2010-02-02 08:43 | 日ごろのこと
能弁な色
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景気は上向きらしいですが、依然として多い空き店舗。
少しずつ増えているかもしれません。
ちなみに3年程前までYOSHINOYAのあった場所もいまだに真っ暗な窓。


いや、色々と考えるものです、広告を生業とする人々は。
それともそういった方々は、
空白というものに恐怖にも似た拒絶反応を起こしてしまうのでしょうか。


最近、たまに目にするようになったのが、
空き店舗のショー・ウィンドウ一面を大きなポスターで埋めてしまうスタイル。
お店というものはだいたいが人通りに面しています。
家主さんだって少しでも収入が欲しい。
広告主はいつだって安く、効果のあるものを求める。
なかなかうまいことを考えついた人がいるものです。


「ん……」

先日、散歩の途中に見つけたものは新製品の告知広告でした。

「なんだか不味そうだな。どんな色してんだろう?」

そこにはビンの巨大な写真があり、『Sprite Green』の文字。
炭酸飲料を飲むことはほとんどないのですが、
緑色のスプライトなんて、墓石の前にも供えて欲しくはないです。
思い出しました。
20年ほど前、
『Coka-Cola White』なる透明のコカ・コーラが発売されましたが、
あっという間に消えてなくなりました。
奇襲攻撃もかけますが、いさぎよい撤収を得意とするのもアメリカ人。


通りを横切り、ウィンドウに近づいて説明を読んでみると……。
なんだ。
色ではなくGreenは自然という意味で、
商品の立ち居地を明確にするために使われた言葉のようです。
このスプライト、自然から取れた甘味を使い、天然レモン果汁5%を使っているとのこと。


Green=自然
直結しないところをみると、
この言葉、まだ定着の域には達していないようです。


別に自然保護を意識していたわけではありません。
ただただ、日増しにたまっていくレジ袋に嫌気がさしていたのです。
毎日、日本サイズで大瓶のビール2本を買いに行くのですが、
5年前のある日から自分の鞄を持っていくようになりました。
ある日のこと、
なにをするわけでもなく、ただレジ付近にたまっている黒づくめのアンチャンが
"He is green, yo."
と相棒に声をかけていました。
Greenという言葉はメディアなどで知ってはいましたが、
「このレベルまで来たな」と実感した最初の瞬間です。


近所の通りには、
『Green Cleaner』という看板を出すクリーニング屋が2軒できました。
店内をのぞき込むと、普通だったら中国系の方が多いのですが、
ここには金髪の若い女性が。
さすがに目の色までたしかめることはしませんでしたが、
ウィンドウにあるポスターを見てみると、
「オーガニック洗剤を使い、衣類を包むビニールはリサイクルからうまれたもの」
とのこと。



もはや緑は色だけを表わす言葉ではなくなったようです。

ピンクは乳がん早期発見・治療の啓蒙運動。

レインボー・カラーは虹だけではなく、ゲイを象徴します。

赤。
実は、昨年末に1冊400p.40冊の手帳をまとめ買いしたのです。
携帯用のノートとして使うために。
2009年の手帳$16→$4の破格値でした。
もうすぐ去年のものとなる手帳。
そんなものを定価で買う人間はいない。
そこでの安売りだったわけです。
配送されてきた段ボールを空けてきた瞬間、口をついてでた言葉は
「俺は共産党か?」
売れ残りの手帳はなんと赤色だったんです。
事前に知ってはいましたが、
さすがにまとまったものを目にすると腰が引けてしまいます。

色の印象をいうのは実に鮮烈です。
手帳を見て思い出したのは、
小学校の頃、毎年先生達がやっていたストライキだったんです。



とはいえ、色に語らせているのはぼくら自身。
その人の意識次第で色は変幻自在で、
まったく別のおしゃべりをはじめます。

「んー、ウチか?実はカーチャンの名前がミドリってんだ」
アイロンをかける手を休めることなく、
少し照れたように教えてくれるクリーニング店のご主人をなぐっちゃいけません。
それはあなたの責任なのだから。



さて、ぼくは何色だろう?


