ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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誕生日
 今日はめでたい日だった。
 誕生日とは小さい頃は親が祝ってくれ、長じてからはそれを口実に飲んだり騒いだり。そしてその後は一年を振り返り、これからの一年を思う日なのかもしれない。
 そんなこととはまったく無縁な一日だったけれど、春の青空が広がりとても充実した(日常的に)いい日だった。そういったわけで、今日はかなりお酒を飲んだので更新できません。ただ、シラフの時に43にして思うことがあったのでその事については、明日にでも書こうと思っています。

 ニューヨークの焼き鳥屋で飲んでいて、トイレに入った直後に目を腕時計に落としてみたら自分の誕生日の日付になった7秒後でした。
 誕生日は大切なようで、実はそう大したものではないのかもしれない。少なくとも僕にとっては。しかし、やっぱり無性にうれしく、少しだけ寂しい。
 さて、あと何回飯を喰えるんだろう?
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by seikiny1 | 2005-04-13 14:04
今日は疲れたので
寝る事にします。
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by seikiny1 | 2005-04-11 19:24
x(エックス)
 平方根はともかく立方根、三角関数、三次方程式など仕事以外で使ったことは多分ないと思う。
 足し算、引き算、掛け算、割り算、小数、分数、等号、不等号。最低この程度の算数知識があれば、日常を送るのに不自由することはない。それならばどうして算数や、数学を学ばなければならないのだろう?学生時代にはそんな事を考えたことはなかったが、最近では、「論理的思考法を身につけるため」に学ぶのではないかと思ったりもする。三角形の面積がなぜ<底辺×高さ÷2>であるのか図形を見ながら考えていると納得がいく。正比例や反比例の論理も頭の中でグラフを描けば便利である。それ以上のこと、少なくとも高校一年生レベルくらいまでのものは極めてよく出来たパズルのように楽しみながら自然と論理的思考を会得していくことが出来る。

 やはり生活していくうえで一番関わりが深いのが、加減乗除だろう。その中でも足し算と引き算。<1+1=2>となり、<10-3=7>となる。ほとんどの人が数字の上ではわかっていること。数字の上では。
 しかし、これが生活の中に入り込んできた場合はどうだろう。
 そもそも、なぜ計数がそれほど大切で生活に密着しているのか?それはやはり我々が生きるこの社会のほとんどが貨幣経済の下にあるといっても間違いないからだろう。好む、好まざるに関わらずそんな社会に生きている。

「ゲームが欲しい」、「オモチャが欲しい」、「あれが食べたい」、「これが飲みたい」。多くの親達は寛大で、お金持ちのように見受けられる。僕の見る限り、子供の欲しがる物を簡単に買い与えてくれるようだ。親が子をかわいく思うのは当たり前。だが、そうであるからこそ教えていかなければならないものもまたそこにはあると思う。
<0+x(エックス)=欲しい物>という公式を当たり前と思うようにしてはいけない。そのxの値が何であれ、それは論理的なものでなくてはならない事を教えていかなければならない。
 子供にあげるお小遣いは日給がいいのだろうか、それとも月給だろうか?
 子供を育てたことがない僕が意見を述べるのは僭越であり、机上の空論であるかもしれない。それでも言わせてもらうなら、幼い間は日給、長じてからは月給が良いと思う。幼い頃、目に見えて貯まっていく小銭を見ることは視覚的にも、習慣としても良いことだと思う。三十円のお菓子を買うためには、一日十円の貯金が三日間必要となる。足し算。長じては予算を組み、計画的に使う事を教える。五百円のお小遣いで、二百円のノートを買った後にどうやりくりしていかなければならないかを体験できる。引き算。
 少々のことではそこにxの介在を許さない。足し算にも引き算にもxを入れない。一番身近にある数字がxの出現で全く別物に化ける恐ろしさを親や、僕達まわりのおとな自身がわかっていなければならない。
 xが入らない足し算、引き算の論理が身についた後に、生きていく上で必ずしも1+1が2になるとは限らない事、10-3が7ではないこともあるという事を教えていく。xという存在の大切さ、厄介さをも教えていく。これもまた必ず教えていかなければならないことのひとつだと思う。

