ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
カテゴリ:未分類( 26 )
今年最後のプレゼント
 コーヒー、日本茶、歯磨き、お酒、タバコ、背伸び、シャワー……。
 人は色々なもので気分転換が出来るらしい。どうやらそういったもので自分を切り替えることが出来るらしい。なんて器用なんだろうな、うらやましい限りだ。
 
 暖かな部屋に座ってばかりいると感覚が鈍ってしまうように感じることがある。それは自分の中で行われている発酵があたかも止まってしまったような感じにも似ている。色々な方法で気分転換というものを試みるのだけれど、いつも自分で頭をひねってしまう。それらの行為が自分に対して単に言い訳をしているようにしか感じてられないからだ。

 <たまり水>になっている自分の中に流れを作るために外へ出よう。やっぱり僕は外に出ていなければなんにもできはしない。たとえそこが氷点下以下の街だろうと、焼けたコンクリートでうだるような地下鉄の構内であろうとも。外は僕にいつも喝を入れてくれる。せき止められていた水に動きを作ってくれる。それがどんなに小さなことであろうとも。風に舞う新聞紙、電線の泣き声、泣いている子供、それらの全てが僕に息吹をくれる。ゾーリを引っかけドアからたったの一歩踏み出すだけで世界は全く違ったものとなる。全てが一斉に音を立てて動き出すのを、自分がこの風景の一部である事を感じる。
 家にいて変わらぬ風景や、同じ窓から見える外の様子を見ていても何かが生まれることもあれば、外へ出てなんでもない光景が火をつけてくれることもある。静と動。どちらも素晴らしいし、お互いが他にはないものを持っている。僕が生きているこの世界に万能の神はいない。誰もが何らかの障害を抱えて生きている。そんなものの良いところ、悪いところ、全てに目を見開いて歩いていこう。つきあっていてどんなにつまらない奴でもいいところを見つけてみよう。どんなにきれいで大好きな女の子でも足は臭いかもしれない。
 日常は、常識は大切で、ある意味快適なのかもしれないが<常>にばかり目をやるのではなく、たまには<非>にも熱い視線を注ごう。<常>の上に<非>をつける。

 僕にとって<外に出る>ということは自分に欠けているものを探す旅に出ることとも言える。何かを補う為に歩き回る。どんなに小さなことにもそれを見つけ出す。そしてそれを味わい、嚥下する。まるで野菜不足の人が肉料理の飾りについてくる野菜の突けたしをゆっくりと味わうように。
 気分転換とは探し物の旅に出ること。自分では何を探しているかさえわからない探し物をする事を、昔、誰かが気分転換と名づけたのだろう。言葉にとらわれずに探し物をするとしよう。そんな時いつも僕の頭の中に流れる歌の一節がある。井上陽水の『夢の中へ』。♪探し物はなんですか、みつけにくいものですか……♪中学生の時に初めて耳にして、僕をどこかへ連れて行ってしまったこの曲がいつまでもこだまする。
 罪作りな歌だ。
 何を探しているのかわからない、どうやって探し出せばいいのかもわからない、それを見つけ出したからといって僕がどうなるのかさえわからない。ただ闇雲にあちらこちらを掘り返してみたり、ただじっと佇んでいたりする。いつの日かそれは見つかり、また次の探しものを始める。人はそうやって世を終えてしまうのかもしれない。

 クリスマスツリーのなきがらや、プレゼントをかつてはやさしく包んでいた、くしゃくしゃになった包装紙がそこここに転がり、凍った風が渦を巻く街並みを歩き、そして深呼吸をする。
 探しものは見つかった。

 今年も残すところあと一日、いまさら気分転換でもないけれど今年最後の探し物は一体何なのだろう?
[PR]
by seikiny1 | 2004-12-31 13:40
Last Minutes Shoppers
 昨日(12月24日:クリスマス・イヴ)地下鉄内でクリスマスツリーを抱え家路をたどる人達を数名見かけた。デパートやスーパーマーケットの周りでは、大きな荷物を抱えた人達がタクシーを探している。ここにも僕の同胞達がいる。

