ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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Footsteps(夢のにおい)
「ビーッ、ビーッ、ビーッ、……」
 耳をつんざくような鳴き声が聞こえてくる。目を上げてみるとTVの画面ではニコヤカな顔をした女性が赤ちゃん熊に哺乳瓶をくわえさせようとしている。もう片方の手はしっかりと小熊を押さえ込みながら。カメラ目線の顔は西洋人得意の写真うつりのいい顔。満面に笑みを浮かべている(あの顔は条件反射で出るのだろうか?)。穏やかな顔とは裏腹に洋服の下では筋肉が硬直していることだろう。映し出されない足はしっかりと踏ん張られていることだろう。そのギャップがかなしい。

 彼女が話している内容を聞いていると、どうやら野生動物の保護運動をしているらしい。しかし画面を見る限り(どうひいき目に見ても)虐待の二字以外は浮かんでこない。小熊は決してあきらめることなく身をよじりながら三分ほどは鳴き(泣き)続けた。女性も必死に哺乳瓶をねじ込もうとする。どちらも必死だ。愛ではなく闘いだ。
 テレビに出演してアピールすることの出来るチャンスなんてそうそうあるものではない。しかも視聴率の高い全米ネットのお化け番組。女性が必死になる気持ちもわかる。それだけにやっていることと訴えていることのギャップがより際立って見えてしまう。彼女の中では「愛する」ということより「訴える」ことの格の方が上であることだけははっきりとわかった。いつの間にかその順位が逆転してしまったのかもしれない。歩くということより、その歩いている道へのこだわり。
 小熊こそいい迷惑だ。押し付けられることほど迷惑なことはない。

 小学生のころだったと思う。
 高村光太郎の『道程』という詩を習い、その冒頭を今でも思い出すことがある。その詩自体にはそれほどこだわりがあるわけではない。ただ、「道」ということを詠ったそれは僕自身が「道」のことを考える時に必ず目の前に現れてくる。
「道なき道を行く」
 そんなことが美化され、男らしい(?)とされる風潮は今も昔もそう変わらない。そんな空気がなぜだかしっくりと来ない。そんなのは個人の勝手で「これがいい」なんてものがあっていいはずがない。それをやらないと「おかしい」、「らしくない」、「いけない」というところが腑に落ちない。どんな道を歩こうとも、たとえ踏み固められた道であろうと「どう歩くか?」ということのほうが大切なように思う。そこを忘れてしまうと上で書いた女性と小熊になってしまう。たぶんあの女性の腕には無数の爪あとが残されたことだろう。あとでそれを見ながら彼女は何を思うのか?
 切り開いた道の先が谷底に落ちていくのもよくあること。道のことをつべこべ言うよりも歩き方をまず考えなくては転落死してしまう。

 コニーアイランド・ビーチの波打ち際を一人歩いていた。どこへ行くあてもなくただ歩いていた。ビーチには道なんかない。冬のビーチには誰もおらず、あるのは幾つかの足跡そして海を眺めるカモメたちだけ。
 どれくらい歩いたんだろう?振り返ってみると遠くの方の足跡はもう水に洗われだしている。どうやら満ち潮らしい。僕の足跡は波に削られていく。潮が引き、そしてその砂浜が再び顔を出す時に足跡はない。僕が歩いた痕跡なんか何も残りはしない。そこにあるのは真新しい砂浜。
 道を作るために歩くのではなく、ただ前に進むためだけに歩く。それでいい。
 たとえ痕跡は残らなくとも、僕が歩いてきたということを消し去ることは出来ない。それでいい。
 僕が踏みしめた砂が世界のどこかにある。

 足元に寄せてきていた波の正体がわかった。覚醒という砂浜に寄せてくる睡眠という波。振り返って睡眠の波に消されていく足跡を目にした瞬間に目がさめてしまった。僕はベッドの中にいた。
 ニューヨーク近郊の海はあまり潮の香りがしない。海辺を歩いているときそれが夢か現実がわからなくなってしまうことがたまにある。
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by seikiny1 | 2006-03-05 05:52 | 日ごろのこと
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