 万引きする子供 が増えているらしい。そこに子供達の犯罪意識の欠如、ゲーム感覚を見る人もいる。僕はそこには足し算の論理の欠如もあるのではないかと思う。xの扱い方を教えるのは親の、僕達周りの大人の責任であると思う。

 万引きは、その被害者をも哀しい思いにさせてしまう。原因は様々であろうけれど、これだけ世間を騒がせるからには何かが欠落しているのではないだろうか?いくら景気が悪いといっても、日本の経済状態は他の国に較べるとどん底とも思えない。

 がらにもなく、教育の事なんか考えてしまったので内容がちぐはぐかもしれません。申し訳ないです。

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by seikiny1 | 2005-02-08 08:23
たまにはラーメンでも
 戦いの帰趨が武士や騎士といった個の手から離れた時、兵士は制服を着込んだ(着せられた)。そこで求められるのは、作戦の<一部>として存在することのみ。

 「なぜだろう?」
 昨年帰国したおりにある種の開放感に近いものを感じていたのだが、しばらくはその原因が思い当たらなかった。久しぶりの日本には、以前ではあまり感じることのなかった空気が濃くなっていた。
 (小さくまとまってはいるが)それぞれが個性的になり、表現も多様になってきているように思う。アメリカで最近その逆を感じることが多いせいだろうか。
 道行く人々を見渡してみても、制服を着込んだ学生や会社関係の人の数はめっきり少なくなったようだ。

 取り巻くものが人へと及ぼす影響にははかり知れないものがある。その中で衣・食・住という生活の根幹を成すものはやはり群を抜いているだろう。服、食事、住まいが誰もが似通っていたら、やはり似たような発想しか生まれてこないのかもしれない。<皆と同じ>という安心感は心のよりどころになるかもしれないが、反面では異端を嫌い排斥するという顔も持つ。制服や給食といった共通項のもとに、<個性>という人間が持って生まれた宝はほとんどつぶされていくのではないだろうか?
 もちろんそこには指揮系統が存在し、上官からの命令があるのだが軍隊の中でそれを受け入れる資質を作っているものに、同じ服、同じ食事、同じ住まい、同じ生活習慣とそのサイクルといった生活のほぼ全てを他と同一化していることがあるように思う。結果として、思考パターンまでが似通ってくる。
 あなたは軍隊に属する人々の顔の見分けが瞬時にできますか?
 僕は、それが日本人であろうと外国人であろうと親しい者(その個性を知っている者)意外を見分けることはできない。全てが同じ顔を持つように見えてしまう。

 GAPの服を着込み、Starbucksで友人と待ち合わせ。出勤の途中でDunnkin’ Donutsを買い、昼食にはMcDonald’sへ。本が欲しくなったらBarnes and Noblesへ行き、彼女とのデートで観るのはハリウッド映画。台所のペンキがはげてしまったらHome Depotへ急ぎ、子供たちはStaplesの文房具で勉強をする。
 表面上は全く別々の生活をしているかに見えるのだが、最近何かにつけてアメリカ人の制服化が気になってしまう。少し前の日本を思い出させる。
 かつては世界中から移民を受け入れ独自の文化を創り出したこの国が、ついに国民を一色にぬりはじめたその結果の表われだろうか?上に挙げたような様々な制服を着せられた彼等は一体どこへ導かれていこうとしているのだろう?
 街はきれいになり、犯罪は減った。便利にもなった。平均的な生活レベルも以前よりは上がったように見受けられる。その反面で失ったものは何か?
 個性豊かな人々が減り、皆が似たような生活をし、絵に描かれたような幸せを追い求め一所懸命に学び、そして働いている。

 彼らの行く先には何が広がるのだろう?その制服を世界中の人に着せるためだけに突き進んでいるのだろうか?
 世界のどこにいてもビッグマックを頬張ることができることが、世界の為になるとは、幸せだとは到底思えない。そんな時代の到来を想像するだけでゾッとしてしまう。

