ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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カテゴリ:アメリカ( 17 )
きゅうり
今年、2回目。
シャツ1枚で、朝、家を出る。
ヒンヤリが心地いい。

ぬか漬けを仕込む気になったのは、
チャイナタウンにある八百屋でキュウリを目にしたから。
「ポリポリ、コリコリ」
頭の中で音が鳴る。

キュウリそのものは年中あるのだけれど、
日本のキュウリを見かけるのは夏の間だけのこと。
もちろん日系スーパーへ行けばいつだってある。
買わない。


「身近にある季節感は……」
考えてみるとそれほど多くはない。
スーパーの青果売り場を歩けば、
茄子、メロン、ぶどう……。
どれも年中あるし、真冬に特売をやったり。
今、いまを感じられるのは。
アメリカン・チェリーがあった。
もうしばらくすると、ゴロリとスイカが棚を占める。

文明が駆逐した最大のものは季節感かもしれない。
もっとも「不便なものを便利に」、
これが文明の原動力だから仕方ないわけだけどね。
すべては取り引き。
俳句や短歌のルールには詳しくない。
それでも、昔からある季語で今も通用するのはどれくらいあるんだろう。

そういえば週末に放り込まれてたス―パーのチラシ。
見出しは星条旗柄でデザインされた
MEMORIAL DAY SALE!!
コーン、ソーセージ、スペアリブ、ハンバーガー・バンズ……
BBQ材料たちの写真が並ぶ。
アメリカで歳時記を作るとしたら、夏の部トップはBBQだろう。
次の週末はあちこちからくすぶる炭の匂いが、
楽しげな笑い声とまじる。

カレンダーの上ではこの日が夏のはじまり。
9月のレイバー・デイまで。



朝、パブリックスペースに座っていると。
「ぺたっ、ぺたっ」
女性が近づいてきて座り、そして立ち上がった。
「カツッ、カツッ」
ビーチサンダルからヒールにはきかえ小さくなっていく後ろ姿。
夏の風物詩。
冷房の効きすぎた電車の中、
スーツのスカートの下に伸びる足先がビーサンであることは多い。
不思議なのは、日本だとこれが逆になったりする。
通勤はハイヒールで、社内でスリッパばきの人は多い。
どっちを舞台にするか。
認識の違いなんだろうか。


ビーチサンダルかイヒールにはきかえるとき、
彼女たちはどんな気持?
やっぱり、キリリと引き締まって、
背筋が伸びたたりするんだろうか。
柔道着の帯を強く締めたときのように。
陸上スパイクのひもを結んだ時みたいに
男はネクタイなのかな。
残念ながら、ぼくは結び目を首元に上げてもズルンとしたまま。
スーツは着ないし。持ってない。

ただ柔道の帯でわかるように、
身体の一部の刺激が気持ちのスイッチを動かすことはある、
道具に頼りきってしまうのはいいことではないけれど、
うまくつき合うのは構わない。
自分で制御できる便利ならば。


さて、どうしたら切り替わるんだろう。
探しちゃいるんだけど、ツマミが見つからない。
電器屋にも売ってない。
唯一見つかったのはビールだが、
困ったことにこのスイッチ、逆方向にしか動かない。


とにかく、このまま、夏でありつづけますように。
早く長袖をしまいたいんだ。


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by seikiny1 | 2010-05-26 08:49 | アメリカ
二つ名
「どうも。はじめまして トミーです」
いまだになじめない。違和感どころじゃない。
というよりも神経を疑ってしまう。
そんじょそこらにの日本人が裸足で逃げ出してしまいそうなほど、
コテコテ日本人顔なのに、
こちらが日本人であり、日本語で話しているのにもかかわらず、
どこをどうしたら、
涼しい顔で自分のことをトミーなんて名乗れるんだろう。
きっと本名は富松あたり。

ニック、マイキー、アンディー、ジョージ、サム、ケリー、アレックス、ショーン……。
どれも日本人の名。
こちらで、俗に言われるところのアメリカン・ネーム。
人間性云々はさておき、
名前においては厚顔無恥という言葉しかでてこない。
ぼくの価値観というくくりではn。
もちろん価値観は無数にあり、
自在のはずはないのだが変貌をつづける。
ここの無恥が、
あそこでは無痴になり、
向こうの方では無知と呼ばれることなんてざら。

それにしても。
相手を英語名で呼ぶのはそれほどでもないが、
日本人の口で呼ばれるのはたまらない。
(もしぼくにアメリカン・ネームがあったとしても)
ポール君、ジョーさん、エディー氏はなんともないんだろうか?
それとも地下鉄ホームの小便臭と同じで、
慣れ、馴れ、狎れ、そしてズレてしまうのか?