 ギリギリになるまで何かをすることが出来ない。俗に「ケツに火がつくまで」、というやつだ。時間がふんだんにあってもどうしてもそうなってしまう。別に意識しているわけではないのだが、ほとんどの物事がそういう風に流れていってしまう。そうして、不思議とこれまでの間、それらは<それなりに>なんとかなってきた。無意識のうちに自分をそこに立たせることによって、なにか力のようなものでも発生するのだろうか?
 もちろんちゃんと予定を立て、着実に準備をこなしていればそうあたふたとすることもないかもしれない。<もし>という選択が許されるのであれば、それを見てみたいとも思う。用意周到に物事をこなしてきた場合と、ギリギリまで追い込んで(追い込まれて)出した結果の間にどういう差が生まれるか?一体何が変わってくるのだろう?それは全く同じ結果であるかもしれないし、別の顔を持っているかもしれない。そしてどちらにも到達感はある。

 来年もまた僕は手帳を買うのだろうか?
 手帳は僕にとって憧れのひとつ、そしてこれからもその座を「譲ることはないのでは」、という予感もある。心の内のどこかで頑なにそこを動く事を拒んでいるかのように、常に憧れであり続ける。
 予定を書き込み、これからの展望を考える。
 成し遂げた事を書き込み、たまにページを繰り過去を振り返ってみる。
 住所録に連絡先を書き込み、電話をかけたりハガキを書いてみたりする。
 <出来る男の必需品>と呼ぶ人さえいる。
 そんな事柄に憧れているのだろうか、毎年新年には手帳を買い、とりあえず分かっている予定いくつかと家族、友人の電話番号を書き込むところまでなんとかこぎつけるのだが。
 日を重ねるに従いページが段々と文字で埋まり、年末にはその一冊が文字だらけになる。その充足感とは一体どのようなものなのだろう?想像するだけでこちらまで満ち足りた気持ちになってくる。多分、これも僕がそこで終わってしまう原因のひとつかもしれない。

 どんな人にも転機のようなものが訪れることがあるらしい。
 先日会った友達が耳を疑うような言葉を口にした。今年の彼はニューヨークで、誰もが疑うことのないような大仕事を成し遂げた。ただ、それは当の本人にとってはやはりひとつのステップに過ぎないし、そういう彼の仕事に対するスタンスがこプラスとなってきたとも思う。<肩に力を入れない>という点でお互い共感し、無言のうちに共鳴するものがあった。「相変わらず飄々と現れるだろう」と思っていた僕が目にした彼の表情は心なしか焦燥と疲労の色を浮かべていた。
 開口一番の言葉は、「いやー、今回もギリギリになるまで動かないとわかっちゃいたけど、やっぱりそうだったよ」
 彼は続けた「でもね、今回の仕事で多くの人に一所懸命、しかも手際よくやる事の価値を教えてもらったようにも思う」
 あの彼にこう迄思わせたものは何だろう?
 それは、どうやら周りの人の発する形なき力、そして情熱のようなものであったらしい。価値観を変える一瞬とは誰にも訪れるものなのかもしれない。見逃してしまうことがほとんどだろうが。

 これまでの彼と、少しだけ新しくなった彼が融け合うことでどんなものが出来上がっていくのかがとても楽しみだ。そして、自分自身も少しだけ目を見開いて前を通り過ぎていく何かに手を触れてみようかという気持ちにもなってきた。

 多忙な彼だが手帳は一応持っている。余白だらけの手帳。来年、彼の手帳にはたくさんの文字が並ぶのだろうか?それはそれでおもしろそうだ。

 僕はしょうこりもなく一月二日には半額になった革表紙の手帳を求めて本屋へ行くことだろう。
 いつになったら、来年の手帳を買う僕が生まれてくるのだろう?
[PR]
by seikiny1 | 2004-12-26 08:07
ルィ・ヴィトンの鞄
 さて、この年末にどれだけルィ・ヴィトンのバッグが売れたのだろう?
 一年間一生懸命に頑張った自分へのごほうびとして。そして愛するガールフレンドのために。

