ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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カテゴリ:思うこと( 138 )
カップスープと真夏のしゃぶしゃぶ
 自然界の法則をやぶったエアコンの効いた部屋。外は20℃以上もあるのに長袖シャツの上からフリースを着込み、
「明日はマフラーでも持ってこようか」そんな事を考えながらコーヒーをすする。こんな不自然界の中では頭のほうもそれなりの切り返しをはじめる。
「コーヒーか……。カップスープはどうなんだろう?」
 きっと多くの会社ではコーヒーやお茶なんかは机で飲むこととができるだろう。でも、カップスープはどうなんだ?カップスープは飲み物なのか、それとも食事なのか?
 
「ほー」
 どうやらアメリカではラーメン、うどん、そばなど汁物の麺類のことをヌードルスープと呼ぶらしい。二十年ほど前、この国ではじめて就いた職で学んだこと。
 カップスープがOKならばカップ麺だっていいはずだ。いや、スープがいいのなら仕事をしながら机でラーメンを食ってもだいじょうぶかな。冷房の効きすぎた部屋に携帯コンロを持ち込んでしゃぶしゃぶなんぞを食べてみるとさぞおいしいだろう。できることならば、凍ったジョッキで生ビールといきたいところだけれど、いくら飲み物とはいえ会社でアルコールはよくないな……。
 穴を探し、へ理屈をこねれば就業中のひとりしゃぶしゃぶだって食べれないことはない。みんな穴を探してそこを通るのが大好きだから。そのうち、
「カップスープは飲み物と認めません」などと社則に書き加えなければならない時代が来るかもしれない。イヤ、これだけの会社があるのだから既に書いてある会社があっても不思議じゃない。この春、新入社員からの質問で「コーヒーはいいけどカップスープはいけません」。あたふたとしながら付け加えた教育担当社員が何人かいてもおかしくはない。
 穴がある。群がる人と埋めようとする人と。 
 そんな事を繰り返しながら僕達は完全になっていこうとする。しかし完全になることなんてできはしない。完全というものはないのだから。そこがおもしろく味があるのだけれど、ある世界ではそうもいかない。

「明記していないから」
「そんなこと言われなかったから」
「ウチの憲法には核がだめなんて書いてないからねー」
「あいつがやって何で俺がやっちゃいけないんだ!?」

 言い訳が飛び交い、誰もが自分を正当化しようとする。その穴には行く先がないのに「我先に」と、もぐりこもうとやっきになる。

 最初に誰が言ったかは知らないけれど<万物の長>なんていうのは思い上がりに過ぎない。もしも、もしも僕達が他の生物より優れている箇所があるとすれば、それは法(ルール)を持っていることではなく良識そして良心を持ち合わせている(た)事くらいだ。常識ではなくて。良識や良心があてにならないからこそ規制をし、その向こうに罰を置いておかなくてはならなくなってしまった。
ニュースなどで
「エー、もうそろそろ法の整備を急がなくてはなりませんね」
コメンテーターのそんなあほな言葉を聞くたびに鳥にでもなってしまいたくなる。

 自然界の法則は厳しい。
 夏は暑く、冬の寒さに倒れてしまうかもしれない。それでもがんじがらめにされるより自然に飲み込まれて死にたい。万物の長なんかには絶対なりたくないな、と思う今日この頃。それでも真夏日に凍ったジョッキで飲むビール、そしてしゃぶしゃぶは捨てがたい。
 人間はきっとこんな生き物なんだろう。

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by seikiny1 | 2007-05-23 09:04 | 思うこと
Happy Mothers Day
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by seikiny1 | 2007-05-13 12:50 | 思うこと
鏡をのぞき込むおばあちゃん
鏡をのぞき込むおばあちゃん

 今日の古女房は少しだけ濃い口紅をしていた。
 そんな彼女の横顔を目端に引っかけながら穴蔵へともぐりこむ。痛む腰をかばいながら下りる階段はいつもより長く急で、週末のプラットフォームはいつもより冷たく、そしてせまい。
 やっと来た電車に乗り込んでみると偶然にもBAHAMAだった。
 