もちろん無知ということもあっただろう。
それよりもズボラでいい加減なくせに、
少しだけバカ正直が同居している。
そんなところが理由。
もしぼくが逃亡者の身となり、
人ごみの中で「あ、境さん」と呼びかけられば、
「はい?」と立ち止まって振り返るだろう。
(あ、あいつ刑事じゃないかな……、といぶかしみながらも)
自分が正直者というのではなく、
缶詰を開ける音に反応してしまう猫と同じ世界で。


こんなことをはじめた頃はハンドルネームなんて言葉も知らず、
そんな予備知識もない。
「憶えやすいもの?名前だろう」
そんな公式でメールもブログのアカウント名もseikiというのが瞬時にはじき出された。
名前は使い出したときに生命が吹き込まれ歩き出す。
殺してしまうまで変えることはできない。
賢い人なら「あとひとつの人格で遊ぼう」。
リサーチをして別の名前をつけるんだろうが、
そんな智恵も回らない。


それにしてもネットで出会った人が実生活で対面した時というのはどうなんだろう?
相手を呼び、相手からも呼ばれる。
困らないのだろうか?
恥ずかしくならないのだろうか?

「あ。どうも。ファンキー・ママさんですか?
はじめましてodenwa rin linです」
……
「odenwa rin linさんまだ飲まれます?」
「はい」
「すいませんホッピー・セットふたつ!」
「えーと、黒は私で白はodenwa rin linさんにね」

60過ぎのハゲおやじと、生真面目そうなNTT元職員のこんな会話を聞いて、
居酒屋のアンチャン何考える?
聞かれてはずかしくないのだろうか?
走り出してしまいたくならないのか?

ぼくがプロレスラーだったら、
アントニオでも、ラッシャーでも、ストロングでも、ジャイアントでもいやだ。
たとえどんなに強くても、
どんなに弱くてもいやだ。

やくざ稼業でカマイタチの銀二とかモロッコの辰くらいだったら我慢できると。
金庫番の岩蔵なんかもいい。
間に「の」がはいるのはいいな。
妖怪でもアカナメならいいが、ビビビのねずみ男は「の」が入ってもいやだ。

似たような理由なのか。
自分でもわからない。
マイミクだとかメッセだとかトラバだとかが使えない。
横文字の新しい言葉短縮形というのが苦手。
口にすることはおろか、書くだけでも恥ずかしくなってしまう。

昭和のコタツ風景。
「あしたはデケンぞ。8時にアポのあるけん」
父の口からこぼれてきたアポという言葉にぼくは赤面していた。
昭和、コタツ、かごにはいったミカン、学生服、方言。
そこに<アポ>ときた……。


ああ、こんな度胸でこれから乗り切っていくことができるんだろうか?

それともアメリカン・ネームやハンドルネームという名で生きている人たちは、
完全なもう1人の自分になりきってそれを楽しんでいるのだろうか。
誰にも多重人格願望というのはあると聞くけれど。

デストロイヤーもミル・マスカラスも仮面ライダーもヤッタ-マンもあとひとつの自分を楽しんだんだろうか?


