ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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カテゴリ:日本( 23 )
今のスタイル
「あぁ、これはまるで散文詩みたいだな」

 色々な人のHPやブログを見ていて常に何かが引っかかっていた。それはその表記法だ。「これは何だ?何かに似ている。何かに似ている」、とずっと気になっていたのだが、昨日やっとそれに気付いた。それらのほとんどからあたかも詩を読んでいる、見ている印象を受ける。
 文章自体が短い。句点で改行。改行時に文頭を一段落とさない。小さな段落で1行の空白をもうける。とりあえず思いつくのはこんなところだ。

 改行時に文頭を一段落とさない、という方法が主流になっているのは他人よりかなり遅くeメールを始めた当初に気付いていたし、今では自分もそのやり方でeメールに関しては書いている。多少の違和感はいまだにあるが、そこにはあまり長い文章を書くことはないのでパッと出来上がった文章の全体像を見るとこちらの方が見やすいようだ。
 文章にとって、パッと見の印象は大切だと思う。特にそれが一ページ程度におさまっている場合には。まず飛び込んでくるものは一文、一文ではなく全体像だと思う。ごちゃごちゃしているよりすっきりしていて、各所にアクセントが効いているに越したことはない。こうしてインターネットで文章が飛び交う時代になって、特にその印象は大切だと思う。僕自身にとってはスッキリというのがキーワードであって、字体、色などをあまりにも多用しているものはごちゃごちゃしていて好きにはなれない。そういった理由で、この多くの人が用いている散文詩的なスタイルはとても好きだし、興味もある。そして、もしかしたらこのスタイルが主流になるのかな、という予感もある。まだ、読んだ事はないが、今話題の『電車男』という本も内容と共にそのスタイル自体も話題になっているようだから、内容は別としてこれと共通するものがあるのかもしれない。ただ僕自身はどうしてもこのスタイルが書籍には向かないという古い考えの持ち主なので、もしこのまま散文調のスタイルが主流となれば本の売り上げはかなり落ち込むのではないかとも思う。あまりにもこの眼に優しいスタイルに慣れてしまうと、従来の書籍や新聞に共通する<普通>と呼ばれるものを読むことが出来なくなってしまうのではないか、と思うからだ。また、書物であれだけの空間を使うということはお金もそれなりにかかり単価も上げなければならなくなる。最近では出版業界の中に<漢字率>というものがあり、文章の中にあまりにも漢字の占める割合が高いと本を手に取った人が敬遠する傾向にあり本が売れなくなるそうだ。漢字だけでもそれだけ気を使うのだから、文体自体が変わってしまったら出版業界はどうなってしまうのだろう?

 象形文字に始まり、漢字、ひらがな、カタカナ、かなまじり、文語、またその時代、時代に見られる特徴のある言葉回しなどなど、表記法は時代と共に変遷をとげ、またこれからもそうであろう。そして僕自身の中でもそれは少しずつ変わってきている。たぶん今は大きな過渡期の中にあるのかもしれない。このまま技術が進歩し、モニターの精度も上がり媒体自体がもっと読みやすい環境を整えれば散文調が主流になり、書籍、新聞の売り上げはかなりのレベルで落ち込むかもしれない。「日本語の退化」と嘆く人も出てくるかもしれないが僕はそうは思わない。一体この時代に、昔に人が読み書きできた古文や漢籍をどれだけの人がこなせるのだろう?これは退化ではなく変化であると思う。ただアナログ人間の僕にとってそれは寂しいことではあるけれど、一方このスタイルから何が生まれくるのかということにかなり興味がある。淡々とした文章の中に、想像力をかきたてる何かを感じるからだ。時に、それは一枚の絵や写真のように思えるときすらある。

 古い慣習にとらわれることなく、自然と確立しつつあるこのスタイル。それは現代の人間が求めているものかもしれない。あまり現実的ではない、少し夢のあるスタイル。
 文章とは行間を読ませるものから、空間を創造させるものに変貌しつつあるのかもしれない。

 いまだに試行錯誤しながら、己のインターネット上での文体に悩み続ける男がここに少なくとも一人はいる。
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by seikiny1 | 2004-12-14 07:38 | 日本
珈琲
 コーヒーが好きだ。
 一体一日に何杯飲むのだろう?中毒ではないので、飲まなければ飲まないで別にかまわない。しかし好きだ。ニューヨークではほとんど家で飲む。外出する際にはポットに入れていく。

 日本でもコーヒーをよく飲んだ。
 やはりこちらのコーヒーより格段に美味しい(舌にあう)。
 日本では外に出ていることがほとんどだったが、ポットを買うのも馬鹿らしいので出先でコーヒーショップを見つけて飲むことになる。
 十年近く帰らないうちに喫茶店というものがほとんどなくなっているのを再確認した。話には聞いていたけれど、ここまでとは思っていなかった。そのかわり、色々なチェーン店もしくはフランチャイズ店があちこちに見られる。必然そういう場所で飲むことが多かったのだが、たまに小さな煤けた喫茶店を見つけると、まるで吸い寄せられるかのように入って行ってしまっていた。もちろん、値段は大手チェーンに比べると倍近いのだがあの独特の空気がたまらない。低い天井。幅広いカウンター。独特の食事メニュー。マガジンラックの新聞と本。コーヒーの香り。そしてマスター。
 喫茶店がないのが普通となった今、これからの文化が変わっていくのかな、と漠然と思う。
 中高生の頃は<喫茶店へ行く>ということがひとつの遊びであり、わくわくして楽しかった。そこで他校の生徒と会い、漫画を読み、タバコを喫い、何かの打ち上げがあれば帰りにより酒を飲ませてもらったりしていた。何よりも喫茶店を選ぶ、繰り返し通う基準にその店の持つ雰囲気と、マスターというのがとても大きな要因だった。そして通った喫茶店のマスターらから薫陶を受け、自分の中でもそれがいまだに生きているのを感じる。そして通う喫茶店によってグループができたりなど、喫茶店はひとつの文化だった。僕にとっては一つの学校のようなものでさえあった。
 大手チェーンの画一化された味、店内、雰囲気(それはそれで安心は出来るのだが)。そして何よりもマスターが存在しないその店。あの頃に比べてコーヒーという存在が身近になったというのは事実だろう。その反面、個性というものがない(店の経営側としてはもちろん打ち出したくはないだろう)、ということがことコーヒーショップに限らず今回の日本帰国で感じたことのひとつだった。僕らはコーヒーという液体と一緒に様々なものを飲み込み吸収していった。決して美味しい味ばかりではなかったが、その苦くもある味がとてもたまらなかった。