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by seikiny1 | 2010-01-23 12:25 | 日ごろのこと
おしゃべりな<s>
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時に言葉がひとり歩きをはじめ唖然となってしまうことがあります。

「あ、そこのちっこいやつ」
と、店先で口にして奥で働いている身長150cmくらいの店員ににらまれたり。

数日前にもそんなことがありました。
前回のログ記事、実は投稿するのに四苦八苦。
苦闘4時間の末にようやくアップロード終了。
その間には、
「やっぱりエキサイト・ブログはポンコツだ……。」
と、ボヤイてみたり。
「何時間か待てばうまくいくかな」
と、希望的観測をしてみたり。

問題というのは、ある箇所以降の文字すべてに傍線が引かれてしまうということ。
テキストを最初から、別のエディターで打ち直してみるも結果は同じ。

ほとほと疲れていた頃に……。

「??? どうしていつも同じ箇所から、全く別の原稿にもかかわらず棒線がはじまるんだろう?」
テキスト原稿を見つめることしばし。
「あ、ここって英文のとこだ」

結論は Iced Coffee<s>でした。
<s>を≪s≫と変えることで問題解決です。
(ちなみに今は棒線いらないから 〓<>〓 ではなく 〓<>〓 を使っています)

知識のある人であれば実に他愛のないミスなのでしょうが、ぼくは日本語しか知りません。
<s>君は意に反しておしゃべりをしまくっていたようです。
まぁ、これでひとつ頭がよくなった気にはなったので貸し借りゼロ。


クチは災いの元とも言われます。
かといって黙しているだけでは誤解を生んでしまうこともあります。
言葉って本当に難しいですね。
柔軟性があるので、受け手によっては「よかれ」と思い、想像もつかない変貌をとげたり……。


昨夜は、この数年間交流のあるポッド・キャスターの方と電話で対談させていただきました。
最初はお茶を飲んでいたんですが、ビール→バーボン。
(時間が時間ですから:21時にノン・アルコール?)
気づいてみると3時間以上も無口なぼくがしゃべっていたわけです。
言葉も怖いけど、酒もまた怖し。

いったい何をそんなにしゃべっていたのか?
その出来上がりがまた怖かったりします。
まず、自身の音声をスピーカーから聞くということがぼくは嫌いです。
「おいおい、こんな声なんかい?」
普段にも増してしゃべりたくなることも。

ポッドキャスト。
この言葉を目に、耳にしてある程度のイメージは湧きます。
「こんなもん」
と、思っているものもそれほど的外れではないはずです。
ただ、
「きちんと言葉を使ってポッド・キャストを正確に説明して」
と、言われればできないかな。
そんな、イメージだけでつかんでいる言葉が身の回りに結構あるようです。

それは決して悪いことだとは思わないけれど。





〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
昨日の対談、近いうちに配信されるそうです。

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ひげフレディーさんのポッド・キャスト
『Fredio』


過去の分も結構おもしろいのがあるので、ぜひ聴いてみてください。
それにしても、
「こんな不思議な世の中で大丈夫なんだろうか」
と、思うことしきり。




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(前回記事のオマケ)

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by seikiny1 | 2010-01-18 07:39 | 日ごろのこと
宴のあと
「寒い、寒い」と言うけれど、冬ですから。
ま、挨拶がわりです。
身のまわりがさっぱりすると、Party is Overという言葉がしみてきます。
自分の中でより、あたりを見回してそれと知る。


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酒を飲み、大騒ぎをした後にガラガラの電車に乗っている。
そんな気分です。

ロックフェラー・センターのクリスマス・ツリーも灯りを落とし、
街のあちこちで見られたクリスマスの装飾も、今週からだいぶ姿を消しています。
ブライアント・パークのスケート・リンクも1月24日で終り。
夜の街を歩けば、歩道のあちこちにクリスマ・ツリーがゴロゴロと横たわっています。

11月から続いた喧騒もここにきてひと息。
祭りのあとの心地よい気だるさ、そんな感じです。

先週訪れたドラッグ・ストアからはニュー・イヤー関連商品がすっかり姿を消し、
かわって棚のすべてが赤で埋められた箇所がいやでも目立ちます。
そう、次なるイベント、バレンタイン・デーへ向けてもうすでに発進しています。

St. Patrick's Day, Easter, Mother's Day, Father's Day......
ニューヨークで一番季節に敏感なのは、スーパーなどの商品陳列でしょう。
とにかくイベントにからませて売っていく。

日本でも古くからクリスマスやバレンタインは定着していましたが、
最近ではハローウィーンも根を下ろしつつあるみたいです。
そんな尻軽な、浅はかな日本人。
決してきらいではありません。

実は、ぼく、カトリックの幼稚園へ行っていたのですが、
一番好きなイベントはイースターでした。
あらかじめ、みなでペイントしたたまごを先生が隠す、
ぼくらは夕方から親と共に出かけてそれを探して持ち帰る。
クリスマスより、運動会より好きでした。
その頃、すでに夜遊びの芽が……。