 アメリカ人にビッグマックを食わせているのは一体誰なんだ?
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by seikiny1 | 2005-01-27 09:51
ブランドの力
 今年のニューヨーク・ガイドブックの目玉はここだろう。それにしても、大変な時期にオープンしたものだ。日本の出版社の人達は春の旅行シーズンに向けてさぞや泣いた事だろう。
 昨年の十一月末、ニューヨーク近代美術館は三年の歳月を費やした全面改装の工事を終え、マンハッタンに再オープンした。

 一体いつの頃からMoMAと普通に呼ばれるようになったのだろう?
 へそ曲がりの僕にとってMoMAという響きは決して心地よいものではない。そこには人々が弱い、ブランドの匂いが漂うからだ。そのブランドに魅かれてここに立ち寄る人も多いことだろう。まぁ、立派なブランドとしての内容を持っているので僕ごときがつべこべ言うことではないのだろうけれど。
 やはりそれは僕の中では近代美術館でなくてはならない。MoMAの名に頼らなくともそれは立派な、そして特異な位置を占める美術館である。MoMAという名に魅きつけられて来る者をも拒まぬほどの深いふところを併せ持つ。

 とりわけ美術に詳しくも、傾倒しているわけでもないが美術館が大好きだ。もちろん色々な展示物を見るのもよいものだが、あの空間でただボーッとしていたり、本を読んだり、庭園や人々を眺めることが好きだ。美術館が持つ、醸し出す独特の空気が好きなのだ。どこの美術館であろうと、そこは静寂と共にエネルギーを感じさせてくれる。漠然と時を過ごすだけで心が満たされていく。ただ、御免こうむりたいのは混雑と入館料の高騰このふたつ。
 ワシントンDCでは美術館・博物館、そのほとんどが無料で一般に開放されている。ワシントンDCに移り住もうという思いは全くないので、このシステムをニューヨークが取り入れてくれる事を願ってやまない。無理な話ではあろうけれども。ニューヨークでも、美術館によってはそれぞれ入場料を免除してくれる日があるが、どうしても混雑してしまう。二兎を追うものは一兎をも得ず。それにしても、二十ドルはイタイ。イタ過ぎる。

 「美とは?」、「芸術とは?」
 そんな質問を僕に投げかける方がどうかしている。答えることができるのは、「いいな」、「きれいだな」、そんなところだ。
 十数年前に初めて近代美術館を訪れた時の感想を一言で現わすとすれば、「なんじゃコレ?」。もちろんウォーホールや、リキテンシュタイン等認知度の高い芸術家の作品もあったが、そこに展示されていたもののほとんどは「なんじゃコレ?」だった。ただ、何度か足を運ぶうちにそれらは僕の中に何かを打ち込んでいたようだ。
 今思えば打ち込まれたのは<視座を変えてみる>という釘だったようだ。全く痛みは感じなかったがハートにしっかりと打ち込まれていた。それは単に見るという視覚的なものにとどまらず、もっと広範囲の意味での視座。乏しい僕の表現力ではいくら言葉を重ねてもその真意を伝えることはかなわないだろうが、〔ものの見方、感じ方、考え方など、そしてそれをどう表現していくかという方法の模索〕とでもいえばいいのだろうか。「美しく、精緻な技法で造形されたものだけが美ではない」、ということを近代美術館はささやいていたように思う。「価値観とは決してひとつではない」、という言葉が頭の中でこだまする。それは美術や芸術といった狭い領域にとどまらず全てのことに言えることだと思う。また、その対象物もしかり。「道端に転がっている空き缶からなにを感じることが出来るか?」。極論になるかもしれないが、近代美術館の発するメッセージはこれではないのだろうか。
 
 当時、そんな事を考えるはずもなく今だからこそ、そういう風に思うのではあるけれども。昨日の再訪でやっと自分の中に打ち込まれていた釘に気付いたように思う。こんな事を感じるのに二十年弱の歳月を要したのは遠回りでありすぎるのかもしれない。だが、一見空白にも見えるそれらの歳月が決して無駄なものではなかった、というおみやげをもらっただけでも僕にとってはめっけものであった。