 喫茶店文化を知らずに育った若い人達がどう成長し、どういう文化を創っていくか楽しみだ。
 ニューヨークでもスターバックスなどのチェーン店に押され、確実に従来のダイナーが姿を消しつつある。さて、ダイナー文化がなくなったアメリカにはどんな新しいものが生まれるのだろう。

 たぶん僕らでは全く想像のつかないものが十年後、二十年後には出現しているはずだ。それがどんなものであれ喫茶店文化の中で育った僕にはとても楽しみだ。

 今回の帰国でよく利用させてもらったDコーヒー。カウンターの前のガラスの向こうには小さな公園があった。そこに毎朝集まる老齢の男女。必ず片手に缶ビールを持ち、皆思い思いの手製のおつまみを持ってきて、植え込みに腰をおろし談笑していた。あれもやはり文化なんだろう。そして彼ら、彼女らは喫茶店で遊んでいた僕らを同じような目で見ていたのかもしれない。そしてガラス越しの僕らをも観察しているのかもしれない。
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by seikiny1 | 2004-12-13 11:11 | 日本
網棚文化
 日本へ帰っていた際、とにかく電車にばかり乗っていた。日本で一番何にお金を使ったか?と問われればそれは間違いなく交通費。交通費についてはまた別の機会にゆずるとして、今日は電車について。

 日本でしかも東京で電車に乗る場合、そこが始発の駅でもない限り座席に腰をおろす事に関しては、はなっからあきらめている。電車の中で立つという事は自然視点が高くなり車両内の風景に目がいきわたりそれはそれで興味深いものだ。まず、ニューヨークの地下鉄にない物に目が行き色々な事を考える。
 クッションの効いたほんのり暖かい座席、吊り広告、ゆらゆらと揺れる吊革(そしてその周りに施された筒状の広告)そして網棚。こんなところだろう。まぁ、日除けのためのシェード、窓ガラス、座席の配置、車両内を巡回する車掌さんなどなどあげだしたら切りはないが……。
 そんな中で僕の興味をそそったのは網棚。
 初めてニューヨークへ来て地下鉄に乗った際に最初に違和感を感じたのもプラスチック製の座席そして網棚がないことだった。この地では満員電車の問題よりも防犯という点のほうが重視されているせいか車両内に網棚はない。
 日本で、特に満員電車の中で網棚は活躍する。身の回りの品を手に持ったり、背負っているよりも楽であるし、網棚に荷物を置くことによりそのスペースに乗客をもっと詰め込むことが出来る。僕も電車の乗った際には迷わず荷物を網棚に置く。ただ、その分忘れ物も多くなるだろう。自分の肌身から離れた所有物はついつい忘れてしまう。二十年以上前の話になるが、国鉄(分割前のJR)払い下げ品店でよく古着や、古道具をあさったものだ。そして僕自身も今回の帰国中に何回か忘れ物をするところだった。
 所有者の手を離れたモノが延々と並ぶ網棚。なぜだか不思議な空間に思えてきた。たぶんあれは、まだまだかろうじてお互いを信用する(信用したい)ことが出来る文化の具現化の象徴のようなものだろう。荷物を持つことによって他人に迷惑をかけたくない。置き引きもそれほどなく、座席が空いたら荷物から離れて坐り眠りこけてしまう。危険物が持ち込まれる可能性もない(と信じている)。ただ駅の構内では「不審な荷物を見かけたらすぐに係員に通報してください」とのアナウンスが流れ、ゴミ箱を見かけることはほとんどない。この二つの事実の間に横たわる溝。そこに過渡期の日本を見るような思いがした。
 そして網棚に残る新聞、週刊誌、コミック雑誌たち。これはやはり日本独自のリサイクル文化だろう。数十円から数百円のものだが自分にとっては不要となったもの、しかし旬のものであり、ある人にとっては欲しいものでもある。そして読み終えたらまた網棚へ返す。電車の天井近くに無言のリサイクル文化が出来上がって数十年は経っているだろう。僕も気付いてみたら電車に乗り込む際の視線が座席を探す下向きから、読み物を探す上向きに変わっていた。
 しかし、大きな駅の構内や繁華街の路上で百円均一で雑誌を売る人達を目にするたびに「あぁ、この文化もいつまで続くのだろうか?」、と寂しい気持ちになっていた。あの数量や、品揃え、街頭で売る仮設店舗(?)の数を見ると組織化されているとしか考えられない。そこに需要があるからこそ供給があるのだろうが、やはりあのお互いの目には見えない不思議な信頼関係で結ばれた電車の中からひとつの文化が消えるのは哀しい。

 土曜日の夕方の電車に乗り込んできた某中堅男優。車両に入った彼の視線はサッと網棚を泳ぎ、さりげなく一部のスポーツ新聞を手にした。なぜかほっとしてしまった。
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by seikiny1 | 2004-12-11 07:40 | 日本
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