ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ダブルバッグ
《ダブルバッグ》という習慣がある。スーパーなどで買い物をした際に取っ手のついたビニール袋(日本で言うところのレジ袋?)を二重にすること。買った物がよほど軽いものでないかぎりレジのオネーさんが無条件で、手早くダブルバッグにしたものを渡してくれる。
 それは当然のことと思っていた。しかし違っていた。ここのところダブルバッグにお目にかかることがない。「ここのところ」というのはニューヨークを出てからの約二ヶ月間、各所でということ。どうやらこれはニューヨークだけの習慣のようだ。
 考えてみればこの<バッグ>とは物を運ぶたに使われる臨時の(しかし今となってはそれがあたりまえになってしまっているが)手段に過ぎない。ニューヨーク以外の場所での寿命はレジからショッピングカーとまで、ショッピングカートから車まで、車から屋内までととても短い。全部あわせても、長く見積もったとしても、ものの数分の間の命に過ぎない。別にそれほど丈夫でなくても、二重にしなくともほとんどの場合にはその使命と寿命をまっとうさせる事ができるのだろう。

 どうしてもやっつけてしまわなければならない事があって、正味三日間だけではあるけれどニューヨークへ帰ることになった。。
 日程も決まったので旅行カバンの整理にとりかかると出てくるわ、出てくるわ。あそこからも、こちらのポケットからも次々とビニール袋が出てくる。旅もはじめの頃は「なにかと必要だからな」、と小さく折りたたんでカバンの中に放り込んでいた。その後も習慣は変わることなく気づいたらこんなことになっていた。無駄な使い方をしたものは一枚もないと思う。それにしても……。抑えているつもりでもこれだけの買い物をしたというわけだ。もうこれからは袋持参で買い物に行かなければ収拾のつかなくなることは目に見えている。しょせん捨てることはできないのだから。outputがないのにinputだけを続けていればいつか水はあふれ出す。洪水を防ぐためには堤防を高くするか、植林をするか、川幅を広げるしかない。僕にできるのは、そして一番いいと思う方法は木を植えること。
「いるかい?」
 ここ数週間ほど、買い物から帰ると僕にこう聞くのが相方の習慣になっている。人間とはおもしろいもので僕同様に彼も僕のことを観察しているようだ。受け取ったり、そうでなかったり。その時の気分によりビニール袋たちは死んだり、眠ったり。他人の面倒まで見ることのできないことはその頃にはわかっていたから、受け取らないときはただ死にいく者の冥福を祈ることしかできない。
「余っているやつないかな」
 移動の朝、こう問いかけてくるのも彼の習慣になってしまっている。僕のほうも荷物を詰め込んでしまう前に袋を二、三枚出しておくのを忘れないようになっている。習慣と習慣がかみあいぎこちないながらもなんとかまわり続ける。人間関係だけは使い捨てにすることはできないから。<使い捨て>のもの。それに対する姿勢は使った後になんの迷いもなく捨てることがただしいカタチなのだろうか?

 捨てるためだけに作られる。それはあまりにも哀しい。そんなことを考えるとセミの鳴き声が耳の奥に響きだす。死ぬために生きる時間の差こそあれ、人間もまたセミとかわらない。死ぬために生きている。しかし、それがあまりにも短いと哀しみが募ってしまうのが人情だろう。
 買い物から帰ってきたビニール袋はゴミ箱のライナーになるいとまもあたえられずにその中へと投げ込まれてしまう。食事を前にしてナイフとフォークがなければ大騒ぎをしてしまう割りに、一度欲求にふたをすることができればそのありがたさもゲップと一緒に吐き出してしまう。無料の新聞は読まれるほかにも色々と用途があるからまだましか。無料になった途端その姿が変わってしまうのもまた不思議ではある。それは人間のわがまま。。
 さて、今、この時代。使われる時間がそれを作るために、その用意をするために要されるものより長いものはいったいどのくらいあるのだろう?日に日にその数は少なくなっていくように思えてならない。気前よく捨ててしまうことに一種の快感が伴うことはまぎれもない事実。しかしプラスチックのフォークを洗う姿が情けなく映ってしまう時代はなにかが、どこかで狂ってしまっている。

「このおもちゃあきちゃった。もういーらない」「ポイッ」
 この延長上に子供を巻き込んだりするものをはじめとする悲しい事件はあるのかもしれない。哀しいだけならまだいいのだけれど、ことが悲しいになってしまってはどうしようもない。こんな文字がこれ以上新聞に増えないようにしなければ。捨てることをやめることができないのであれば、手に入れることをやめるしか方法はない。川はいつの日にか氾濫を起こし、堤防からあふれた水の前で人間は無力に等しいのだから。
 感覚のマヒはとても怖い。<それ>を当然と思ってしまうから。そこに幻が現れないと誰が保障できるのか。


○この記事を読まれて<なにか>を感じられた方。
ここを押していただけたらウレシイです。



○新しいブログ《ボーカンシャ》です。よかったらのぞいてみて下さい。
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by seikiny1 | 2006-06-18 11:50 | 思うこと
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