ぼくの名前はアメリカ人には憶えることはもとより、
発音することすらむずかしいらしく、
そんな人にはこう教えています。
「Say-Key」
簡単だし、自分の名前を呼ばれるのは憶えてもらえるのはやはりうれしい。


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by seikiny1 | 2010-05-05 08:33 | アメリカ
「一万両!」
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さて、さて。
最後に新品の洋服を買ったのがいつであったか。
革ジャンだって腕を通すのは約10年ぶり。
(革ジャンは気力と体力で着るもの。
このことを久しぶりに実感しています)

「……昔ながらのパパ・ママ・ストア」
レビュー・サイトでこの言葉を目にした時にはもう決めていました。

お気に入りの革ジャンの肩口がパックリと開き、
修理をしてくれる店を探していたんです。
近所には中国人の経営するクリーニング屋も数軒あるけれど、
お気に入りのものを預ける度胸が今ひとつ。
(こんなところに、アメリカ人の良心のようなものを求めてしまいます。
自分の中にあるアメリカという姿を)

そんなわけでShoe Repair Shopのクチコミを検索することに。
「やっぱり革の扱いに慣れているところでなくては……」
といった理由で。

小さな。小さな店。
メインの通りではなくて横丁の店。
歩いていけないこともないけれど、
バスに乗りたくなる距離にある店。
(ここは作家:ピート・ハミルが幼少期を過ごしたエリアです)

ドアを開けた瞬間に包まれたのが安堵感。
年季という言葉の他に、表現が見つからない
手垢や、様々な油分を吸ってピカピカの分厚い木製カウンター。
一見、乱雑なように見えるけれど、
実は整理されている預かり品の棚。
すべての商品には10cmx15cmほどの緑色の紙がつけられ、
細かな文字で期日、処理内容、金額などがびっしりと書き込まれています。

縫い物担当はおばあちゃんの方。
「あぁ。これは裏から一回全部開いてやらなくちゃならないね……」
「あ、そー……。大仕事なんだ……。で、おいくら?」
いくらお気に入りとはいえ、古着にどれほどの金額をつぎ込む度胸があるのか、
ぼく自身にもつかめていない。
しばし首をかしげているおばあちゃんが口を開こうとすると、
「OneMillion!!!」
別の方角から、靴担当のおじいちゃんの声が飛んできました。
イタリア訛りの英語。

朴訥という言葉がよく似合うおばあちゃん。
「いや、靴のことならイタリア人のこのわしにまかせなさい!」
終始飛ばす冗談の中に、しっかりと店の宣伝を織り込むおじいちゃん。

ついでにほつれ始めているチャックのステッチも補強してもらうことに。
合計32ドル。
金額は家を出る時に予想していたものに近いものでした。
でも、おばあちゃんの少し困ったような顔を見た時には、
あまり生きた心地がしませんでしたが。
それでも「One Million!」に救われた。
この店に立ち込めていた空気は「仕事」ではなく「働く」というもの。

古着はなにかと手のかかるものですが、
冷たい風の吹く、冬晴れの日、とても幸せな気分になれたひと時。


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by seikiny1 | 2010-02-09 08:48 | アメリカ
『ハイカる』  ~前略、レイコさま~
前回、少し季節感について書いたのですが、
ここ数年春の訪れを知らせてくれるものがあります。
出勤途中の人たち、
手に持つものがホットからアイスへ。
アイスが増えるに従い、暖かくなってきます。
人間の感覚ってバカにできません。


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「え?ニイサン、そんなけったいなものあるわけないやろ」

20年ほど前まではどこへ行ってもそんな言葉が返され、
不思議な生き物でも見るような視線を投げかけられていました。

新しいものが定着するまでに、
それが普通のものとなるのに、
どれくらいの時間がかかるんでしょう?
<これ>に関しては15年ほどの歳月がかかったようです。

「いつまで置いてんのかなー」
「このサインいつまで出してるつもりなんだろう?」

今年の冬は、毎朝通りかかるストリート・ベンダー(屋台)のサインを興味深く見ていたのです。
そこにはプリンターから出力された文字で、
"We Have Iced Coffee 《S》$1.50"とあります。
今日の時点でも取り下げられることなく現役であり続けています。


昨日の昼のことでした、少し変わった風景に遭遇したのです。
昼食のあと、ベンチに腰を下ろしてタバコを喫っていると、
一人の男が近づいて、やはり風から身で守るようにしてタバコに火をつけました。