子供の頃、夜にで出かけるのは知らずにどこかかのアンテナが立っていたようです。
一番記憶に深いのは、幼稚園の時、母に連れられて『太陽館』という映画館へ行ったこと。
ディズニーの『バンビ」でした。
火事のシーンがこわくて、こわくて。
映画館からでたらあたりは真っ暗。
隣にあったロイヤルというパンやさんの灯りがあたたかでした。
光はやっぱり偉大だなぁ。
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by seikiny1 | 2010-01-13 10:13 | 日ごろのこと
あけましておめでとうございます
たぶんクリックで画は大きくなると思います。
それにしても、第三者の目で見ると丁寧に書いたつもりなのに相変わらず下手くそな字です。
ご無礼。

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新年には抱負を考えるのが一般的なんでしょう。
2010年は。

「考えるより感じよ」

これjは昨年ずっと感じてきたことです。
もっと自分に正直でなければいけないなー、と。
また少しだけ直感的に生きようと思います。

ま、こんなこと書いている時点で考えているわけですから、
今年もまた前途多難で混迷となるのでしょうか?
そんなぼくを今年もよろしくお願いいたします。







2010年1月

さかいせいき


→明けて10日が過ぎようとしているのに、いまだに2010年を20010年と毎日書き間違っています。
先日は大家から「この日付けじゃ銀行持っていけねぇよー」と家賃の小切手のことで電話をいただく始末。
結構いそうなそんな人たち。
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by seikiny1 | 2010-01-10 12:09 | 日ごろのこと
Be Natural
 ここんとこ、とはいってももうかなり長い間、《自然》が時代のキーワードになってます。
 たしかに自然は素晴らしく、大切なものです。ぼくだって自然は大好きです。それでも、《自然》を口にしていたり、「自然のために」と謳っていれば、なんだかわけがわからないんだけど「いいかなー」と許してしまっていることもままあります。誰も咎めだてしない、免罪符。それが今、現在、《自然》という言葉が持つ一面なのかもしれません。

 果たしてみんな本当に自然を大切に思っているのでしょうか?自然と言ってはみても、実のところは、その向こう側にある人間を、自分をかわいいと思っている方が多いのではないでしょうか。当人たちが気づいていないだけで。

 あとひとつの自然の話。
 ランチに関して言えば、ぼくは外食派です。レストランで食べるとかテイクアウトするとかではなく(もちろんテイクアウトもしますが)、外で食べるという意味での外食派です。昼食屋外摂取派とでも言うのでしょうか。なんだかチャイナタウンにいる気分になってきました。目から入るものの力は偉大です。ちなみに真冬でもほとんど昼食屋外摂取派です。
 
 立ち寄るスポットは気分、天候、時間帯により数箇所あるのですが、つい先日目にした自然の一景。
 あまりの自然さについつい見落としていました。実に自然を感じさせる人を見かけたんです。風景に融けこんでしまい何の違和感もない人を。

 あたりを用心深く見渡しているうちに自然を見つけてしまいました。別にヤバイことをしようとしていたわけではなく、タバコを喫う前に、
「露骨に嫌な顔をしそうなやつはいないだろうな」
 と見渡すことが悲しき習慣となってしまっています。互いに嫌な目に遭いたくはないですから。
 
 一度通り過ぎたはずの目が戻っていました。
 チキン・オーバーライスをかき込む男、おしゃべりに余念のないカップル、屋外コンセントでiphoneを充電しながらも、もうひとつの携帯で話し込んでいる女性......。そんな中にひとりの男が見事に融けこんでいたんです。
 よくよく見てみれば、オフィス街には少しばかり似あわないいでたちなのですが、どうしたわけか見過ごしてしまう。腰を下ろすハゲイトウの並ぶ花壇の縁石にはギッシリと氷の詰められた透明プラスチック・カップがひとつ。右手にはCoor's Lightの大きな缶(24oz)が軽く握られており、時おり口の方へ運ばれていく銀色の缶が陽の光を反射し、また休憩。よく見てみるとカップは黄色味を帯びた液体で満たされていました。どうやら彼のビール哲学第一条には「冷えていなければならない」と書かれているようです。そこへ入りきれなかった分をまず処理してしまおう、そういったハラらしいです。それにしても怯えた様子もなく、慌てるわけでもない彼のかもし出す空気が実に自然です。まるでひなたぼっこをしながらバナナを食べているように。