「やっぱり素顔のおばあちゃんでもいいや」、と昨日の想いはまたたく間にどこかへと吹き飛んでしまう。

 今は腰痛のため離れているのだけれど、ここしばらくお世話になっているところがある。
 最初にそこへ足を踏み入れた時の印象はBAHAMA。BAHAMAに繰り広げられた日本の海水浴場をイメージするとピッタリとくる。さすがの僕も「……」となってしまったくらいだから。
<砂漠に水をまく>という言葉があるけれど、とりあえず今の自分を見ているもう一人の僕は「似ているよ」とささやいてくる。左手にバケツを持ち、もう片手にはひしゃくを持ちながら人の錯綜する海水浴場をくねくねと歩きながら水をまく。どこをどう通って来たなんてわかりはしない。そんな僕が歩いている。たった一杯のひしゃくの水でそこになにかが芽生えるなんて信じてはいないけれど。なにかが変わると思うから。まいた水はみるみる間に乾いた砂に吸い込まれ、振り返ってみてもその跡すらわからない。そんな南の島のビーチを歩いている。
 そこがアラスカになることなんてないだろう。流氷が流れ着くことは天地がひっくり返ってもない、そう断言できる。それでもその地をニューヨークにしてみたい。ニューヨークになって欲しいという願いがある。もしかしたら手が疲れ、しびれ、腰が折れてしまい一海水浴客になってしまうかもしれない。いつニューヨーク行きの飛行機に乗りこんでしまうかもしれない。それでも取りあえず水をまいていこう。
 毎日目にする南の島のビーチの光景は一向に変わる気配すらない。それでも目を最初の日と今の二点だけに据えてみると少しだけだけれど変化のある事に気付いたりする。てんでバラバラだったビーチパラソルもどこかに統一感が出てきたような……。いや、そう見えるだけか。それでももビーチハウスに上がる際に軽く足を洗っている人は少しずつだけれど出てきたみたいだ。
 このビーチがニューヨークそのものになることなんて絶対にありえない。それでもジョージア辺りの小さな海水浴場になる日は来るかもしれない。もう少しだけこのひしゃくを使ってみようか。

 口紅とは言わない。たまに鏡をのぞきいこんでくれたらそれでいい。


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by seikiny1 | 2007-02-25 12:02 | 思うこと
交差点にて
 誰もが〈生きる〉ということに必死だ。
 そして僕は車の行きかう交差点で信号待ちをする。意識しているわけではないのだけれど、心のどこかで「生きよう」と、思っているらしい。寝て、起きて、仕事をして、飯を食って……。

 オーストラリアのプールでは折からの悪天候を避け、迷い込んだオス鰐が捕獲されたらしい。
 山に食物の少なくなった今、食べ物を求めて熊は里へと下りてくる。撃ち殺されてしまう。殺してしまうことしか道はないのか?
 ただ、死ぬためだけに飼われ、生きてきた鳥たちは隣人が風邪を引いてしまったがために一群が〈処理〉されてしまった。そうしなければならなかったのか?その一群と人間がなぜかダブってしまう。
 吉野家の牛丼は再開されたのか?にニューヨークに来る日本人観光客に人気の食事はステーキだ。肉はレアで食うのがうまいらしい。
 アメリカの裏辺りでは今でも戦争が続いている。政策としての「死なないため」というところとははるか遠い所で。それでも戦場にいる者達は「死なないため」に戦っている。「死なないため」と「生きるため」は等号で結ばれるているだろうか?
 将軍様の国では「死なないため」に生きようとする人間の姿は否定されているのか?どう見ても人々は笑顔で死にそうになっているように見える。安楽死、名誉の死という言葉が頭をよぎる。

 人間たち。がむしゃらに生きている。〈生〉というものにしがみついて。ただ、死ぬためだけに生きている。死ぬために生きようとする。少しでも幸せな(?)死を求めながら。
 人間の生は他のすべてのものに優先するほど貴いものなのか?それを尊ぶがあまり、他の生をあまりにも容易に左右していないか?
 僕達は絶対者でも、全知全能でもない。

 信号が青になった。
 左を見て、右を見て渡りはじめる。次の一歩で電池が切れてしまうかもしれないのに。

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by seikiny1 | 2007-02-08 08:18 | 思うこと
サラダが食いたい
 目の覚めるようなファインプレーなんてできっこないけれど、今ではボテボテのゴロ、ゆるい放物線を描くフライ、たまにはグローブを構えている所にちょうど飛んできたライナーまで取ることができるようになった。
 たしかに大きな転換期がいくつかあったことに思いあたる。
 