 もしMoMAというブランドがきっかけとなって、一人でも多くの人が何かを感じることが出来たらそれは幸福なことなのかもしれない。
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by seikiny1 | 2005-01-26 09:46
工事はまだまだ続く
「あぁ、今日も来なかったな」
 部屋の水まわりの工事を始めてから一ヶ月以上が経つ。<ほぼ>毎週末彼らはやって来る。大晦日の夜、散らばった工具をかき集めながらお兄ちゃんは陽気に言った、「来週で多分終わるよ」。
 今は日曜日の午後九時三十分過ぎ。

 アメリカへ来た頃、スーパーマーケットの遅々として進まない長い列ではダイエーのおばちゃんを、送って数ヵ月後にボロボロとなって戻ってきた郵便物を無言で見つめながら佐川急便のお兄さんを思い出していた。
 そのつもりはないが、もしこのごろの僕の心情を文字に重ねてみるとしたら、「あぁ、こんなもんだろう」。
 それは<慣れ>や<あきらめ>ではなく、自分自身に確認を取っているようなものなのだろう。そういった思いが頭をよぎらなくなった時、また僕がアメリカという国に一歩近付いていくのかもしれない。

 昔は、アメリカの音楽、フアッション、若者風俗に憧れていた。しかし僕の目はその底流を見てはいなかったのかもしれない。その流れる川面だけを見つめて、そこから<自由>ということばを強引に引き出していただけなのかもしれない。それはまた、堅苦しい日本での生活に疲れた僕の裏の面だったのかもしれない。
 そのうち僕は海を渡って、つぶれたパンにはさまれたパサパサのハンバーガーを口にし、いつ来るともわからない次の地下鉄を待つようになった。それでも僕は笑っていたと思う。そんなひとつひとつに無意識のうちにこの国を確認していたとも言える。
 この国を手短に表現するとすれば、<スロー>そして<ルーズ>。ことばとしての響きは日本の人には良くはないかもしれないが、悪い意味ばかりでもない。とても奥が深い遅さであり、緩やかさでもある。こんな流れに身をまかせる事が出来て僕はつくづく幸せだと思う。
 大きく緩やかな流れの中で、僕という石は割れることなく大きな角だけが削られてきた。日本人度数はかなり落ちてしまい日本の地で日本人としては通用しそうもない。かといってアメリカ人になれるわけもない。とても中途半端な存在である。だが、そういう庭石にもなれないような石だからこそ見えてくるものもまたある。
 容積の限られたコップにはそれ以上の水を入れることは出来ない。アメリカの水が入り込んだために、日本の水が溢れ出した。それでもその両者の割合は、ある人にとってはとても美味しいカクテルであると言えるかもしれない。またある人にとっては吐き気を誘うものであるかもしれない。日本人では見落としてしまうこと、アメリカ人では目にもとめない事を見ることが出来るかもしれない。日本人もアメリカ人も目をふさぎたくなるような事を見なければならないかもしれない。
 自分の目に映るものに正直に生きていくこと。
 流れが曲がった先には滝があるかもしれないが、そこにかかる虹もまた美しいものだ。

 もっともっと美味しいカクテルを作りたい。

 イライラしながらも、やっと自分の番がまわって来たスーパーの列で、レジのおばちゃんとちょっとした会話を交わす。なんだか幸せな気分になれる。ぼくの祈っている幸福とはその程度のもの。

 冷蔵庫を開けると食べ物がなくなっていた。
 そろそろスーパーへ行かなくては。
 あいかわらず気が重い。
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by seikiny1 | 2005-01-10 12:53
ブルックリン
 新宿はデジタル。上野や古くからある商店街はアナログ。渋谷はD/Aコンバーターを通り抜けてきた音符たち。町田はA/Dコンバーターで暗号化されてしまった数字列。下北は古いラジカセから聞こえてくるデジタル・ミュージック。
 数週間しか東京にいなかった旅行者に過ぎない僕が抱いた東京の街のイメージ。そこは広く深い。僕のように単にうわべを滑って行っただけでは、もちろん様々な小さなことにまで目が行き渡るはずもないのだが、あながちはずれとも言えないのではないか、とも思う。
 自信をもって言えることは、公衆電話が少なく皆が携帯電話を持っていることくらいだろう。
 僕は単なるお客さんに過ぎなかった。