 実はここ、Policeがよく巡回する場所でもあるので、申し訳ないですが興味深く観察させていただきました。しばらくしてやってきた紺色の上下は、ゆっくりと通り過ぎていってしまった。
 こんな男のことをNaturalと呼ぶんでしょうね。
 地球だけではなく、ぼくらもNaturalであるべきなんだなー、と思わせる一景でした。

 そろそろ注射器を買いに行かなければ。
 覚醒剤を打つためではなく、万年筆のカートリッジにインクを注入するために必要なんです。黒いゴムパッキン部が定期的に壊れてしまうんですね。
 とはいっても注射器。
 もう、何度も、何度も行っているんですけど、慣れません。薬屋のカウンター前で自分の番が回ってくるたびに、
(何か悪いことをしているような......)
 そんな気分になってしまい、モジモジしたり、言葉が不明瞭になったかと思えば、やけに明るい笑顔を作って見せたり。まるでコンドームを買う中学生のように。
 人間は自然に還らなければなりませんね。
「注射器一本!」と胸をはって。

 路上の飲酒は禁止です。
 ブラウン・バッグに入れていても反則切符を切られることはあります。禁止なんですから。
 しかし、デリのカウンターでは何もきかずビールをブラウン・バッグに入れてくれ、頼みもしないのにストローをつけてくれます。
 前に並んでいた赤ら顔のオッチャンはビールを受け取ると、「スポンッ」とハイネケンの緑の首を出し、栓を抜いて行きました。ドアの横に取り付けられた長いヒモの先ではずいぶんと年季の入った栓抜きがユラユラと揺れています。
 ビール飲んじゃだめだけど、飲んじゃう。
 あら、あんたご機嫌だね、だめだよ、しようがないね。
 うん。でもおいしいんだよね。
 マンハッタンではめっきり少なくなりましたが、ブルックリンにはまだまだ自然が残っています。
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by seikiny1 | 2009-11-28 02:38 | 日ごろのこと
そして心は……
こちら方面に行きました。








死んじゃだめだよ。
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by seikiny1 | 2009-11-19 12:38 | 日ごろのこと
今のご気分は?
今夜は最高!



これといって、なんにもない1日だけど、この歌が流れてきました。
水曜日だもんね。
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by seikiny1 | 2009-11-19 12:00 | 日ごろのこと
日曜夜、雨のMidtown
 ガラスばりは面白い。中身が見える。時に、ほんの一部だが人の生活さえも。
 ガラスばり。それが店の、街の風景となってしまうのも面白い。街全体が無数のひとコマを映す。
 そこが開放されているのではなく、一枚の板で密閉されているのがいい。理科室でホルマリン漬けに見入り、スーパーの棚に並ぶ瓶詰めピクルスを覗き込んでいたら、何度も行ったり来たりを繰り返したアムステルダムの飾り窓に迷い込んでいた。ついでに川沿いにあった公衆便所のアンモニア臭が鼻腔を刺す。

 小雨の降る日曜の夕方。ひともまばらな五番街に雨合羽を着た男が立つ。アイリッシュ・バー宣伝の大きな看板を片手に。通りに面したスターバックスのガラスの向こう側にはカウンターに女がひとり、男がひとり。何の関係もないふたりが1mも間を空けずに別々の世界に生きている。
 大判の教科書を広げた女は、蛍光ペンを使いながらiphoneに語りかけている。いや、電話をしながら勉強中と言ったほうが正解かな。
 男の方はというと、古本のペーパーバックの陽に焼けてしまったページをくる。
 人もまばらなMidtownで残りわずかとなってしまった休日を過ごす人々。ぼくはというと、前々から約束をしていた飲み会へと向かっている。あり余る約束までの時間を贅沢に使いながら。ゆっくりと雨の中を歩く。

 20年前にもこんな人が、こんな休日の過ごし方があったはずだ。一体どこへ消えてしまったのだろう。あのころの風景がだんだんとかすんでいく。
 浮かんでくるものといえばダイナーと図書館、そして酒場。
 スターバックスの登場。それを受け入れることは、コーヒーに50セント以上を費やすということは革命的な変化だった。もともと土壌は出来上がっていたのだろうが、そこにいいタイミングでスターバックスが現れ、広がり、定着をした。
 少し前に<草食系>という言葉を初めて時代の言葉として目にしたときに、長い間食道につかえていた物を嚥下した気分になっていた。スターバックス以降のニューヨーカーを現す言葉を探し続けていたから。実生活がどうであるかは別として、今のニューヨークには草食系という言葉がよく似合う。