 酒の味を覚えてから食べはじめ、気づいたら好物となっているものがある。
「サラダが食いたい!」と、発作的に思ったのはアメリカに来て数週間後のこと。砂漠を渡る長距離バスの上だった。
「楽しむために身体だけは丈夫にしておかなくちゃ」と、思い立ち、食事のバランスを気にしだしたのはドラッグにどっぷりとつかりこんでからのこと。
 ホームレスになりたての頃は選択肢も少なく、スープキッチンで口にすることのできるものは「ここよ」とばかりに詰め込んだ。
 父が高血圧に起因する病で倒れてからは薄味にするように気を使うようになり、またそれを楽しむことができるようになっている。食に限らず、すべてにおいて〈味濃い〉ものが大好きだった僕なのだけれど。
 人の好き嫌いはともかくとして、こうして僕の好き嫌いは少なくなりその分だけ食の守備範囲も広がっていった。
 食べることができる。しかも、そこに選択肢があるということはやはり幸せなことだと思う。子供の頃「お前はわがままだ!」の言葉に頑なに反抗していた僕だけれど、今ではある程度首を縦に動かすこともできるようになった。依然として嫌いなものは絶対に口にしないのだけれど。
 あぁ、今食べているこの冷奴。おろし生姜が欲しい……。

 けつまずいたり、跳び上がったりしながらもなんとか英語の本を読む事ができる。
 さて、十年タイミングがずれていたらどうなっていただろう。道端に落ちていたペーパーバックに手を伸ばすことはたぶんなかっただろう。そうなればアメリカに二十年もいて英語の本すら読むことの出来ない愚か者がここに一人いることになったわけだ。不便はどこかで役に立つもの。歴史とは後から振り返って評価を下す学問に過ぎないのかもしれないけれど、とりあえずそんな社会状況には感謝をしている。
 今のニューヨークには日本の活字が文字通りあふれかえっている。しかもそのほとんどを無料で手に入れることができ、素通りする活字は瞬時にゴミと化す。まるでタダで入場を許された食い放題の会場にいるような気分になってしまうことすらある。たくさんの選択肢があり、決して飢えることのない社会に僕達は生きている。これは幸福なのか、不幸なのか?
 ひとつだけ言えることは、あることが当然となってしまったものから幸福を感じることがあまりないということ。それは永年一緒にいる恋人と似ているのかもしれない。失ってしまった時にはじめてあの時が幸福であったことに気付く。もう遅すぎるのに。わかっているはずなのに。

 昨夜のこと。
 部屋に戻り、ビニール袋を開いてみてはじめて気づいた。店内をまわりながらかごに入れている時や、レジカウンターでの計算の時にはまったく気づかなかったのに。それはどう見ても、どう考えてもバランスの取れた食事と呼ぶことはできない。まるで子供の頃に、何時間も変わることのない景色をバスの窓から眺めていたあの頃に戻ったかのような食事内容だった。気づいたらサラダが食いたくなっていたみたいだ。
 黄色いビニール袋から出てきたもの。それは十四冊の小説と、たった一冊のエッセイだった。肉も魚もない食事に佃煮が一品。今の僕にはきっと生野菜が不足しており、それを補給するためにきっと脳から信号が送り出されていたのだろう。そして、と言うかやはりと言うべきかサラダは美味しかった。

 実は〈近づいてはいけない場所〉に昨日は足を踏み入れてしまった。そこへ行くと止まらなくなってしまう。Book Off New York。
 また別の栄養が不足していたのかもしれない。今日の午後もそこに立っていた。黄色い袋の中にはなぜか古語辞典。これが読んでみると意外とおもしろい。ただ、こいつは野菜ではない。二日酔いの朝に飲む熱い味噌汁といったところ。

 不足しているものを本能が求め、しかも手に入れることができる今。やはり幸福であると言わなきゃいけない……。


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by seikiny1 | 2007-02-06 08:41 | 思うこと
クリスマス
 とりたてて「しあわせだー」と感じることのない日々。
 それが僕にとってのしあわせ。

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by seikiny1 | 2006-12-26 08:10 | 思うこと
Wet Paint
「バリ、バリッ」
 いやな音がした。

