ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
カテゴリ:未分類( 26 )
b0063957_937165.jpg




「道が消える」

それは現代では結構大きな事件であったりします。
道路族議員さんたちのおかげで、
日本のあちこちに今でも道路ができているというのに。

いや、消えること自体はそう珍しいことではないのかもしれません。
死は生の影となってしまっているのでしょう。


今週末をもって近所にある一本の道が消えてしまいます。
Atlantic Yardという大きな開発工事の一環として、
道路で分断された土地をつないでしまうということらしいです。

数週間前の新聞に"Permanently Closed"
という小さな記事が出ていました。


それにしてもこちらの人はという言葉が好き、
もしくは身近なものとして多用します。
永遠・永久なんて時間はないのにね。
パーマだって一生持つわけじゃありません。
このあたりが民族性の違いなのでしょうか、
大胆な言葉をさりげなく。

ちなみにぼくらが持つGreen Card。
これは正式にはPermanent Resident Visaと呼ばれます。
感覚としては無期限でしかないのですが。
日本の免許制度でいうならば、二輪の限定解除といったところです。

それにしても実に寂しいです。
たった50mあまりの道だけど、この7年間の思い出が落っこちている道。
今週末はしばらくボーっとしにいくこととします。





〓〓
訃報です。

今知りました。
『ライ麦畑でつかまえて』の作者、
J.D.サリンジャーが亡くなられたそうです。

合掌




Excite エキサイト : 芸能ニュース
[PR]
by seikiny1 | 2010-01-29 09:37
Changes
 ウェンディーズの前を通り過ぎながらいつもとは違う光景であることに気づいた。
「ん?」
 いつもは客でひしめき合っているオーダーカウンターの前が閑散としている。「今はいれば待たずにすむな」、とは思うもののここへは入らない。帰国して最初の昼食はジャンクフードの王様バーガーキングと飛行機の上で決めていた。
 繊細な日本の味はうまくて高かった。人間はやっぱりわがままということを実証するように少しパンチの効いたものを求める身体を押さえることができない。
 足を踏み入れたバーガーキングも客はまばらで、
「お、この分だとかなり早めに食えるかも……」ささやかな期待が湧き上がっていた。
 列についてしばらく経ってから、ミッドタウンのお昼時には異常とも言えるこの現象の原因に思い当たる。客がまばらな理由に。
 皆、テレビのあるレストランで食事をとっているのだろう。この国の歴史的瞬間を見届けるために、オバマ新大統領の誕生という時間を共有するために。

 一方で、バーガーキングの列は遅々として進まない。やっと回ってきた列の最先頭。カウンターの向こうにいるまったくやる気の感じられない従業員と接した途端、自分がアメリカへ帰ってきたという事実を、逃亡中に警官の検問に遭い車のトランクから女の死体が出てきてしまった殺人者よろしく、いやでも認識させられ、日本が恋しくなってしまった。事実というのは本当に怖い。
 オーダーを終えて待つ。
 待つ、待つ、待つ。
 来ない。
 まだ来ない。
 見渡してみると隣の女性は待ちくたびれてしまい、壁に額をあずけて気絶しているように見えないこともない。あちらの方にはしゃがみこんでいる男。少し離れたところからはため息が聞こえてくる。10秒おきに腕時計に目を落とす若いアンちゃん。
 来ない。来ない。
 やっと来た。
 店へ入ってから15分以上が経過していた。前に並んでいた人数は10人にも満たなかったはずだ。

 砂漠の味がするハンバーガーを食べ終える頃になって初めて、身体がアメリカという国に帰ってきたという現実を受け止めていた。

 寒さのせいか、それとも最後にミッドタウンを歩いたのがクリスマス前という極端に人出の多い時期だったからかそう感じただけなのか。食後に散歩をした街は閑散としていた。テレビのあるレストランを窓越しにのぞいてみたのだけれど人は入っていない。街頭の大型スクリーンの前に人だかりはあるが大したことじゃない。ここも、あそこも……。考えつくのはただひとつ、歴史の大きなひとこまとなるであろうこの日を、その瞬間を人々は家で、ある者はワシントンD.C.まで足を伸ばし迎えているのだろう。会社がなんだって言うんだ。
 僕のいるこの街そのものは、熱狂とはほど遠く静まりかえっている。