 先日、ある人から「なぜエキサイト・ブログを使っているのですか?」、との質問を受けた。ここでは、「なぜブログを始めたか?」、という理由は置いておき、「なぜ数あるサーバの中からエキサイトなのか?」、ということを自問してみた。コンピュータにはさして明るくない僕でも、日を重ねるにしたがい「エキサイトは使いにくい」という思いが募ってきている。僕に発せられた質問の背後には「どうして、よりによってエキサイトなの?」という言葉が秘められていたのかも知れない。
 理由は海外にいるあまり知識のないユーザーということに尽きる。

 インターネットの普及で海外にいてもある程度の情報は手に入る。ただ、そこから先へ行けるのは当人の知識と、貪欲さによる。これらを持っていなければ深いところまではなかなかたどり着くことはできない。そこそこ、というところで満足してしまう。しかし知識と貪欲さがあれば情報量は飛躍的に上昇する。
 アメリカへ帰って来てすぐに日本の知人から聞いたブログなるものを試そうと思った。彼から聞いたサーバー二社をのぞいて見る。しかし、今ひとつピンと来るものがない。ためらわずにyahooへ飛んだ。どうやらブログはやっていないらしい。MSNはあまり使わない。そこで以前、無料メールのアカウントを持っていたエキサイトへ行ってみた。ろくに調べもせず、まぁ調べても知識の持ち合わせが少ないので詮無い事であっただろうが、ここに決めた。

 やはりメジャーというものはとてつもない力を持っていると思う。気づかないところで自分の回路の中にそれは組み込まれている。そして、あちらもそういう人が多くいる事を知ってか、広く門扉を広げて待っている。「あそこの玄関先までたどり着けば何とかなるかもしれない」、という飢えた旅人達をやさしく迎え入れてくれる。これはメジャーになるためにはまず飛び越えて進まなければならないハードルのひとつなのだろう。
 確かにそこの海は広くて、凪いでいるように見えるかもしれない。しかし、海面下ではいくつもの故意、偶然などという名の海草が足を絡めとろうと待っているかもしれない。水の中で目を開けることができないならば泳がぬに越したことはない。凪と嵐は背中合わせなのだから。やらなければならないのは、その凪いだ海で知識や知恵といった泳ぎ方、そして体力を身につけることだろう。

 メジャーを思考するものは多い。
 その一方でマイナーにこだわる人もまたいる。メジャーの拘束では出来ない事を追い求めて。メジャーの静かで危険な海にとどまることなく、波が高く深海を持つマイナーの小さな海へ身を投じてみよう。そこにも危険はあるかもしれないが、また別の何かを発見することが出来るかもしれない。その中で泳いでいるだけではわからないメジャーの海の違った面を発見することが出来るかもしれない。

 今日、ニューヨークのJFケネディー空港へ行った。クリスマスイヴとあって、年末へ向けての長い休暇にどこかへ出かけるのだろう、地下鉄から空港内を走る電車への乗換駅の混雑振りは尋常ではなかった。人々は数台の乗車カード自動販売機の前に長蛇の列をなしていた。「これだけの人数をさばくのに一体何十分かかるのだろう?」。不安になりながらも列の最後尾につく。
 数メートル離れた場所で、「五ドル(乗換駅から空港までの運賃)のカードはここにあるよー!」、と大声で叫んでいる男がいる。だが、警戒しているのだろうか人々は寄り付かない。しばらくして彼はエプロンを着込んだ、その直後に人の波が彼を包んだ。彼の着たエプロンには交通局職員でなければ手に入れることが出来ない「MetroCard」のロゴが大書されていた。彼は中近東系の男だった。

 人々はメジャーというものの後ろにある<安心>を選び、買うのだろう。

 長い歴史のあるルィ・ヴィトン社のバッグ。実用的であり、その作りもしっかりとしている。そこで<安心>を手に入れたらしっかりとディテールや、会社の方針にも眼を開いてみてはどうだろうか?そして、次のクリスマスにはマイナーな海の中から自分への、彼女へのプレゼントを選んでみては。
 安心の向こうには冒険という道もまた続いているはずだ。
[PR]
by seikiny1 | 2004-12-25 09:49
のし紙
「あなたが今年贈った物で、本当に心を込めたものはいくつありますか?」
「あなたが今年贈られた物の中で、相手の顔が見えたものがいくつありましたか?」