 昔と比べるとかなりきれいになったとはいえ、ニューヨークの地下鉄構内は日本の常識で言うきれいというところとは少し違う。それはあくまで「かつて」よりきれいといったところだ。ホームの端に立ち線路をのぞき込むと、必ずと言っていいほどに枕木の上を走る大きなネズミ(rat)を見つけることができる。落書きのない駅はまず皆無といっていいほどで、何度もペイントを施された鉄柱はどこも丸みを帯びている。
 MTA(都市交通局)の肩を持つ事もできる。
 深酒をした帰りには〈構内洗浄部隊〉と遭遇することも決して珍しい事ではなく、どうやら定期的に清掃を行っているようだ。そんな時、駅舎の外には数台の大げさなトラックが停まり、コンプレッサーの音と共に圧縮された水をホースへと送り出す。ホースの先に立つ係員はレインコートに長靴といった重装備に身を包み、壁といわず、床といわず、天井といわず洗礼の水を浴びせかける。娑婆の悪が線路の中に流れ落ちて行く。そんな夜はネズミ君たちにとって待ちわびたごちそうの日となるわけだ。
 捨てる人、流す人。善人(ゴミを捨てることによってそれを掃除するという仕事を作ってくれる)とも悪人とも言うことのできる両者。そのネズミごっこならぬ、イタチごっこの終わる日はまず来ないだろう。
 もちろん日中にはホームに落ちた(落とされた)目に付くゴミを掃除する人、ゴミ袋を交換する人、タイルの落書きをゴシゴシと薬品でこする人……、そんな人達を見かけることもある。突如として線路のゴミさえも消えてしまう日もあるくらいだからそこも掃除されているはずだ。それでもやはりお世辞の語尾ががモグモグとなってしまうところがニューヨークの地下鉄。

 そんな中にわなは待っていた。
 そいつはまるでカメレオンのように駅の落書きの中に埋もれていた。よほど気をつけていないと見過ごしてしまうほど情景にとけこんでいた。いやな音に振り返ると、白い紙に黒い文字が書かれている。
”WET PAINT(ペンキ塗りたて)“
 風もないホームで少しだけ斜めを向いている貼り紙。すぐ横では誰かにお歯黒を塗られてしまった大きな美女がポスターの中から脱力感をともなう微笑みを投げかけている。よく見てみるとポスターの枠がゆるい光沢をたたえていた。どうやらこの黒枠を塗ったらしい。それにしても同じ黒枠の中でもまだペンキのはがれたままになったところが数ヶ所もある。ペンキ屋さんは仕事の途中で帰宅の時間となってしまったのだろうか?

 緊張感を持つ。
 それは大切な事なのかもしれない。それはわかっている。しかし僕程度の人間にとって四六時中それを維持するというのはなかなか厳しい。拷問に近いものであるかもしれない。とにかくまたたく間に神経衰弱に陥ってしまうのはまず間違いのないところだろう。その代償といってよいものかどうか、(物的にも、精神的にも)色々な拾い物をするわけだけれど。
 そんな失われた緊張感を呼び覚ましてくれるものに小さな事故がある。どこかでけつまずいたり、よく晴れた朝の数時間後にビッショ濡れになっていたり、はたまた背中にペンキがついてしまったりと。きっと命とは遠い所にいるこんな事故は「ヨシ」としなければならないのだろう。ツケは払わなければならないのだから。
「なれ」という事は常日頃よく考えさせられることのひとつだけれど、そんな中からあと一人の自分をたたき起こすために事故は(あたりまえの話だけれど)なんの前触れもなくやってくる。

 濃紺のダウンベストに入った真新しい黒線を眺めていると風が近づいてきた。

 「なんだか寒い」
 帰宅してそれでもなにかがおかしいのに気づく。スウェットシャツを忘れてきてしまっていた。あの音を聞いた瞬間に浮かんだ「ついてない」という言葉が再び頭をもたげようとしたけれど、やっと強引にねじ込んでやる元気が出てきた。

 今宵、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーに灯が入れられる。
 その光は僕の中の何を呼び覚ましてくれるのだろう?