 変革を待つ人は多い。その数がオバマ新大統領の支持率となって表れている。
 ただ、その内のどれだけの人が自覚を持っているのだろう?少なくともバーガーキングのカウンターの向こう側にはその予感や兆のかけらすら転がっていない。今の時点では。もっとも期待は誰もがしているのだろうが。
 ただ待っているだけではなにもやって来ることはない。バーガーキングのカウンターに関しては、待てばいつかは来るのだけれどそれはすでに契約が終了していてその履行を待つというだけのこと。
 ただ待つだけ。
 それはタクシーが一台しかいないアメリカの田舎町で電話をすることもなく、スーツケースに腰をおろして車影の現れるのを待つようなものだ。
 それとも変革に参加する前には最低賃金を上げなければならないのか、税金を下げなければならないのか。餌がなければ人間は動けなくなってしまったのか。

 4年や8年はまず手始めといったところ。
 とにかく僕はバーガーキングのサービス向上を待っている。
 その時こそがこの国のchangeが動き出した時だろう。
 貧困、そこからの向上心、食生活の傾向、物価、景気の反映、人種、大量消費、そして人間の根源。
 バーガーキングにはアメリカのすべてが凝縮されている。


 デヴィッド・ボウイがChangesで"Time may change me, but I can't trace time."と唄ったのはもう40年近く前のこと。
 40年後に生きているとしたら、今、この時をどういう目で見ているだろう。
[PR]
by seikiny1 | 2009-01-21 11:13
IRAQ WAR ENDS (イラク戦争終結)
 前行く人の背中を見ながら階段を上っていく。地下鉄駅からの階段を上りきって見上げた透明な冬の青空には飛行機雲がひと筋。
 短い横断歩道を渡ったところでは若い男が新聞を配っている。
 無料のサンプル誌のようだ。
 街を歩いていると無料で配られているものと出会うことがある。コーヒーであったり、クッキーやチョコであったり、缶入りソーダであったり。そういえば少し前までは5本入りの新しいフレーバーのタバコを配っていたりもした。光陰如矢。
 もちろん新聞も例外ではなく、New York PostやDaily Newsの無料配布にはよく出会う。しかし、今日のはNew York Timesだった。
 
 インターネットでニュースをチェックすることが多くなり、広告主もそちらへ流れている。一方で、数年前からは日刊無料紙の配布が始まり、新聞業界は悲鳴をあげている。
 ニューヨークの四大紙といえばThe New York Times、Wall Street Journal、Daily News、New York Postだが、その内の三誌がここ数年で紙面サイズを縮小をした。The New York Timesからはつい先日Metro Sectionが消え他に併合されたばかりだ。
 新聞業界の不況は僕が思う以上に深刻なのかもしれない。

 手渡されたものは”Special Edition”と書かれた薄手の号外だった。
「何か事件が?」と目を落とすと大きな文字で
“IRAQ WAR ENDS”と書かれている。
 突然のニュースに驚き、早足で近所にあるパブリックスペースへと向かう。

b0063957_1117124.jpg


「ふん、ふん、ふん、ふん。なるほど……」
 一通り記事に目を通したあと、どういったわけか目端に引っかかるものがある。そこへ焦点を合わせてみると、
“SATURDAY, JULY 4, 2009”
の文字が飛び込んでくる。
 よく見ると左肩には、
“All the News We Hope to Print.”の文字。
 架空記事だった。新しい販売促進活動をするにあたって浮かんだアイデアか、それともまったく別の団体がNew York Timesのタイトルだけではなく、構成、論調、書き方などのすべてを徹底的にパクり、ビラ代わりに配布をしているのだろうか。そうだとするとまるで映画Stingのようなコン・ゲームの世界だ。
 Veteran’s Day(退役軍人の日)の翌日に配る手の込みようだ。
 どちらにしろ、こういったことを真剣にやってしまい、それが許される。そんな気風と、余裕のあるこの国が僕はまだまだ好きだ。