彼のかたわらには高さ20cmほどの白い発泡スチロール製のカップが置かれていました。
ピンクとオレンジの文字で書かれたDunkin’ Donutのロゴがカップを巻いています。
そしてカップの先端からは、さらに別のカップが顔をのぞかせてるのです。
うす茶色の液体で満たされ、白いストローが突き立った透明のカップ。
氷の冷たさから手を守るためにダブル・カップにしているんですね。
実に古典的なアメリカ流発想に、下を向いて思わず苦笑してしまいます。

まったく関係ありませんが、
2週間ほど前のこと、地下鉄の中にダブル・ジーンズをはく女性を見つけ、
なんだかうれしくなってしまいました。

零下のニューヨークでアイス・コーヒーを飲む人がいる。
売る店がある。
異国生まれの邪道な飲み物は、15年の時を経て定着したようです。
もうこれで奇異な目を向けられることもないでしょうが、
いわんや、ここ数年、ビール以外の飲み物を外で買うことがなくなりました。
(買い食いならぬ、買い飲みをしないということです)


日本でも「ググる」という言葉が使われますが、
アメリカでも、googleは普通名詞であるばかりか、
動詞として使われ、いくつかの辞書には記載もあります。
こちらの足はアイス・コーヒーよりかなり早いです。

言葉の定着度合いを測る目安として、<動詞化>というのがあると思います。
一月程前のことになりますが、
「ポチッ、ポチッ……」
暇にまかせてやっていた検索の流れの中で「ハイカラ」という言葉にぶつかりました。
掘り進んで行くと……。
なんと第二次世界大戦前には「ハイカる」という動詞が生まれていたとのこと。

常々思うのは、日本人の言葉に対する柔軟さ、センスのよさ。
ついて行けない部分が結構ありはしますが。
日本に帰っての楽しみは、スポーツ誌などに載る風俗店の広告や、三行広告。
まさに言葉の濃縮パックといった感じで、
「よくここまで工夫できるなー」と頭が下がります。


ぼくが日本にいた頃、夏の暑さと歩をあわせるように、
「レイコ」さんが町中にあふれだしていました。


レイコさん。
今でもお元気でしょうか?
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by seikiny1 | 2010-01-15 06:33 | アメリカ
マイ◯×
「Vか……」
West 4th St.駅上りホーム。
だんだん大きくなってくるオレンジ色のサインを見つめながら。
「あ、だからVラインを使うのかな」

クリスマス明けの12月27日まで。
日曜日だけですが、1930年代の地下鉄車両が走っています。
Vラインの上を。
Vintage Trainが。
そんなダジャレみたいなことを考えていました。
もしかしたら、当たっているかもしれませんが。
まぁ、Vラインだと路線の長さが短いので管理がしやすい。
そういったところでしょうね。

初めてNYの地下鉄に乗ったときに感じたこは。
「殺風景だなー」
と、いうことでした。

もちろん当時の車体は派手なグラフィティーに埋め込まれてはいたのですが。
地下鉄に乗って目が行くのは車内です。
あたりまえのことですが。

プラスチック製の椅子。
網棚もなく、吊り革もありません。
ビリビリと音割れのする車内アナウンス、「聞きとろう」という気も起こりません。
移動する箱。
それが当時の地下鉄のイメージでした。

「どうしてあんな便利なものが?」
ずっと不思議でなりませんでした。
混み合う電車の中、背の低い女性は背伸びでもするようにしています。
揺れる電車に翻弄されぬよう、高いところを走る金属製パイプを握り締めています。

つい先日のこと、謎の一部が融けました。
「あった」
1970年代に撮られた映画のスチール写真を見ていた時のこと。
白黒写真に収められた当時の車内風景。
金属製ですが、シッカリと吊り革がぶら下がっていました。

さて、どうして吊り革は消えてしまったのか?
「なにか事故があって全撤去になった」
「背の高い人の方が多いからじゃまでしょうがない」
「取り外して地金屋に売る者が後を絶たなかった」