 再びニューヨークの土を踏んでホッとしたのは、単に住みなれた街という理由からだけではない。そのリズムが、空気が僕にしっくり来る事を身体が感じたせいだろう。
 マンハッタン。ミッドタウンやダウンタウンの一部を除き、ここは心地よい程度にアナログとデジタルが共存している。アナログたちがデジタルの角を取ってくれる街。古いビルの跡にガラスとステンレス製のお面をかぶった新しいビルが建てられようとも隣り合わせの古いビルとなぜか仲良くなることができる街。
 街自体が持つパワーなのか、それとも人々の吐く息のせいか、この街は冷たいが暖かい。拒絶と抱擁が抱き合う街。本音と建前がひとつのベッドで眠る。そんなことが許される街とも言える。
 しかもマンハッタンは都会なのだ。都会として機能しながら苦悩している。その背後からチラチラと見え隠れするアナログの部分がまたいとおしくもある。
 公衆電話のある街。

 所用があり、昨日は久しぶりにブルックリンのダウンタウンと呼ばれるエリアへと足を運んだ。そこはブルックリンブリッジのブルックリン側に位置する。橋のもう片側はマンハッタンのダウンタウンと呼ばれる官公庁街、金融街へと伸びている。この橋のせいだろうか、このエリアにも古くから多くの官公庁やオフィスビルが立ち並ぶ。
 ブルックリンを東京の下町にたとえる人も多い。
 平日の夕方が夜に変わる頃のこの街の表情が好きだ。ストリートは雑多な人々であふれかえる。
 路肩では帽子、手袋、マフラー、腕時計などを売る露天商があちこちに店を広げ、99セント・ストアのレジには長い列が出来る。怪しげな安売り家電の店の前にはビラ配りが立ち、金ぴかの貴金属店のショーケースは燦然と輝く。遠くからパトカーのサイレンが聞こえるかと思えば、道端に止まった黒い車の中では警官がうたた寝をしている。スターバックスの中ではスーツを着込んだ男たちがコーヒーを飲み、そのガラスのこちら側には道行く人々に小銭をねだる男が。OTB(場外馬券発売所)では百以上の熱気を帯びた目玉がモニターをにらみつけ、その隣にあるバーガーキングの窓には<木曜日、ワッパー・サンドイッチ99セント!>の赤い手書きの文字が。
 しばし時の経つのも忘れ、薄暗い街を歩き回る。摂氏零度の街の風は冷たいがさほど気 にはならない。暖房の効いた部屋の窓を開け、くるまった布団から顔だけをのぞかせているような暖かさを感じる。これがブルックリンという街の空気なのかもしれない。
 冷たく、暖かい。僕にしっくりとくる街。

 ブルックリン・ダウンタウンからさらに電車で一時間ほど奥へ行くとコニーアイランド  凍った冬風が吹きすさぶそこは、人の心を暖かく包み込んでくれる。

 ニューヨークのそれぞれの街の表情を眺めていると、もっともっとあちこちの日本の街へ行きその街の横顔を、たまにこぼれ落ちる笑顔を見つめてみたくなってくる。
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by seikiny1 | 2005-01-09 11:13
最高の贅沢
 僕の暮らすアパートのバスルームには比較的大きな窓がある。縦1メートル×幅60センチほどのそれは、まるで一幅の絵のようにトイレに腰を下ろした時にちょうど良い高さに切られている。そこから見えるのはごくありふれたニューヨークのビルの裏側の風景なのだが、そこで過ごすひと時には何物にも換えがたいものがある。部屋が三階に位置すること、いまさら覗かれたってどうともない、という意識でカーテンはいつも開かれたまま。時間が止まってしまったようなそのひと時。赤や青のきれいな鳥が訪れ、リスが空を仰いで鳴き、少し向こう側を走るストリートでは人々が傘を開き出す。無心になれる場所。