 ただ、これを他のメディアでやってしまうと、1930年代にオーソン・ウェルズがラジオでやった火星人襲来のドラマ放送後のパニック(実際に火星人がやって来たものと信じ、人々に恐慌をきたしてしまった)のようになるおそれがあるので、こんないたずらが許されるのは紙媒体だけだろう。
 架空記事といえばThe Onionという無料誌が有名だが、ヘッドにThe New York Timesとあのロゴを刷り込まれるだけで書かれている内容を信じてしまう。それほどにこのブランドの影響力は強い。少なくとも僕は五分の間「戦争が終わった!」という<事実>を噛みしめ、温かな気持ちになっていた。
 数日前には、H&M原宿店の開店に列をなす若い女性たちを報じるニュースで見ながらせせら笑っていたのだが、彼女らと大して変わることのない自分が間違いなくここにいる。僕の中にもブランドを信仰し、信頼している箇所が確実に存在する。
 もしこれがamNYやmetroといった日刊無料誌であれば、まず疑ってかかったことだろう。
 余談だけれど、今日付けのmetroでは金正日のことを「South Korean Leader」と報じていた。ブランドとは結局それを作り上げた人たちの誇りであり、同時に責任でもある。贋物に対して敏感になるのは、金銭的なことはもちろんあるのだろうが、誇り・責任という面からの方が大きいのではないだろうか?贋物が出回るということは、社会的に認知されたという側面も否めないのだけれど。

 報道のあり方については様々なことが問いざたされ、僕も、特に日本のものに関してはうがった見方をしてしまうところがある。
「あなたとは違うんです」で話題になった福田前首相の辞任表明会見のニュースを見たときは、
「バカじゃねぇ、コイツ。辞めちまうからってもう投げやりになってるよ」とあきれ返ってしまったけれど、調べてみるとそれは事実を抽出した報道に過ぎないことがわかった。会見の映像を通しで見てみるとまったく突拍子もないことを言っていたわけではなく、うなずける部分もある。
 バラエティーなどの影響で作り手も、見る方もウケというものに毒されてしまったのだろうか?プロであるからには<事実を私情抜きで伝える>という姿勢を貫いてほしいという思いはただの理想に過ぎないのだろうか?人々はそんなことはもう求めないのだろうか?

 見るたびに消化不良を起こしてしまうものがある。
 アメリカで某民放が流す日本語放送は、素人目にもへたくそな技術でズタズタに切られ、ボロボロに縫い合わされ、終わった後に「で、どうなったの?何を伝えたいの?」と屋根に上っている間にはしごを持っていかれたような気分になる。
「腹減ってんのか?食わせてやるぞ。こんなもんでも食っときな」
 刑務所の受刑者でさえ、まだましなものを食っていることだろう。これに到っては報道どころか、会社の姿勢の問題だ。そんな番組を見ながら「なんだ、この野郎は!」と画面の奥にいる見えない誰かに向かって毒づくことをどこかで楽しんではいるのだけれど。もし、これが某民放の目論見だとしたら大当たりだ。
 とにかくプロというものは、それを名乗る者は技術はもとより、しっかりとした意識を持ってこそ初めてプロと認められることを忘れないでほしい。

 パブリックスペースのテーブルに号外を置き、横目で通り過ぎていく人の表情を観察する。その反応がまた面白く、
「ちょっと読ませてよ」と寄ってきて手にとる人。
 何気なく後戻りをして、長い間背後に視線を感じる人。
「ねぇ、その新聞どこで手に入れたの教えてよ」と配っている場所を聞く人と様々だ。共通しているのはどの表情を明るいということ。

 久々に騙される快感を味わうことのできた朝だった。
 さて、日本にこれほどブランドネームのある新聞、いや、マスコミは存在するのだろうか?
[PR]
by seikiny1 | 2008-11-13 11:17
四辻
♪ 生まれた時が悪いのか
それとも俺がわるいのか ♪