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by seikiny1 | 2006-11-30 07:32 | 思うこと
感じるの
 いやいやほんとうにこの街には色々なものが落ちている。サンクスギビング・デーの翌日、散歩の帰り道でのことだった。すっかり陽も落ちてしまった繁華街の中で道端に置かれている紙袋をついついのぞき込んでしまった。習慣というものはおそろしい。
「何なんだろう?」
「あたりに持ち主はいるのか?」
「なぜこんなところに、こんなものが?」
「さて、何に使おうか?」
 三歩ほど進む間に様々な思いが通り過ぎ、そして足は戻る。しゃがみ込み、使いそうなものを二つ取り出して手近に落ちていた新聞紙で手早くくるむ。数秒後にはその場を立ち去っていた。
(物を拾うコツのひとつに「スピード」というものがある。スピードを維持しつつも適当な判断を下すというわざは場数を踏んでいなければ出来ない。自分では結構早くなったつもりでいても、三歩プラス三歩。都合六歩分スピードが足りていない。それでも再度自分の部屋のゴミ箱に放り込まれる物もあるわけで、こちらの修行のほうもまだまだ途上といったところだ。)

 包丁のセットだった。暗くなった街を、たとえ新聞紙でくるんでいるとはいえ包丁を手に歩く男の図はあまりいいものではない。さっそく開店したクリスマスツリーの出店の先を曲がりアパートが見えてくるまではなんだか落ち着かない。この落ち着きのなさがまた人には怪しく映るのかもしれないけれど。物を拾うということもこれでなかなか大変なことだ。
 建物の階段を上がりながら頭の中にはもう砥石の音が響きはじめていた。
 明るい場所で見てみるとそれほどいい物ではなかった。それでも研いでみると存外使い勝手は良さそうだ。そうなってくるとどうしても試してみたくなってくる。試し切りがしたくてウズウズするのは武士の専売特許ではなさそうだ。それでもはやる気持ちをねじ伏せながら一夜をすごさなければならない。まぁ、旅行に行く前の楽しさと似ていない事もないなどと自分を説得しながら、その夜は酒で気持ちを落ち着かせることにした。

「魚をおろす時はねー、包丁じゃなくて刃先のほうの角度に神経を集中させるといいよ」
 ずいぶん前に聞いた板さんの言葉がよみがえってくる。図を描いてみれば簡単な、当たり前な道理なのだけれど、それを聞いた時にはまさに目からウロコが落ちる思いだった。
「見えないでしょー。刃先で感じるの。感じるの」
 また声がする。
 研ぎあがった包丁の刃先で「コツッ、コツッ、コツッ……」と感じる骨は「うん、うん。うまくいってるよ」と僕に話しかけてくる。その声を励みに包丁を引っ張っていくと、頭の中にある三枚におろされた哀れな魚の姿がだんだんと濃くなっていく。

 見えないもの、見ることのできないものは他の感覚を研ぎ澄まして感じていくよりほかに手はない。見えないものだからこそ他の感覚が大切になってくる。
 きれいにおろされた鯖の亡き骸の向こう側には目の不自由な人、身体に障害を持つ人達そして自分がいた。。情報を脳に入力する器官が作用しない人達は他の正常に働く器官でそれを補わなければならない。その結果としてよく使われる器官が通常の人よりも発達をしていく。それは彼ら、彼女らの宝物。僕らがどんなに努力しても決して手に入れることの出来ないものだ。なにかを犠牲にしたから、せざるを得なかったからこそ手に入れることができたもの達。それはハンディではなくアドバンテージと言ったほうが正しいのかもしれない。
 ハンディーキャップ。障害者。いやいや健常者といった言葉ですらこういったある器官が発達している人達をどこかで見下しているような響きがついてまわる。それは障害ではなく、ハンディでもなく、ましてや僕らが正常であるとも言えない。数の論理で全てを片付けることはできない。人の顔が様々であるように、こうした姿が〈特別なもの〉ではなくひとつの常態として意識下を通り過ぎて行く状態こそ普通ではなのではないのだろうか。かわいそうでもなく、大変でもなく、彼らの姿がそこの角で信号待ちをしているおじさんと同じように映る時。視点がそこで止まらずに通過していく時。そんな日がそろそろ来てもおかしくはない。
 僕らは決して健常者ではない。
 感じることの大切さ、それを忘れつつある単なる多数派に過ぎない。

 フジ子・ヘミングさんがまたカーネギーホールに出演するという。そんな記事をまな板の上にしかれた古新聞の中に見つけた。なにか少しできすぎた話のような気がするけれど……。