 薄暗い東西に走る通りを歩きながら、ある時期、日曜の夜になると本を片手にダイナーへ行っていたことを思い出していた。その店は今はもうなく、韓国系のネイルサロンになってしまった。50セントでいつまでも、何杯もBottomlessのコーヒーを飲む。眠気がしてきたころ「チャリン」と25セントか50セントの小銭を転がして立ち上がる。愛想もないウエイトレス、時間が止ってしまったような空間。テーブルの上には小さなジュークボックス。
 
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by seikiny1 | 2009-11-03 09:23 | 日ごろのこと
ノート2冊
 ノートの書き方が少し変わってきている。
 これ、といった理由はないけれど強いて言えば気持ちがいいから。気持ちがいいことに弱いのは死ぬまで変わらないと思う。今は、この書き方が気持ちいい。できるだけ丁寧に書くように心がける。

 発端は日記のようなものをつけはじめたとことにある。大学ノート、日記帳、手帳、インデックスカード……。さまざまな形状に挑戦し、やっと手帳大のノートに落ち着いたけれど、約2年の間、天気と食事内容だけは最低でも書き続けてきた。できるだけ感じたこと、考えたこと、気づいたことを羅列。少ないときにはたったの数行である日もあるが、とりあえず自分なりに丁寧な文字を書き続けてきた。

 ノートに思いを書く。この7年間ほとんど毎日続けてきたことだが、これは怒鳴っているようなものであることが多かった。自分の思いをノートに叩きつける。脳みそと心地よい程度にリンクをしたスピードで書くとどうしても文字は汚くなってしまい、誰かに拾われても解読不能といったセキュリティー上の利点もある。そのスピード感は解放感とつながり快感でもある。一方、昔のノートを引きずり出して来た時に、自分ですら何を書いてあるのやらわからないときもある。よくある。叫びであるので、叫び終わった後、心は平安となり部屋のどこかにあるはずのノートがなかなか見つからない。書くことで完結をしてしまっているのだ。終わったことを振り向かない性格のせいか、ただ「(どこかに)ある」という安心感だけで生きているようなところがある。少し前まで、ノートは記録をする媒体ではなく単なる叫びの場に過ぎなかった。そこに会話の成立する余地は微塵もない。まことに一方的な、自分にとってだけ好都合な場所であるだけだった。

 ところが、丁寧に書くことを心がけるようになってからは「対話をしている」という実感がともなうようになっていた。別に意識していたのではないけれど、書きながら「ん、なんか感じが違うなー」とは思っていた。心のどこかにそのことが引っかかっていたのだろう。と、ある日浮かび上がってきた言葉が対話だった。
「おい、そんなにかたく考えなくていいんじゃないかい」
「そ、だな。ま、軽く流しちゃうか」
 これまで一人で走り続け、息切れをしたりしていたが、たまにカウンターに腰を下ろし2,3人で会話をする機会が少しずつ増えてきている。

 対話というのは書くということだけではなく、音楽、絵画、舞踏……すべての表現手段―時に芸術と呼ばれる―にあてはまるのではないか?なんて遅まきながら考えている。ギターと、ドラムと、絵筆と、キャンバスと対話をする。自己との対話。それを横から見て表現だとか芸術だとか言う人がいるだけのことではないのだろうか。ノートを比較的きれいな文字で埋めながらそんなことを考えていた。
 ここで誤解をして欲しくないのは、ぼくの書くものが芸術であるなどと言っているつもりはまったくないということ。ただ、ノートとの対話がこんなに気持ちのいいものであることを発見したことを言いたかっただけ。芸術の根源は自分へ対するメッセージではないのかと。自己との対話のないところには何も生まれないのではないかと。自分とすら会話ができないのであれば、拒むのであれば他の人と話すことすらできるはずはなく、そこには虚構しかうまれないのでは、という疑問。できたものと、何らかの意思をもって作られたものは一見似てはいるが別物であるということ。

 ノートとの対話は楽しい。
 そして、ここにはあとひとつの楽しみがある。丁寧な字で書いておくと、しばらくして昔語りをすることができる。あの頃の自分と。そこには、その時には気づくことのなかった栗が落ちていたりする。ひと粒で2度も、3度もおいしい。
 
 ページを繰ってみると3ページ前と比べ、かなり乱雑になってきていることに気づき軌道修正。
今は叫ぶノートを対話をするノート2冊が手元に。 
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by seikiny1 | 2009-10-24 04:35 | 日ごろのこと
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