 朝、トイレへ行くために台所を横切った。床の真ん中でネズミが息絶えていた。僕の親指ほどの大きさしかないちいさなネズミ。
 もう一年くらいのつきあいになる。下の住人が引っ越していった頃からうちにも顔を出すようになっていた。台所に置きっぱなしにしていた食物を何度もかじられ、そのたびにこちらも歯噛みをして悔しがった。かじられることのないように食べ物を置く場所にも色々と気を使った。それでアイツはこちらの隙をついてくる。いたちごっこならぬネズミごっこがいつも繰り広げられていた。
 リビングに座っている時、何度も、何度も目の端を小さな灰色が駆け抜けた。
 台所の方からカサカサという音もよく聞こえてきていた。チリ入れの底で静止しているアイツを見かけたこともある。
 そんな時には複雑な感情になってしまっていた。
「ケッ、またネズミかよ」
「がんばってるな」
 そんなアイツももう今はいない。最後の一歩を踏み出す時アイツはどんな気持ちだったのだろう?
 少なくともあとしばらくの間は同じこのアパートで飯を食べ、酒を飲み僕は生きていることだろう。アイツがいなくなっても。

 アイツのなきがらを片付けた。トイレでタバコを喫う。
「チュンチュン……」
 窓から声のするほうに目を移して見たら、隣家の裏庭にある陽だまりのなかで大勢のスズメ、そしてなぜか一羽の鳩が食事中だった。そこには毎朝おばあさんが餌をまく。そんな光景を眺めながら頭の中に流れ出したのが冒頭の歌。子供の頃、父親がよく見ていたテレビドラマ『非常のライセンス』の主題歌。主演は天地茂さんだった。
 陽だまりの中まるまると肥えたスズメたち。数メートルしか離れていないこちらの台所ではネズミ君が息絶えてしまっていた。こんなにすぐそばであるのに、お互いにその存在に気づくことすらなく。どちらも飼われている動物ではないのに、片方はかわいがられあと片方は忌み嫌われてしまう。
 ネズミに生まれてきて幸せだったのか?
 スズメとして生きながらえることは幸せなのか?
 そんなこと誰にもわかりはしない。

 昨年のハリケーン被害にも負けることなくニュー・オリンズではマルディ・グラが今年も開催された。いや、こんな年だからこそ開催したのだろう。歴史に残るものとなったことだろう。
 そんな街で生まれ育ったミュージシャンの中の一人であるDr.John(ドクター・ジョン)。“Right Place, Wrong Time”という曲がここ数年気にかかっている。
 Right Place, Wrong Time
 Wrong Place, Right Time
 Wrong Place, Wrong Time
 Right Place, Right Time
 僕はこの四辻のどこに立っているのだろう?少なくとも最後の箇所には立ちたくない。
 昨日までは邪魔者であり、同時にそこに生のあることが少しだけ喜びでもあったネズミ君。今日はその冥福を祈る気持ちでいっぱいだ。次はなにに生まれ変わってくるのだろう?人間と同じで、そんな問いに
「ネズミ!」と彼も即答するのだろうか?

 そして明日の朝になればこんなことは忘れて僕は目覚めているのだろう。
 僕はこの四辻のどこに立っているのだろう?
[PR]
by seikiny1 | 2006-03-01 03:51
<2>ストスト
 怒るということは比較的たやすい。
 とは言ってもその背景には悲しみがあったり、驚きがあったり。そう単純なものではないのだけれど。

 今でも浮かんでくるのは人々の怒りの表情とその声。今回のストライキで二日目以降に流された映像たち。
 まったく迷惑な事件ではあった。三日間続いたニューヨーク市の地下鉄・市バスの労組による全面ストライキ。職場まで、学校までの長い道のりを歩きながら、渋滞に巻き込まれた車の中でクラクションを鳴らしながらみんなは何を考えていたのだろう?