 お歳暮、お中元、クリスマス・プレゼント、バレンタイン・デーやホワイト・デーのギフト、誕生日祝い、結婚祝い、お香典、出生祝い、新築祝いなどなど。一体どれくらいの贈り物が存在するのだろう?そしていつまで増え続けていくのだろう?この内のどれくらいが儀礼的または慣習的なものなのだろう?
 全ての贈り物の発祥はやはり人の心から出たものだと思う。それが時を経るに従い自然と慣習化していってしまう。自分だけがやらなければ安心できない人もいれば、世間体を気にする人もいることだろう。そして慣習化してしまったそれに心を込めないのだから、当然見いだすことも出来ない。これが悪循環していき、人の目はただ、ただ物だけを見てしまう。これはもう贈り物とはいえないだろう。

 <贈る>という行為はとても難しい。贈る方も、贈られる方も。それはひとつの文化でありその人を表現する手段とも言える。
 贈る、ということから少しはみ出してしまうかもしれないがこういう人がいた。その人が受け取る給料袋は使い古しの封筒。会社に来た請求書類が入っていた封筒に給料を入れてホッチキスで封をして従業員に渡す。最初は信じられなかったが、毎回給料は使い古しの封筒だった。その会社は従業員がなかなかいつかず、商売も思わしくない。社長本人は頭をひねりながらも景気や、その地域の購買力などの問題にしていたらしいが、いやいやそんなことではない。そういう人の心や気持ちというのはあらゆるところに出てしまうので、わかる人にはわかる。それが商売に影響していると思うのだが。これは、贈るという事をあまりにも粗末にした結果の好例だろう。この給料袋を渡された従業員の心中は、袋の中身ではなく贈った人の心中を見ていたことだろう。
 それでは、贈り物は無個性がいいかというとそうでもない。個性のないそれはただ物としてその人の中を通過していくだけ。贈った人に対してではなく、贈られた品物に「ありがとう」を言う。もはや文化ではなく、社会悪と言えるかもしれない。これらの盛んな流通で贈り手、受け手それぞれの気持ちが麻痺してしまっている感がある。

 この時期アメリカでは一年で一番素晴らしいシーズンを迎え幸せな気分に浸ると同時に、頭を抱える人もさぞや多いことだろう。アメリカに限らず贈る方にとっても、家族や恋人へのプレゼントは嬉しいものだ。デパートなどへ行くと、たくさんの人がプレゼントを選んでいる。そういった人の顔を眺めているだけでこちらまで幸せな気分になってくる。
 アメリカはチップの国である。「ありがとう」をお金に換える。「おごちそうさま」を言う時にお金、髪を切ってもらってお金、タクシーに乗せてもらってお金……。と、ありがとうの気持ちはお金が伝えるというのがこの国の考え方のようだ。当然、そのありがとうをあてにして生活している人もたくさんいる。クリスマス前になると、アパートに住む人達はドアマンや、管理人に数十ドル、数百ドルの単位の現金のプレゼントをする(しなければならない)。また受け取る人もそれらを当然のこととしている。高級アパートのドアマンになれば、この時期数千ドルが臨時収入として懐に入るのも珍しいことではないという。これまた慣習化した贈答であることは間違いない。確かに、金や物にしなければ伝わらない気持ちというのはある。ただ一事が万事そうであるはずはないし、それはあまりにも寂しいことだ。

 子供のころ友達の誕生会があちこちで開かれていた。そして、それを開く方も行く方もそこにプレゼントがある事を当然と思い何の疑いも持っていなかった。あんな昔から、子供社会にすらこういった慣習があった。しかし、ただ一人だけいつも手ぶらで来る友達がいた。いつも「おめでとう!」と元気よく言って現れる。子供心にも「こいつはスゴイ!」と思ったものだ。プレゼントを渡すなんかよりも数倍の自己表現が出来ている。