 かつてはラジオの深夜放送を録音したテープが机の引き出しを満杯にし、続いて面白そうなテレビ番組や映画を録画したビデオテープが本棚を占領した。本やレコード、CDは常に山をなし書き散らしたメモが散乱する。
 そういったものたちは、その気になればいつでも手に触れることが出来る距離にあるだけである種の安堵感を与えてくれる。たとえ生涯に一度も手を触れることすらなくとも。記録とは安心の形のひとつ。
 記録、そしてその媒体や技術はそういった人間の<もう一人の自分欲>といったものを燃料にして発展を遂げてきた。オリンピックを例に取ると、さしずめ「もっと高く、もっと速く」といったところだろう。「いつかはそれを体験することが出来る。時間をやりくりしで隙間を作り、そこに新たな時間をを埋め込んでもう一人の自分を楽しむことが出来る」、というもう一人の自分を欲する気持ち。それがここまで技術の進歩を導いてきたのだろう。
 同じようなことが移動方法の発達、即ち高速化にも言うことが出来る。
 以前は歩いて数十日をかけた行程を、今では数時間で済ませてしまうことが出来る。「限られた時間をいかに有効に使うか?」この命題に向けて人々は知恵を絞ってきた。かつて「身体がいくつあっても足りない」、と嘆いていた人がこれらの恩恵を受け、それでも「身体がいくつあっても足りない」、とぼやく。乗り物の中で人々は本を読み、音楽を楽しみ、映像に見入る。
 飛行機の窓からは雲しか見えず、新幹線はトンネルの中を走り抜ける。

 毎日数十時間にわたる各局のテレビ番組を録画して、それらを数倍の速さで再生し数時間のうちに見る人がいるらしい。一日に十冊の本を読む人がいるらしい。ひと月に数度しか帰宅しない多忙な人がいるらしい。
 それらの凝縮された時間から彼らはなにを得るのだろう?
 情報?到達間?満悦感?
 「いかに凝縮された時間を送ることが出来るか?」
 これは現代人の価値基準のひとつに数えられる。
 僕の目にはそれが機械との共存、ましてや人間が生きているようには映らない。それは単に機械や情報の奴隷にしか見えない。ムチ打たれて進み、それを喜んでいるマゾな奴隷達。

 「もっと速く、もっとたくさん」の合言葉のもとに我々は進歩し、その生活レベルも向上してきたとも言えなくはない。これからも記録は大容量化、小型化の道を突き進み、速度はどんどん上昇を続けることだろう。人間の欲には限りがない。到達点というものは、はなっから存在しない。
 その見えない目標とは<ゼロ>であるのもかもしれない。人間が求めてやまないもの。何もない、動かない状態。人々が求める何かがそこにはある。

 最高の贅沢とは「いかに凝縮された時間を持つか」ではなく、どれだけ「ゼロに近い時間を持つか」ということではないかと僕は信じる。
 まっ白な時間を持つこと。

 人間の意志に関わらず時は流れる。それは誰にも平等に与えられたもの。そこにはスローモーションも、早送りも、ましてや一時停止などは存在しない。時計の針はいつも一定のリズムで時を刻み続ける。はたして一日にどれだけの白い時間を持つことが出来るのだろうか?


 ニューヨークは<スピードの街>と言われることがある。その一方で白い時間も確実に存在している。これが僕がニューヨークにこだわり続ける理由なのかもしれない。


<追記> 似たようなテーマで記事を書かれておられる方がいらっしゃるので、情報を下記させていただきます。

若きモンスターの逆襲:頑張らない生き方
おしゃれ:時代と共に変わるライフスタイル
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by seikiny1 | 2005-01-05 09:45
わざわざお越しいただいたのに……
 お神酒を頂き過ぎまして、どうも今宵はアップすることがかないそうもありません。
 皆様にとって、今年一年がよりよい年である事を心から祈りながらまたお神酒を頂戴することにします。
 日本語の語彙力とは素晴らしいもので、日ごろは単なる酒に過ぎないものが、おめでたい日にはお神酒に昇華してしまう。こういうところにも、日本独特の文化があるのかもしれませんね。
 板ワサを切りながら、「つまみとしての長寿」と「歯ざわり」どちらを選ぶかまな板の前でしばし悩んだ元日の夕暮れでした。