 多くの人々がこのストライキで文字通りその足を奪われてしまった。地下鉄・バスという名前の足。ほとんどの人にとってそれは生えていて当然なもの=足だった。こういう僕もその一人であることに間違いはない。失くしてしまった足にしばし唖然となった後、ある者は自分に二本の足があることに気付き、またある者は別の足を探しそれに頼る。足、それは動物の生活になくてはならないものだから。足を失った時、人は車椅子や松葉杖の生活を強いられる。そんなことを考えた人もきっといたことだろう。さてその中に足だけではなく、その地盤のことについて考えた人はどの程度いたのだろうか?
 なにかの事件・事故が起こる。そして、たとえそれがどんな場所であろうとある程度状況が落ち着き、まわりを見渡すことの出来る余裕が生まれるとその原因となったものの糾弾・糾明が始まる。責任の所在を明確にすることだけにやっきになってしまう。時としてそれは報復というものに発展していく。自分にはあまりかかわりがなく、なぜかしら自分に正義があると思ってしまう。
「目の前に落ちてきた石。誰が落としたんだ?」
 とりあえず落としたやつを探し、なじる。ほとんどの場合そこで満足をしてしまいその背後にあるものまで考えることはない。しかし吊るし上げでは何も解決することはなく、似たようなことが形を変えてまたやってくる。凶悪な殺人はまたどこかで起こり、再び飛行機がビルにつっこんで行くことがあってもあまり不思議はない。そして戦争は終わることなく繰り返していく。

 偶然なのだけれどここしばらく割り箸を見ながらいろいろなことを考えていた。割り箸という言葉からまず頭に浮かぶこと。それは多くの人と同じで
「無駄」
 たしかにそれは森林破壊につながり、この割り箸という木(竹)材は多くの場合資源として再利用されることなく消えていってしまう。まったくの無駄だ。使わない方がいいのかもしれない。多くの人がどこかでそんなことを考えている。
 割り箸というものに興味を持ち少しだけ調べてみた。
 地球環境について多くの人が真剣に考え出した今、この世界から割り箸を消滅させてしまうことはそう難しいことではないかもしれない。実際、そういった運動をしている人もいる。しかし、こういった見方だってある。割り箸の中には余剰材や、間伐された中途半端な木を使って作られている物もある。そう考えてみると実は割り箸を作ることがリサイクルだったりする。またその製造・流通に関わる人達にとってそれは死活問題でもある。使わなくなったからといって中国での洪水がすぐになくなることはない。植林された木が育つにはまだ数十年がかかり、その予算を誰が出すかという問題もある。洗い箸がいいかと言えば、一概にそうとは言えずいずれは洗剤による水質汚染も考えられる。

 目の前に転がる石を蹴飛ばして進むのはたやすい。やらなくてはならないこともあるかもしれない。しかしもっと大切なのはそれだけではなく、そこで何を学ぶか?ということだと思う。学ばなくてもいい。足・足元だけではなくそれの乗っている基盤というものを考えてみるだけで少しは違ったものが見えてくるはず。

「結局戦争はなくならないだろう」
 イラク戦争は今でも続いている。厭戦気分は少しずつだが確実に上昇し、反戦運動の環も大きくなったように感じる。そしてストがやってきた。
「何も変わっちゃいない」
 人々の怒る顔を見ながらそんなことを考えていた。
 二〇〇一年からのたったの四年あまりでそんなことを期待している僕の方が甘いのかもしれない。それでもあの事件は人々の中に大きな傷跡を残し、考えることをさせてくれたのではなかったのだろうか?

 二つ前の夏、真っ暗な夜が訪れた。結局それは一夜限りのお祭りで終わってしまった。
 しかし今回のスト。それは多くの人が当事者であり同時に被害者でもあるという意味で最近ではまれに見るニューヨークの大事件だったはずだ。ある意味(ほとんどの人にとっては)直接的な生命の危機を伴わないテロに似た面もある。その時の人々のとった行動は、そこに生まれた感情は?
 これからが戦争なのだろう。人々はテレビのこちら側で核兵器の所在や、首謀者の処分の映像を見ながらビールを飲む。もう目の前の石は蹴飛ばしてしまった。

