(つづき)
静音は無音ではない。
静音という音である。
音に限らず、存在するものを完全にかき消すことはできない。
消しゴム、砂消しゴム、シンナー、修整テープ、今では化石に近い存在となってしまったタイプライター内蔵の修整リボン、修正液、白マジック……。
消すために様々な道具が存在し、
削る、分解する、根絶する、かぶせる、惑わす、足す、引く……。
方法もまた星の数ほどある。
そんな中でずっとしっくりとこなかったのが「かぶせる」というやり方。
「なかった」ことにしてしまう。
間違いを2本線で消し横に小さな修整印を押す。
このやり方を見ていると、夏場に苦笑いを浮かべ自己紹介をするクールビズ姿のビジネスマンを思い浮かべてしまうのだけれど、これともまた違う。
消すという行為の中に、上から白く塗るという方法が加わった時に人は大切なものを失ってしまったのではないだろうか。
白の出現はまるで核兵器のようなdeleteボタン以上だったと思う。
さて、僕たちはいつの頃から消すという作業を行うようになったんだろう?
たしかに白いマジックとの出会いは衝撃的で、発想の根幹を揺さぶられるような衝撃を受けたけれど、時と共にそれはどこか「しっくり」とこないおき火のような感情に変わってくる。
赤や青などとは違い、白は今も昔も特別な色として僕の中で存在を続ける。
まだ白いマジックにはまだ出会っていなかったと思う。
「うーん、雲もちゃんと白く塗らなくっちゃねー」と言う声がおりてきた。
見上げると担任の先生が僕の横に立っていた。
僕は青い空に浮かぶ雲を画用紙の地の色をそのまま残して描いていたのだ。
白い絵の具をパレットにしぼり出しながら、どこか割り切れないものを感じている。
(どうして同じ白なのにわざわざ塗らなきゃいけないの……)
今は白だけではなく、赤にも青にも無数の同じようで異なったた色のあることはわかる。
しかし、あの頃は白は白であって画用紙の色でしかなかった。
たしかに空に浮かぶ雲はそこにあるのであって、青空に穴が開いているわけではないのだけれど。
白い絵の具で雲以外には何を描いたのだろう?
白い絵の具はそれ単体で使うよりも、別の色と混ぜて使うことの方が確実に多かった。
水色、淡いピンク、薄い緑色。そんな色が好きだった。
パレットの上で混ざりきる前のマーブル状のからみあいが好きだった。
クラスの中には24色、36色入りの大きな絵の具セットを持っている子供たちもいて、うらやましくもあった。
それでも色を作り出す作業の方が僕には魅力的だった。
結果として変な色を多用した不思議な絵ばかりが描かれてしまったのだけれど。
高校へ入ると芸術の授業はは選択制となり、「楽だ」という安易な理由から書道を選択し絵や色というものと直接的に向き合うことが少なくなる。。
無地の白いTシャツを「かっこいい」と思うまで、白とはそんな色だった。
(つづく)