 神さんが呼んでいる声が聞こえてくるのでそろそろおいとま致します。
 今年一年がより多くの<笑>に満ち、幸多い年である事を祈りながら。
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by seikiny1 | 2005-01-02 09:03
修学旅行のしおり
 目的地の天候を調べてみたり、飛行機や滞在先の値段や条件を較べてみる。見所のチェックを行い、その地の風景に自分をはめ込んでみたりしてニッコリと笑っている。旅を計画している人の横顔は嬉しそうだ。
 旅の楽しみとは、計画を練ることにその数割があるといっても過言ではない。ただ、いくら緻密な計画を立てたとしても実際には雨が降ったり、飛行機が遅れたり、忘れ物をしてしまったりとトラブルは必ずといっていいほどやって来る。ふり返るとそれらの出来事も時と共に風化して楽しい旅の出来事のひとつとなっている。
 旅とは実際に足を踏み出してみないことには、どうなるかは全くわからない。
 旅とは振り返ってみることも出来る。

 絵を描く人、音楽を作る人、文章を書く人、営業でお客さん廻りをする人、家庭で料理をする人。
 人は様々なものを作り出す、作り出す作業自体に要する時間よりもはるかに大きな時間がそれより前に綿々と連なる。しかも、それだけの時間を費やしてはいても実際に絵筆を取り、ギターの弦に指を踊らせ、ノートにペンを走らせ、ビジネストークをし、火加減を調整する、そんな時に、ほんの一握りほどの時間の中でそれまでに自分が思い描いていたものとはまったく別のものが生まれる時がある。こと僕に関しては、そういったことのほうが圧倒的に多い。「あの苦労、苦悩はなんだったんだ?」、と首をかしげてしまいたくもなる。
 全ては計画通りには運ばない。歩き出したその時に<生>が宿るのだろう。目で見ることは出来ない力が作用する。しかしそれはその人が引き出した力。その力が正であろうと負であろうと。出来上がりが思い描いていたものとは違っていても、そこにその人の過去の結実が見て取れる。
 <何かをやる>ひいては生きていく、ということは実に旅に似ている。

 そうして人は「無謀だ」、「無計画だ」などと周りから言われようがフラッと旅に出てしまいたくなる時もある。何の予定も立てず、下調べすらせず、磁石も持たず。それでも旅への心を抑えきれなくなる時がある。これもまた楽しい旅のひとつ。枠に入っていては出会えない人、目にすることの出来ない光景。フラッとだからこそ許される旅の良さ。結果を期待することすらしない本能の旅。
 旅には様々な形態が、そしてその数だけの楽しみ方がある。
 昨日書店で<和>をテーマとした本を手に取った。そのグラビアにはかつてミュージシャンとして一世を風靡し、現在は男優として活躍中の男性が和服をまとい、気難しげな顔をして正座をしていた。彼の姿を見た瞬間に、日程がびっしりと組まれたパック旅行を思い出してしていた。「あー、この人もまた旅をしているんだなぁ」、といった事を考え少しだけの同情。

 人の顔の数だけ旅がある。それは単なる地点間の移動だけではなく、あらゆる点を結び、そしてそれらをつむいでいくものなのだろう。

 頭の中でうっすらとほこりをかぶっているアルバムをひっくり返して、2004年という旅を振り返っている。雨も降ったし、忘れ物もした。バスにも乗り遅れたし、見落としてポイントもあった。素的な人に巡り会い、美味しいものを食べ、楽しい酒を飲んだ。
 悪い旅ではなかった
 さぁ、そろそろ旅行ガイドをひもといて、新しい旅の計画でも練ることにしよう。
 一年に一度だけ許された楽しいひと時。


 月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。 -『奥の細道』より- 
 松尾芭蕉さんはすごいな。




《ご挨拶にかえて》
 このブログを始ましてまだ一ヶ月ほどですが、この短い間にここへ訪れてくださり、時にはメッセージを残して下さった皆さんありがとうございました。色々な事を教えていただき、考えさせて頂いたことも度々ありました。
 2005年が皆様にとってより素晴らしい一年となる事を心よりお祈りいたします。そして、みんなで少しだけ暮らしよくしていきましょう。

 明日は朝からお酒を飲んでしまう可能性がかなり高いです、更新できるかどうかの自信が余り(全く)ありません。まぁ、なんとかなるかもしれませんが、そうでない時はご勘弁を。

A Happy New Year!!
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by seikiny1 | 2005-01-01 09:21
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