 もう石はない。
 それでいいのかな?
「歩くことによって何を目にしたか?何を考えたか?」
 他人から、自分からもう少しそういったところにスポットを当てるべきだろう。このストはそういった無言のメッセージをたくさん含んでいる出来事だと思う。
 たとえば歩くことの爽快さ、都市生活というものの基盤の惰弱さ、人と人とのつながり、本当に大切なものは……。そんなことを考えたのは僕だけではないと思う。そんな中からひとつだけでも先につなげていくことが出来ればそれでいい。
 この一見マイナスにしか見えないもの。それをいかに少しだけでもプラスに換えていくか。それがこの小さなテロに、戦争に巻き込まれた人々がやらなければならないことのように思う。少なくともこう思うことだけでもこのストをプラスにすることは出来る。
 このストの意味を考える。
 それは起こした側にもやはり求められるもの。もちろんそれを感じている人はたくさんいるだろう。
「クリスマス前のこのストによってプレゼントをもらえなくなってしまった子供がいるかもしれない」

 怒ることはたやすい感情表現ではあるけれど、それはいつも双方に気まずいものを残していく。
 怒るだけではなくエネルギーをあと少しだけ他に向けてみてはどうだろう?

 引き締まった冬の空気の中を歩くことは気持ちよく、楽しい事でもある。
<憎しみの構図>というものもそこではひびが入り音をたてて砕け散る。





◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『ボヤキTV』というのができました。

 ニューヨークの日系誌に三年ほど連載している僕のコラム『犬のボヤキ』とこのブログをあわせたようなコンセプトで作っていただいています。ニューヨークの街角でブツブツと言っている動く僕を見ることができます。
 正直言って「観て欲しい」と「観ない方がいいんじゃない」という気持ちが半々です。

 まぁ、これからもボヤいていきます。直らないでしょう。



『ボヤキTV』》←コチラです!
[PR]
by seikiny1 | 2005-12-27 09:25
深夜のキャッチボール
 深夜にがらにもなく熱い日本茶を飲んだせいだろうか?眠れなくなってしまった。時計を見るとしばらくの間は眠っていたようだけれど、それも長いことではなかったようだ。
 なぜか「寝なくちゃいけない」、なんて考えて寝返りをうったりしながら一時間ほど試してみたけれどあきらめる。冷静な第三者の目で眺めてみると、まるで何かにもがいている子供のようでもある。一体何をもがいているのだろう?

 もがいている。そういう時は考えるでもなく、必ず何かを考えている。お坊さんの言う<無>の世界は遠いかなたにあるみたいだ。そんなもがきと引き換えなのか、考えあぐねていたある事にいいアイデアが浮かんだ。意を決して起き上がる。

 真っ暗な寝室でアイデアが浮かぶ事が多い。そこには半覚醒した自分と闇しかない。頭の全てが働いているわけではないけれど、日頃使われていない部分が使われているのかもしれない。とにかく半覚醒している僕と闇の間に不思議な力が生まれる瞬間があるのかもしれない。僕の中では、覚醒と睡眠がキャッチボールをしている。そして、たまに誰かが
ヒットを打ったりもする。ホームランはまだない。
 闇の中そしてベッドの中の空間。これは、とにかく他のあらゆる誘惑に惑わされる事なく、思考する事ができる空間。しかし思考しようと思って、できる空間ではない。
 こう考えると眠れない夜もそうそう悪いものでもない。

 ベッドから抜け出して浮かんだアイデアを書き留める。ノートとのしばしの仲良しに別れを告げて今度こそ眠れるように酒を飲んだ。時計を見上げてみると午前五時を過ぎている。
「少しだけ本を読んで寝よう」