少し前の日本で跋扈した金属ドロ。
こんな方が昔のNYには結構いたもんです。
末はアパートのドアノブ、番号札(銅製)まで持っていってしまうんですから。
もちろん今でも、街のクズ鉄集めを生業とする人もいます、合法的に。
ずいぶんと平和になりました。

Vトレインに揺られながら、駅の入口で配られていた地元無料誌を広げてみると。

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《マイ箸》、《マイ・バッグ》、《マイ・カップ》、《マイ・ボトル》……。
とかくマイがブームの世の中です。
それでも、こんなものを、《マイ・吊り革》なんてものを考えつくのは世界広しといえども、この国の人達くらいでしょう。
アメリカ人のこんなところ、大好きです。

「今年こそはVintage Trainに乗ろう」
手垢にまみれた吊り革を握りしめてきます。
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by seikiny1 | 2009-12-26 01:28 | アメリカ
変化
 今日もあの音が通り過ぎていく。
 
 しばらくの間移動をして止まり、また動き始める。 
 重い車輪の音。ビン同士が触れ合う小刻みな音。
 以前では<珍しい>部類に入っていた人々が買い物用ワゴンを押し、スーパーの前には透明なプラスチックバッグに10ドルほどの獲物を入れた人々が列をなす。
 空缶などを集めリサイクルをする人の数が確実に増えている。

 これまで、この職種(?)に就く人のほとんどはホームレスか中国人のおばあちゃんだった。
 ここ数ヶ月は黒人の老婦人、メキシカンといった人たちが目立つようになってきていて、先日はグリニッジビレッジで若い東欧系の男性二人組を見かけた。その誰もが、どう見ても路上に住んでいるような格好ではないのが目に付く理由。ごく普通の生活者として空缶を集めているよう。
 空缶やペットボトルだけでは足りず、効率も悪いのだろう。空き瓶にまで手を出している人が多い。アパートの前を通り過ぎていく音はいつの間にか日常音になっていた。
 年配の人が多いことに胸が痛む。

「新しい家が売れはじめた」
「株が久々の高値をつけた」
 .........
等と言っても一般の生活事情はこんなもの。
 これを「一般ではない」という人もあるかもしれないが、僕はこれが一般だと思う。多くの人が心の中で空缶を拾っているはずだ。

 金を持つ人よりも、1ドルと、5セントと闘い続けている人の目からの方が経済の本質は見えてくるのかもしれない。
 ビル前に設置された灰皿に残された吸殻の長さ。
 スープキッチンでの食事の量、質、顔ぶれ。
 微細な値段の違いとその変化。

 確信をしているのは、
 他人のゴミ箱を覗き込んだことのある者、人前で腕を突っ込んだことのある者はその日以降、社会の見方・歩き方が変わるということ。いい意味で。「生きる」ということを真剣に考えた瞬間だから。

 ゴミ箱。
 そこには人の生活のすべてが詰まっている。
 「汚い」という人もいるだろうが、汚いのが人間なんだから。その汚いもの、身の回りに置きたくないものを出したのは人間に他ならず、汚くしているのは、汚いと決めてかかっているのは人間以外の誰でもない。
 ゴミ箱のフタを明けられることを嫌うのは、散乱させてしまう人がいるからでもあるが心のどこかで<生活を覗かれてしまうこと>を怖れている。
 たとえばゴミの捨て方から見えてくること。
 選別があまりされていないゴミ箱の前では、
「あ、ここに住む人はいい加減な人だな。今度、どんな顔か見てやろう」と思い、実際に見てみると想像と大きく違うこともない。また、そんないくつもの顔が積み重なっていき自分の中で<いい加減な人間>の典型的な顔が像を結ぶ。
 食べかけの食事の混じったゴミ箱の前では、
「なんだほとんど食べてないじゃないか。冷蔵庫にでも入れとけばいいのに、嫌いだったのかな?」そんなゴミ箱の近所にはまだまだ使える日常品なんかがよく出たり。
 ゴミは雄弁だ。それを見ただけで人々の姿勢、生活、顔、習慣、行動パターンまでがありありと思い浮かぶ。