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by seikiny1 | 2006-11-27 03:51 | 思うこと
ささやかな夢
 十数年前、しばらくの間シカゴにいたことがある。ある日、友人に誘われて釣りに行くことになった。話がまとまってまず足を向けたのはスポーツ用品店。とは言っても釣り道具を買いに行ったのではなく、ある書類を受け取りに行ったのだった。ただ、釣りをするだけのためにフィッシング・ライセンス(州発行の釣り許可書のようなもの)が必要ということにも驚いたけれど、その店内にはもっと驚くべきことが待っていた。
 スポーツ好きのお国柄を反映してか、広大な店内は野球からフットボールまでスポーツと名のつくすべてのものをカバーできるほどの道具であふれかえっている。その一番奥にお目当ての釣具売り場はあった。申請書に必要事項を記入して店員に渡し待つことしばし。何気なく目をやったカウンターの奥にあるガラスケースの中身に目が釘付けになり、数瞬後はにギクリといった鈍く思い衝撃に襲われる。耐え切れずに先ほどまでペンを走らせていたカウンターのショーケースへと目を落とす。再びギクリ。
 釣竿の横にはライフルが延々と並び、様々な種類のリールの横にはいくつものピストルが置かれていた。こうもあっさりと置かれてしまうと、こちら側としてもその反応に窮してしまう。
 
 人の感情とは不思議なもので、銃の姿に惹かれてしまう人たちがいるという。本や映画の中では、それらを見つめながら恍惚の表情を浮かべる人をたまに目にする。彼らの奥深くにひそむなにかが銃の姿、その向こうに広がる世界に刺激を受けてしまうのだろうか。
 刀剣もそうであるようだし、きっとナイフにも同じことが言えるのかもしれない。人間と武器との関係。
 また、美を見出す人もいる。しかしそこに実用性がなければその美も輝くことはないだろう。美とはどこの世界でもとてもやっかいな代物である。それだからこそ美しく人を惹きつけるのだろうが。

 ピストルにも刀剣にもビックリ以外の反応をしない僕でも、ことナイフということになれば話が少し変わってくる。たまたま入った店にナイフ売り場があるとしばし見入ってしまうことがたまにある。それはその奥に見える《男の世界》(そういったものが存在していれば、の話しだけれど)などではなく、かと言って護身用でもない。自分の一本をどこかで探している。
 長かった都会のキャンパー生活で、それなりにナイフの必要性、機能性についてはうるさくなってしまっているので少々のナイフでは満足できない。かと言って大きくて暴力的なものにはまったくの魅力を感じない。必要に追われているわけではないけれど、その一本に出会いたいとは思っている。生涯の伴侶となるような一本をいつの日か手に入れ、愛でながら共に時を過ごしていきたい。
 そして、できることならその機能とはまったく違う<静>を感じさせてくれるものと出会いたい。
 こうやって書き並べてみるとまるで理想の女性を探し続けているようだ。

 ここ数日、本当に鉛筆をとぐ事を楽しんでいる。たわいもない作業が心を落ち着かせてくれる。この三ヶ月間こんな気持ちになったことはほとんどなかった。それだけ自分に余裕がなかった証拠だろう。ゴリゴリと鉛筆を削りながらそんなことを考えていた。

 昔の人はなんと贅沢な時間を持つことが許されていたのだろう。
 ゆっくりと時間をかけ、鉛筆を一本、一本お気に入りのナイフで削る。ほかに誰もいない、静かで、薄暗い部屋の中。
 これが僕のささやかな夢。
 便利さを享受しながらこんなことを考えてしまう。その当時は平凡であった事が便利のこちら側では贅沢になってしまう。あの地下鉄に乗り遅れたっていい。いつかそこには着くのだから。

 人間と道具、そして時の関係。
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by seikiny1 | 2006-07-29 10:02 | 思うこと
ダブルバッグ
《ダブルバッグ》という習慣がある。スーパーなどで買い物をした際に取っ手のついたビニール袋(日本で言うところのレジ袋?)を二重にすること。買った物がよほど軽いものでないかぎりレジのオネーさんが無条件で、手早くダブルバッグにしたものを渡してくれる。
 それは当然のことと思っていた。しかし違っていた。ここのところダブルバッグにお目にかかることがない。「ここのところ」というのはニューヨークを出てからの約二ヶ月間、各所でということ。どうやらこれはニューヨークだけの習慣のようだ。
 考えてみればこの<バッグ>とは物を運ぶたに使われる臨時の(しかし今となってはそれがあたりまえになってしまっているが)手段に過ぎない。ニューヨーク以外の場所での寿命はレジからショッピングカーとまで、ショッピングカートから車まで、車から屋内までととても短い。全部あわせても、長く見積もったとしても、ものの数分の間の命に過ぎない。別にそれほど丈夫でなくても、二重にしなくともほとんどの場合にはその使命と寿命をまっとうさせる事ができるのだろう。