 朝に弱い。かなり弱い。
 ここでは毎朝、睡眠と覚醒が今度は背中を向けながらキャッチボールをしている。
 たまにだけれど、ここからもヒットが出る。

 食後の(五分程度)の短い昼寝が好きだ。短い時間でかなりのリフレッシュができる。その前と後では頭の回転がまるで違ってくる。

 僕は睡眠との縁がほかの人よりかなり深いのかもしれない。
 一生の三分の一を睡眠にあてるのをもったいないと思う人もいる。しかし、僕の場合、それはかなり必要なもの。ただ眠っているだけではない。確実に生産性があるように思う。もしかしたら、起きておくために眠るのではなくて、眠るために起きているのかもしれない。人は一体どちらが本来の姿なのだろう?
[PR]
by seikiny1 | 2005-10-12 09:34
安田ラジオ
 月並みな情報ではないものをニューヨークから発信し、叫ぶ《安田ラジオ放送局》
 昨日は、安田ラジオに出演させてもらいました。結局、収録より飲んでる時間のほうが長かったです。おかげで、今日はかなり久々だけど一滴も飲んでいません。

 興味がある人は聴いてみて下さい。
 安田ラジオ放送局(←クリックしてください)
[PR]
by seikiny1 | 2005-09-26 17:13
EDGE
「紙がない!」
 と言ってもトイレでの話じゃない。電車を降りて、公園のチェアでタバコを喫おうとしたときの事。
 あぁ、もう約束の時間だ……。
 ニューヨークのタバコは気が遠くなるほど高い。普通の物だと、一箱七ドルはする。完全にぜいたく品。貧乏な僕はここ数年、手巻きタバコを喫っている。これだと税金の関係で一ドル五十セント。二十五本は巻ける。必要なのは紙と葉。
 出かける時にバタバタしたせいか、紙を持って出るのを忘れてしまった。タバコを取り出して火がないのも辛いが、紙がないのもまた辛い。子供の頃、プラモデルの部品が足りなくて泣きそうになった事を思い出した。ないものがまた欲しくなる。これが人情。
 ぐっとこらえて人と会うために約束の場所へ。

 約二時間後、僕の足はミッドタウンを西へと進んでいた。「西へ行けば必ずあるはず」。最近ミッドタウンからは足が遠のいているので、今ひとつ自信はなかったけれど頭のどこかで確信に近いものもあった。紙そのものはどこのタバコ屋出でも手に入るのだけれど、紙だけで一ドルは確実にする。それならばいつものタバコを買えば紙がついてくるので、ということで安タバコを探して西へと向かった。
 六番街、「ない」
 ブロードウェイ、「ない」
 七番街、「まだない」
 八番街、「やっとあった」
 道端に腰を下ろして一服。

 実に不思議な話だけれど、僕が来た当初のニューヨークの匂いが残る場所と、この安タバコが売られているエリアが見事にダブっている。島の中心部でそれを見つけるのは困難だ。どんどん端っこに追いやられてしまっている。あのタバコがある場所には、あのニューヨークが残っている。そこに住み暮らす人々の表情、喧騒、雑然とした中に変な安堵をおぼえる。
 もっと古いニューヨークはきっと川を、海を、そして橋を越えてどこかへ行かなければ見つからないのかもしれない。きっと多くの人が、それぞれの心の中のニューヨークを探しているのだろう。その人たちは一体今頃どこを歩いているんだろう?
 ナポリで、ベルリンであの頃のニューヨークの匂いを嗅いだ。間違いなくあの匂いだ。僕のニューヨークはどうやらあのあたりに行ってしまったらしい。生まれたらしい。
 地球のスペースは限られている。そして地球は丸い。あのニューヨークもいつの日かきっとここに帰ってくるだろう。それまでは小さなニューヨークで遊んでおこう。

 たった一本のたばこ。
 しかし、その向こうには地図がある。みんなは何を通して自分の地図を眺めているのだろう?
 僕のニューヨーク。それはバスから降り立った時のあの匂い、そしてそれからの原体験なのだろう。さぁ、地図の点を一つでも多くするためにまた歩こう。