 日本でもアメリカでも、この先議員や公職に就く人々に1年の1ヶ月間を空缶拾いで暮らすことを義務付ければもう少しいい国になっていくかもしれない。立候補の供託金なんかも自分で集めたダンボールをリヤカーで5杯分にするとか。
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by seikiny1 | 2009-08-13 00:29 | アメリカ
カード社会
 カードを書くのは、買うのは何年ぶりだろう?
 思い出せない。

 昨夜、親類急逝の報を受け、とりあえずお悔やみのカードを買いに行く。それにしても24/7(年中無休、終日営業)のファーマシーは便利だ。日本でもコンビニには数種類の香典袋が置いてあるけれど、ここでは迷ってしまうほどのカードが巨大な手紙差し状の棚を埋め尽くしている。お悔やみ用の物だけでも数十種類はあり、なかなか決めることができなかった。

 この頃、贈り物をしたり、貰ったりするときは不思議な気分になっていることが多い。

「この人にはなにがいいか?」
「どんな顔をしてくれるか?」
「この人は僕のなにを見、思いながら選んでくれたのだろう?」
「その時、どんな顔をしていたのだろう?」

 子供の頃は自分の欲しいものが欲しかった。あたりまえの話だけれど。
 贈り物の向こう側に人の顔を見ることができるようになってきたのはやっと最近のこと。
 クリスマス、バレンタイン・デー、お中元、お歳暮、誕生日、結婚記念日……。
 贈り物をやり取りする機会は無数といってもいいくらいだけれど、<義>礼的なものを除き、それはなんと素敵な習慣なんだろう。習慣というよりも、人間の奥深いところから湧いてきた本能の一部というほうが近い。
 誰かのことを思う気持ち、思いやる気持ち。それをカタチにしてみる。好き嫌いでも、金額の多寡でも、包装紙でもない。その気持ちをカタチにする、カタチにあらわしたい。目に見えぬものを見えるように、心をカタチにするために。その人のことを思いながら贈り物を選ぶ。

 ギフトレシート。
 初めてこの言葉を聞いたのはもう20年位前になる。
「???」
 なんだかわけがわからずにキョトンとした顔をしていたのだろう。店員さんは親切に説明をしてくれる。
「簡単に言えば、値段が記されていないレシートです。<サイズ>、<自分の趣味じゃない>、<あ、これ持ってる>など様々な理由で交換を希望されるお客様が多く、その際にスムーズに処理をできるようにギフトレシートを添えてプレゼントを渡される方が多いんですよ」と。
 合理的ではあるけれど、あまりにも乾燥していて寂しい。たしかに、金色のベビー服なんて貰っても困るけど……。

 毎年、クリスマス明けなどにデパートのカスタマーサービスに出来る長い列はもう見飽きてしまった。最初の頃は、並ぶ人々の顔を見るだけでホリデー気分もけし飛んでいたけれど、今ではなんの感情の動きもなく通り過ぎる。ちなみに、僕は頂き物の交換・返品をったことは一度もない。まあ、贈られることが少ない。列に並ぶのが大嫌いなどといったことが理由のほとんどを占めているのだけれど。

 子供の頃は図書券を貰うのが一番嬉しかった。しかし、もし、自分に子供ができたならば本屋へ連れて行き、時間がかかっても友達のために1冊の本を選ばせると思う。人間は勝手な生き物です。

 誕生日、結婚、結婚記念日、お見舞い、退院祝い、ありがとう……。
 そしてお悔やみ。
 実に様々なジャンルのカードがあり、その中は更に種々のデザインであふれている。カードを選び、それにメッセージを添える。

 たとえ12月26日に長蛇の列が出来ようとも、財布の中に数枚のギフトレシートが入っていようとも、アメリカのスーパーやファーマシーにこの売り場がある限り、この習慣・本能が残っている限りこの国はまだまだ捨てたものではない。欲得だけで動いているわけではない、いい国です。
 それは一枚の紙ではなく人の心。美しいもの。

 できることなら、昨夜手にした種類のカードを買いに行きたくはない。しかし、自分が生きている以上、これからも買い続けなければならないし、買っていきたい。避けて通れる道ではないし歩いていきたい。
 お見舞いのカードと同じ数の退院挨拶のカード。誕生祝のカードと同じ数のお悔やみのカード。
 そんなカードをこれから何枚書くことになるかはわからないけれど、一枚ずつ書いていこう。

