「ない、ない、ない」
理詰めで考えてみる。
「ないはずはない」
それでもない。
冬がきらいではない理由のひとつに「寒い」というものがある。どうしても厚着になる。それに従ってポケットも増え、小さな物ならそこへ突っこみ、手ぶらで歩き回ることができる。しかも最近ではチャックやボタンのついたものも多く<なにか>を失くしてしまうことが少ない。
「あそこにも入っていなかった」
「ここにもない」
「たしかに内ポケットに入れたはずだ」
それを入れた時の情景を思い浮かべて見る。ほぼ完全だ。いや、それでもズボンの右前のポケットに突っ込んだ可能性もありそうだ……。
自分では気付いていなかったけれどかなり酔っていたのかもしれない。たしかに調子にのって強い酒を何杯も飲んでいた。外に出た時には夜はすっかり明け、朝の爽やかなはずの陽射しを受けながらなんだか後ろめたい気持ちがこみ上げてくる。毎度の事ながら朝陽はやさしく厳しい。そんな中を抜け、また地下鉄のほら穴へもぐる。一度だけ乗り継ぎがあった。どちらの電車の中でも眠り込んでしまう。もうその時間には週末出勤の乗客もチラホラ見えはじめスリの心配はないはずだった。不思議なことに乗り継ぎ駅、降りるべき駅、どちらでもスッと目がさめ乗り越しはない。
財布は持たない。カード入れも持っていない。必要なものはいくつかあるポケットの必ずどこかに入っている(はずだ)。
乗車駅の改札を抜ける時に間違いなくメトロカード(NY市地下鉄のプリペイド乗車券)を使った。何度やっても機械が読み込んでくれないので駅員さんの手を煩わせてホームへ入ったのでこれは間違いない。このカードは三十日の間無制限に乗車できるものでまだ十日ほど有効期限が残っている。自宅で数時間休み、すっかり酔いのさめた頭の中では[10×x+y+α……]と損失額の数式が計算され続けている。それでも手だけは何度も何度もあちこちのポケットの中を探し続ける。
「やっぱりないな。あきらめるか」
そう自分に言い聞かせながらも心のどこかでは時おり小さな「?」が点滅して消えることはない。そんな気持ちも一夜明けるとかなりやわらいでくる。時というものは不思議な力を持っている。特に<あきらめ>という場面では。
通勤客に混じって二ドルを支払いホームへ下りた。
「ついてない」
電車は行ったばかりで、長いコンクリートの島には点々と人の姿が見えるだけ。空気も動く気配がない。近づいてきている電車もないみたいだ。
「そういえば本を借りたんだった」
昨日何回もひっくり返した内ポケットの中には文庫本がまだ入ってた。何度もパラパラとページをめくりカードを探したけれど文字自体は読んでいない。それを取り出した時に少しだけ違和感があった。表紙とカバーの間から二ミリほど黄色いものが顔をのぞかせていた。
アインシュタイン博士に
「神はサイコロを振らない」という言葉ある。僕自身の解釈だと
「論理的に解明できない事象はない」といった感じになる。もしかしたら他に解釈があるのかもしれないけれど、とりあえず僕の中では<そこ>で落ち着いている。
表紙とカバーの間から見えた黄色いカードとを見た瞬間にこの言葉を思い出していた。転瞬、そのカードと有名なアインシュタイン博士の舌を出した写真がダブる。博士に感謝。そう、冷静に考えれば「ないはずはない」。それでもなくなることのなんと多いことだろう。
ギリシャには数々の神様がいて日本にも八百万の神様がいるという。キリスト教の国々では神様は一人で取り仕切っているらしい。いや、もしかしたらこの世には神様なんかいないかもしれない。それでもサイはあちこちで振られいる。たしかに神はサイを振らないのかもしれないけれど、いつの日も、どんな世でも神にサイを振らせることを忘れないように生きていきたいと思う。それが生活の潤滑油となるのだから。
バクチ的な生き方という意味ではなく、サイを投げられない人生、社会は不健全でおもしろくないから。原因がわからない、予測のつかない、不思議なことに包まれているからこそおもしろい。
それでも今日はサイを振らなかった神様にも「ありがとう」を言っておこう。
あの二ドルは神様へのおこづかいのようなもの。そう思えばそこまで惜しくもない。