 数々の物を贈り、贈られて僕たちは同時にひとつの自己表現法を放棄してしまっているのかもしれない。心から「ありがとう」、「よかったね」そんな気持ちを叫ぶことが出来なくなりつつある。
 
 贈り物は本当に気持ちを込められる物だけでいい。それが出来なければ贈る資格はないし、その行為に価値はない。
 贈られる物に相手の顔が見えない物はいらない。顔が見えなければただ困惑してしまうだけ。
 大変なことだろうが、失くしつつあるものを取り戻す努力をしていきたい。
[PR]
by seikiny1 | 2004-12-24 09:30
コタツ
 最近とんと聞かなくなったニュースのひとつに「○○県で一酸化炭素中毒により死亡」、というのがある。昔の暖房用燃料の大部分は炭、石油であり、コタツや火鉢そして石油ストーブが主な暖房器具だった。冬場の部屋の換気にはことさら気を使ったものだ。
 高性能、高燃費の暖房器具が発明され、普及し、それに伴い一酸化炭素中毒で亡くなる人もかなり減ったようだ。文明の進化とはありがたいものだ。が、その一方で新たな死因があちこちで出てくるのもまた事実。文明とはまさに両刃の刃。

 コタツのある風景というものに長い間接していない。ニューヨークに住む日本人の中にはコタツを持っている人もいるが、その数は少ない。手に入りにくいのが最大の理由だろうが、アメリカでは全館・全室暖房がそのほとんどでコタツの必要性を感じる人は少ないだろう。
 「ニューヨークに来てまでコタツ!?」、と思われる方もいるだろうがコタツに惹かれる人は多い。ここに来てまでコタツを買う人達は、暖房器具としてではなくコタツがかもし出す空気を買うのだろう。
 コタツのある家庭の図を想像してみると、それはやはり暖かい家庭風景となってくる。コタツの上に乗ったかごの中にはみかんやおせんべいがあり、四辺には思い思いに人が座る。ある者は口を動かしながら新聞を読み、ある者はテレビに釘付け。ある者は編み物に熱中し、ある者は横になって眠っている。布団の中では足がぶつかり合いながらもそれぞれの場所を確保し、はしっこには生乾きの洗濯物が。たまに子供が転がっていたりもする。
 コタツとはてんでばらばらな家族がひとつの何かを共有できる場であるのかもしれない。
 僕が中学生になった頃、サイズこそ小さいものの自分専用のコタツを持つ友達が出てきた。どんなに小さくてもそれはコタツだった。僕は彼らがとてもうらやましく、自分用のコタツが欲しくて、欲しくてたまらなかった。その夢がかなった時、僕は十九歳になっていた。
 ここまでコタツに執着心があるのは僕だけだろうか?結構、多くの人が自分用のコタツに憧れた時期を持っているはずだ。
 コタツ欲には独立欲や家を買いたいという気持ち、そして家庭に対する思いに通じるものがあるのではないだろうか?そう考えてみれば、家族がなんとなく集ってしまうコタツの意味、魅力、そしてそこから新たに生まれるコタツ欲というのもわかってくる。日本の家庭にコタツを取り戻せば、頻発している悲しい社会問題も少しは減るかもしれない。

 当然な話だが、アメリカの家庭にコタツはない。
 「それに替わる物は?」、と考えてみるとやはり答はBBQセットだろう。<自宅の庭でBBQをする>。これは我々が思う以上に、アメリカ人にとってはかなり特別なことである。それはひとつの夢であり、また理想とする家庭像でもある。
 少し前の話になるが、家を買った友人がいた。引越しの当日、新居に運び込まれた荷物には全く手を触れずに、彼はデパートへと走った。BBQセットを買うために。その夜、奥さんと二人きりのBBQパーティーを開いたという。ニューヨークの二月だった。
 アメリカ人にとってBBQというのは単なる食事にとどまらない。そこはひとつのコミュニケーションの場であり、それを取り仕切るのはもっぱら男の役目。それには独立したという自覚と、自信、満足、そして大切な家庭の環というものが伴うようだ。夏になれば毎週末のようにBBQをやる家庭も決して珍しくはない。