 今朝になってから、少し長めのメッセージをしたためた。練習、練習……、清書。昔、習字の時間に遊んでいたことを後悔してもはじまらない。
 内容は月並みのものだけれど、それでも、一文字ずつ丁寧に心をこめて書いていたら、文字に気持ちが注ぎ込まれていくのを感じてきた。失っていたものが少しずつわが手に帰ってくる。
 便利であるのにことよせて、ついついe-mailで用事を済ますうちに失くしていたもの。長い間、忘れていた感覚。自己満足ではなく、僕の思いは通じるはず。たとえ相手が天にいようとも。

 だが、 しかし、郵便局に間に合わなかった。
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by seikiny1 | 2009-03-18 09:00 | アメリカ
当て擦り火花発生器
今日は2枚です。
根気のある方は読んでみてください。

(拡大は画像をクリック)

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by seikiny1 | 2008-07-01 07:39 | アメリカ
ヤンキースがきらい
「アメリカにいる理由はスポーツ観戦、ただそれだけです」
 僕の知り合いの中にすらこんな人がいるくらいだから、この国でスポーツに興味がない人間は確実にマイノリティーだろう。
 野球、バスケットボール、フットボール、ホッケー、サッカー、テニス……。
 プロスポーツというものにまったく興味がない。ただ、
「スポーツ?観ないよ。たいくつだもん」などと言おうものなら、質問や説教であとが面倒くさいからあまり言わないようにしている。ましてやアンチであることを言おうものなら。

 それでも、スポーツ観戦にまったく興味がないわけではなく、野球も大詰めをむかえようとしているこの時期は結構気になったりもしている。
「負けたかな?」
「負けちまわないかな」
 僕はニューヨーク・ヤンキースがきらいだ。
 札束で頬をたたき選手を集めてくる。紳士集団だと公言し、思い込んでいる。
 そういった理由がないでわけではないけれど、もっと奥深いところでその存在をきらっている。理由ではなく本能できらっている。かといって、他に好きな球団があるわけではなく、ただ、ヤンキースがきらいというだけ。
 これはヤンキース・スタジアムで「レッドソックスが好きだ!」と叫ぶことより危険だろう。この危険ということがが許せない。
 
 10年ほど前、年上の人にきかれたことがある。
「で、あんたはメッツとヤンキース、どっちなの?」
「えっ?どっちも。興味ないっすよ」
「あっ、そうなんだ。俺はメッツだねー」
「エー、なんでですか?ニューヨークの人は圧倒的にヤンキース派なのに」
(その頃は、長い間、不振続きだったヤンキースがやっと復活の兆しを見せ始めていた頃だった)
「うん。ヤンキースはね、やさしくないんだよ。特に、俺たちみたいな他所者にはね……」

 このごろになって、やっとその人の言わんとしていたことがわかってきたような気がする。

 アンチ。
 その感情は「死んでもあいつの世話にだけにはなりたくない」、そんなものに似ているのかもしれない。アンチというと、とかくひねくれもののように思われてしまうが、誰もがいくばくかのアンチを持っているはずだ。アンチという感情が削り取られる世の中は、考えてみただけで怖ろしい。牙を失った動物たちが群れているだけ。

 好き、嫌い。
 僕たちが動かされるものの中には〈嫌い〉という感情がばねになっていることの方が圧倒的に多い。〈嫌い〉というエネルギーを転化できるのが人間という動物の特徴でもある。
 
 肉食が嫌いでベジタリアンフードはおいしくなり、広まった。
 肥満する自分を許せなくてダイエットをする。
 自民党にはこりごりだから民主党を選びました。

 野菜が大好きだった人は少なかっただろう。 
 ダイエットの最初はやはりつらいものだろう。
 民主党がとりわけすぐれているとも思えない。

 ゆっくりと流れる大河に船を浮かべるのは気持ちいい。しかし、忘れないで欲しい、板子一枚下は地獄であるということを。飼いならされ、牙を抜かれたら噛み付くことすらできないことを。

 アンチで行こう。
 ヤンキースきらいの自己弁護です。
 夏の終わりに、Damn Yankees!