 噴水からはまだ水が出ている。まだ日陰を選びながらで歩いている。これがもう少し経つと日なたを選ぶようになる。その境目はどこなんだろう?
 日陰から日向になるように少しずつだけれど、自然に変わる。僕自身も。
[PR]
by seikiny1 | 2005-09-14 16:52
おひさしぶりです
あと一月ほどで帰る予定です。近々、時間を見つけて書き込みをしようと思っています。
それでは、その時まで。
[PR]
by seikiny1 | 2005-06-23 20:03
SHAVEのSLAVE
 よく前を通るガラス張りの小さな店がある。先日信号待ちをしながら何気なくその店を眺めていた。オープン直後の午前中、三人の店員と思しき人達がデスクを囲んで談笑中。朝ののどかな風景を感じながらガラスに目を泳がせて見るとそこにはポスターが一枚。いつからそこに張ってあるのだろう?今まで気付いた、意識したことはなかった。
 「!!!、???」
 それは一瞬であったけれどすごい勢いで僕を襲ってきた。<SLAVE>の五文字。混乱しながらもよくよく見直してみると書かれている文字はSHAVEだった。その上にはT字型剃刀の写真。正体がわかっても僕は<SLAVE>という言葉を引きずり歩き続けた。
 僕の中ではSHAVEよりSLAVEの方が重きをなしているのかもしれない。
 常に何かの奴隷であり続ける自分がいる。たとえば「毎朝ひげを剃らなければ<ならない>」。そんな生活をしている。ホームレスの頃はイヤになったら、自分で不快を感じたら剃るだけだった。果たして個人的にはどちらが幸福なのだろう?はかりになんかかける事は出来ない。失ったものもあれば得たものもある。比較の基準がまったく異質なものである。それでも人は比べずにいることが出来ない。まったく同じ言葉<幸福>で表わされるもの。それでもひとつひとつがまったく違う要素から成り立っている。共通しているのは常に何かの奴隷として生き続けるということ。しかしその奴隷は多くの場合自分の中にある。奴隷である事に引きずられている。SHAVEのSLAVEに自分からなっているのかもしれない。

 奴隷。それは心の持ちようで変わってくるはずだ。朝のひげそりを心地よく感じる自分を持つことが出来れば、それは義務から楽しみへと変わる。SHAVEのSLAVEから解放される。
 このお店は男のこだわりグッズのお店。ヒゲソリ用品の専門店。ただの道具へのこだわりだけではなく、そういった<精神面でのひげそりとの接し方を変える>というところにもこのお店のコンセプトはあるのかもしれない。たしかにその一枚のポスターは物事から解放される方法を僕に暗示してくれた。

 楽しみながら生きていく。嫌なものでもいいところを見つける。好奇心を持つ。嫌なやつの(自分では否定している)長所に目をあててみる。そんな小さな解放の積み重ねによって僕らは幸福になれるはずだ。
 まず手はじめに半年ほど使っている刃を交換してみよう。一年に数回しかそれを行わないほど僕はズボラ。交換した直後の肌の上をすべるような感覚は好きだ。変えればそれを味わえる事はわかっている。しかしその幸福は長続きしない。<滑らない>と感じるのは何日目からなのだろう?それはある日急に滑らなくなるのではなく、緩やかな曲線を描いて滑らなくなってしまうはずだ。しかしひげそりが毎日の点点の行為である以上、その日は突然やってくる。自分の感覚や、その時の気分もそれに影を落とす。そしてその曲線は段々とゆるやかな勾配になりそれでもいつまでも剃れ続けていてくれる。刃を交換した直後に大きな幸福感を味わうためだけに僕は刃を交換しないのかもしれない。そこにはいつの日か訪れる幸福の保証があるから。いや、その幸福はすぐに逃げ出してしまうことを知っているからなのかもしれない。幸福を失うことを怖れているからなのかもしれない。そして、ガサガサと引っ掛かり気味に肌の上のデコボコ道を進んでいるそれも「ひげを剃っている」という実感があり決して嫌いではない。
 たった一本のひげそりでこれだけ考えることの許された僕は幸福なのだろう。ありがとう。
 そう、物事は見方次第でどのようにもなる。誰だって幸福になる事が出来る。
 生活の奴隷にはならない。
[PR]
by seikiny1 | 2005-04-19 14:02
記事ランキング 画像一覧