 どうしてもやっつけてしまわなければならない事があって、正味三日間だけではあるけれどニューヨークへ帰ることになった。。
 日程も決まったので旅行カバンの整理にとりかかると出てくるわ、出てくるわ。あそこからも、こちらのポケットからも次々とビニール袋が出てくる。旅もはじめの頃は「なにかと必要だからな」、と小さく折りたたんでカバンの中に放り込んでいた。その後も習慣は変わることなく気づいたらこんなことになっていた。無駄な使い方をしたものは一枚もないと思う。それにしても……。抑えているつもりでもこれだけの買い物をしたというわけだ。もうこれからは袋持参で買い物に行かなければ収拾のつかなくなることは目に見えている。しょせん捨てることはできないのだから。outputがないのにinputだけを続けていればいつか水はあふれ出す。洪水を防ぐためには堤防を高くするか、植林をするか、川幅を広げるしかない。僕にできるのは、そして一番いいと思う方法は木を植えること。
「いるかい?」
 ここ数週間ほど、買い物から帰ると僕にこう聞くのが相方の習慣になっている。人間とはおもしろいもので僕同様に彼も僕のことを観察しているようだ。受け取ったり、そうでなかったり。その時の気分によりビニール袋たちは死んだり、眠ったり。他人の面倒まで見ることのできないことはその頃にはわかっていたから、受け取らないときはただ死にいく者の冥福を祈ることしかできない。
「余っているやつないかな」
 移動の朝、こう問いかけてくるのも彼の習慣になってしまっている。僕のほうも荷物を詰め込んでしまう前に袋を二、三枚出しておくのを忘れないようになっている。習慣と習慣がかみあいぎこちないながらもなんとかまわり続ける。人間関係だけは使い捨てにすることはできないから。<使い捨て>のもの。それに対する姿勢は使った後になんの迷いもなく捨てることがただしいカタチなのだろうか?

 捨てるためだけに作られる。それはあまりにも哀しい。そんなことを考えるとセミの鳴き声が耳の奥に響きだす。死ぬために生きる時間の差こそあれ、人間もまたセミとかわらない。死ぬために生きている。しかし、それがあまりにも短いと哀しみが募ってしまうのが人情だろう。
 買い物から帰ってきたビニール袋はゴミ箱のライナーになるいとまもあたえられずにその中へと投げ込まれてしまう。食事を前にしてナイフとフォークがなければ大騒ぎをしてしまう割りに、一度欲求にふたをすることができればそのありがたさもゲップと一緒に吐き出してしまう。無料の新聞は読まれるほかにも色々と用途があるからまだましか。無料になった途端その姿が変わってしまうのもまた不思議ではある。それは人間のわがまま。。
 さて、今、この時代。使われる時間がそれを作るために、その用意をするために要されるものより長いものはいったいどのくらいあるのだろう?日に日にその数は少なくなっていくように思えてならない。気前よく捨ててしまうことに一種の快感が伴うことはまぎれもない事実。しかしプラスチックのフォークを洗う姿が情けなく映ってしまう時代はなにかが、どこかで狂ってしまっている。

「このおもちゃあきちゃった。もういーらない」「ポイッ」
 この延長上に子供を巻き込んだりするものをはじめとする悲しい事件はあるのかもしれない。哀しいだけならまだいいのだけれど、ことが悲しいになってしまってはどうしようもない。こんな文字がこれ以上新聞に増えないようにしなければ。捨てることをやめることができないのであれば、手に入れることをやめるしか方法はない。川はいつの日にか氾濫を起こし、堤防からあふれた水の前で人間は無力に等しいのだから。
 感覚のマヒはとても怖い。<それ>を当然と思ってしまうから。そこに幻が現れないと誰が保障できるのか。


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by seikiny1 | 2006-06-18 11:50 | 思うこと
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