追記〉先日、イチローが激怒した。



〓〓〓〓〓〓〓〓〓
○<なにか>を感じられた方。
ここを押していただけたらうれしいです。
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by seikiny1 | 2007-09-09 04:57 | アメリカ
たまたま
「アジア人らしい」
 地下鉄の中でそんな言葉を耳にしながら「ドキッ」としていた。部屋に帰り着き最新のニュースを確認してみると韓国の人だったらしい。正直に言うと「ホッ」としていた。
「●○で飛行機が墜落した模様です。乗客の中に日本人は確認されていません」
 そんなニュースとは質が違う。
 もしあの人が日本人だったら……。

 こんな不安がよぎったのは僕に限ったことではないと思う。ヴァージニア州で起こってしまった事件。よその国の人であったから胸をなでおろすのではなく、そんな社会に住み暮らしている事に怖れに似たものを感じる。今頃、韓国系の人はどんな思いで時を送っているのだろう。
 頭の中をイラクの戦場が通り過ぎて行った。

 事件が起こったヴァージニア州というところは東海岸における南部の入り口。
 南部≒差別という公式はあながち間違っていると言い切ることも出来ない。音楽が好きで、とりわけ南部の音楽が好きで、かつては「いつの日か南部に移り住もう」と思っていた僕だけれど昨年の南部をめぐる旅できっぱりとあきらめた。そう言うよりも「南部には住みたくない」というほうが実感に近い。とりわけ<これ>といった出来事があったわけではないけれど、その時の僕にはニューヨークではあまり感じることのない湿度の高い空気が常にまとわりついていた。そこで長年暮らしているという日本人の人からすらも。
 人はナイフを飲み込んでいても笑顔でいることができる。

 その昔、差別という言葉こそなかっただろうけれど、それは、きっと長い間人間が持って生まれた意識なのだろう。僕もどこかで差別し、差別をされて生きている。そんな池から這い上がることができずに誰もが身もだえをしている。そのおもりが消える事はまずなく、ただ「ひとつずつはずしていこう」と思うだけ。そもそもこんな事を考える時点でもうずれてしまっているのだからどうしようもない。自分がある以上、他というものが存在する。二つのものがある時人はどうしても、どこかで較べてしまう。
 人間がいる限り差別のない社会というものはやってこないだろう。これとどう向き合うか、それが変わるだけで。「よかれ」と思ってやることもある人にとっては仇となる。所詮自己満足、偽善の世界なのか。共通の価値観というものが存在しないのだからそれもまた仕方がないのかもしれない。それでもきっとなにかがあるはずだ。それを探し続けることが自分が歩いて行く道かな。

 たった一人が犯してしまった間違いが大きな流れとならないことを願うしかない。それに応えてくれる人達がいることを信じて。これは対岸の火事ではなく、どこにいても、誰にでも起こりえることなのだから。「よかった」で終わらせてしまってはいけない。
 アメリカ大陸を発見したのがアラブ人だったら今はどんな地球になっていたのだろう?

 僕がここにいるのもたまたま。

 長い事<ビン・ラディン>という人の名前を聞かない。
 この国はいったいいつまで戦争を続けるのだろう?
 標的がぼやけ、いつの間にかすりかえられてしまったような気がする、まるでスーパーマーケットの中をショッピングカートを押しながらグルグルとまわるように。
“Do you have a coupon?” 
スーパーのセルフサービス・チエックアウトでは機械が僕に話しかける。



 街角の公衆電話を使っていた黒人男性が突如会話をやめ、通り過ぎる南米系の小学生に大声で話しかける。
“Don’t forget to read books for me, please!  I love you!!”
 それだけ言うと、あたかもなにも起こらなかったように受話器に向かい再び話し始める男性。少しだけてれくさそうに微笑んでいる女の子。
 僕はやっぱりこの街が好きだな。

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by seikiny1 | 2007-04-19 12:01 | アメリカ
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