ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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黒いカバン
 ゴミ箱のふたを開けることこそなくなったけれど、街を歩いていると今でも落ちているものが気にかかってしまう。また、いいものを手に入れることも多い。立ち止まること、手を伸ばすこと。その瞬間にわずかながらも<間(ま)>が生じた時、それは僕が変わってしまったということになるのだろう。

“You’ll never find anything in Chinatown. “
(チャイナタウンじゃなにも見つかりっこないよ)
 ホームレスの頃、さんざん仲間から聞かされた言葉。実際にチャイナタウンで「コレは」というものを見つけた(拾った)ことはなかっ「た」。
 チャイナタウンを歩いてみても「お見事!」という言葉しか出てこない。目にとまるものはまったく使用価値のない掛け値なしのゴミばかり。これが正しい、昔ながらのゴミの姿なのだろうけれど,ここアメリカ、ニューヨークではそれが奇異に映ってしまう。そこから連想するのは大豆から豆乳を作り、湯葉を作り、豆腐を作り、おからを作る。それでもどうしても出てきてしまう微量のカス。家畜のえさにすらできないようなものだけをゴミとして処分する。そういった行為だ。
 そんなチャイナタウン。リトルイタリーを虫食い状態にしてしまった中華パワーにもここのところ異変を見てとることができる。
 以前では<出租>としか書かれていなかった賃貸物件の看板に<for rent>の文字が添えられていることも最近では珍しくない。歩いてみると白人がアパートに出入りする姿をよく見かけるし、涼しげな顔をしたカフェやブティックまでもが目立ち始めてきている。
 SOHO→East Village→NOLITA, Lower East Sideといったダウンタウンを転がり続けている大きな石の次なる通過点はチャイナタウンなのかもしれない。ニューヨークという魔力の前ではさすがの中華パワーもなすすべはないのか?

 そんな街で黒いカバンを拾った。
 新品ではないけれど、ほぼ新品に近い状態のもの。寒風の通り道Allen St.。Grand St.との角だった。そいつは信号待ちをして何の気なしに落とした目の先に転がっていた。ゴミ箱の横で僕を見上げる彼。僕らはすぐに意気投合をした。
 先の持ち主はせっかちな人のようだ。買物のあと待ちきれず、信号待ちの間にカバンの中身を移し替えて先代を路上に置き去りにしてしまったらしい。

 思い出してみると、黒いカバンを手にするのは約三十年ぶりのこと。これまでの人生でたった一度だけに手にした黒いカバンは中学入学の時に買ってもらった学生カバンだ。別に避けていたわけではないのだけれど、それ以降黒いカバンを手にしたことがない。
 それなのに、なぜ今?
「縁」というほかはない。そういうめぐり合わせなのだろう。

 黒いカバンと聞いて真っ先に連想するもの。
 それは、やはり泉谷しげるのアルバム『春夏秋冬』に収録されていた『黒いカバン』という曲。作詞は岡本おさみ。今、あらためて口にしているのだけれど当時の社会状況が生々しく浮かんでくる。その一方では、「今も昔もなにも変わっちゃいない」という思いが強い。
(詳しい歌詞については最後に貼り付けているリンクから見ることができます)

 八十年代のモノトーン・ブームの後、<黒>の立場は確実に向上している。しかし、それもわずかなこと。<黒>という言葉、色からどうしても「不吉な」、「あやしい」、「危険な」……といった人間の防御本能をかきたてるイメージを拭い去ってしまうことができない。そのほとんどが後天的なものであるのだろうけれど。
 黒、きたない、貧しい、場違いな……。
 人々は突出物を嫌う。特に自分以下と「思う」ものに眉をひそめ警戒心をあらわにする。実際にはそういった存在があるからこそ、自分の存が確認できているのに。とにかく、
「アイツは黒人だから……」
「やっぱり出がいやしいからな……」
「あんな格好をしているからだ……」
「どうもおかしいと思っていたよ……」
 黒いカバンにはどうしてもそんな言葉や憶測がつきまとう。奇異の、懐疑の視線を集めてしまう。ただ黒いカバンを持っているだけなのに。持ちたくて持っているのではなく、黒いカバンしか持つことのできない人だってたくさんいるはずだ。
 人の思い込みは怖ろしい力を持つ。

 世界で一番黒いカバンを持ちやすい街。それは間違いなくこのニューヨークだろう。黒いカバンを奇異の目で見ることを表面上ではあるといえ許さない街。たとえそれが「それぞれの思惑があって」というお約束事であったとしても、大手を振って黒いカバンを持つことを許される。逆に黒いカバンを非難することは袋叩きの憂き目に遭うことすらある。
 たとえそれが上辺だけであろうと、僕はそんな街が好きだ。それは偽物、作り物かもしれないけれど、そこから生まれ出るものが必ずあると信じているから。そこから真に黒いカバンを認める人達が出てくる可能性があるから。

 MLKのように生きることはできない。
 アメリカの南部で黒いカバンを手に堂々と歩くといった勇気に欠けているところがある。それはそれでいいと思う。自分の大きさの黒いカバンを持てば、それで。
 南部。そこは永遠のあこがれの土地。そこで生活をしてみたいという気持ちは今でも残ってはいる。それでもあの大地の中、黒いカバンはあまりにも大きく、重い。昨年の旅で、それは表層をなぞったに過ぎないのだけれど、十分に肌で感じてきた。

 NYに住むことができてよかった。
 僕の黒いカバンを大切にしていこう。



『黒いカバン』歌詞

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by seikiny1 | 2007-02-12 03:47 | 日本とアメリカと
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