 不幸なことに僕はこの世界でたった二つの国しか知らない。
 コタツとBBQの国。そこに共通しているものは何か?
 それは<火>。人類最大の発明であるとも言われる。想像の域を出ないが、この地球上のあちこちで火を囲んだコミュニケーションが行われているのではないだろうか?それは肌の色、言葉、風土、文化などに関わらず人間の本能から出てくるもののはずだ。日が落ちて暗くなったあと、地球のあちこちで人々が火を囲む姿が目に浮かんでくる。
 不思議なことなのだが、キャンプなどで焚き火をするとどこからともなく人が集まってくる。自然と火を中心にして語り、食べ、飲み、そして知らない者同士が仲良くなる。
 火には目で見ることの出来る実用性だけではなく、とてつもない力があるようだ。

 戦争の火ではなく、平和な火が灯り続けるように。

 あぁ、久しぶりにコタツで居眠りをしてみたい。
[PR]
by seikiny1 | 2004-12-23 09:20
ゴミ
 生活とゴミは切っても切れない関係にある。生きていく上で必ずゴミは出る。見えるもの、見えないもの。ここでは、俗にゴミと呼ばれる家庭などから出る廃棄物について。

 ゴミ、ごみ、塵、芥、御美……。様々な文字で形容されるゴミ。その問題があちこちで議論され始めて久しい。そしてそれらはいつ、どの瞬間からゴミに変じてしまうのだろう。表面上にはほとんど変化が見られないまま、ある時を境にしてそれは<モノ>から<ゴミ>へと変じる。そしてゴミに転じたときから<邪魔なもの>、<必要ないもの>、そして<汚いもの>になってしまう。同じ物であるのに。ある人にとってはゴミであっても、別の人にとっては<モノ>であることがある。イヤ、もしかしたらそうである場合の方が多いのかもしれない。実際自分自身もいまだにゴミ置き場から様々なものを拾ってくる。洋服、棚、電化製品、整理のためのダンボール、文房具などなど、数え上げたらきりがない。恩恵にあずかってはいるが、首を傾げたくなる。「ほんとにこんなんでいいのか?」

 ゴミは絶対に出る。それは処理しなければいけない。その対策を講じることは必要だ。
 ただ、それを論じている人達も含めて「もう少し<モノ>が<ゴミ>へとに変わる線を延ばしてみませんか」。そうすることによってかなりのゴミ(と呼ばれる)ものはなくなると思う。たとえば、野菜の皮をスープに使い、包装紙や紙袋・ビニール袋は再利用する。要らないものはもらわずに、捨てる前にあと一度考える。ズボンについた汚れを落とそうともう少し頭を使い、時代遅れの洋服でも自分のセンスで生き返らせる。リサイクルを使いこなし、不必要なものは買わない。こんなことだけで、どれだけゴミが減ることか。ジュースなんかにしたって、もともとは腐りかけや商品に出来ないみかんを絞ったのが始まりだろう。<モノ>が<ゴミ>へと変わる線を変えた産物であるのかもしれない。この線をどこに引くかこれが大切だと思う。そう、昔、醤油は計り売りだった。これを復活させるとプラスチックのゴミも減る。
 そしてゴミは汚い、というイメージが付きまとうが(僕にはないけれど)、まだ個人の家の中、部屋の中にある時点ではさほどでもないはず。外に出して不浄な物になる前にそれぞれがしっかり処理をすればゴミ処理の負担が減ると思う。

 しかし、ゴミ問題が減ればそれで潤っている企業群が痛手をこうむるのも事実だろう。ゴミ処理業者に始まり、リサイクル事業、そしてプラスチック産業、金属産業、石油産業、海運業、運送業などなど。そして政治家たち。もちろんそれらの企業に携わる人達にも波は寄せてくることだろう。単にゴミと言ってもそこにはお金が落ちているのだから。ゴミを金だと知っている人達がいるから。

 たぶん永遠にゴミ問題は解決されないだろうが、僕たちに出来るのは<モノ>である期間を可能な限り延ばすこと。この地球を次の世代に受け継いでもらう為に。
[PR]
by seikiny1 | 2004-12-10 07:13
記事ランキング 画像一覧