ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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全身歯磨き粉
 襟首のところがなんだか痛がゆかった。そっと触ってみたら案の定ふきでものが出来ていた。二、三日前から顔を洗う時に首の後ろの方までその手をのばすことにしている。そういえば顔を洗う時に首まで洗うようになったのはここ数年のこと。ほかの人の事はいざ知らず、僕にとって「顔を洗う」という行為は「顔」を洗うことでつい最近まで首を洗うことは「顔を洗う」事ではなかった。

 顔を洗いながら「一体どこまでが顔なんだ?」そんなことを考えてしまう。
 手は首に伸び、うなじに伸び「一体どこまでが首なんだ?」ということになってしまう。そんなことを考えながら昨日は収拾がつかなくなってしまい、とうとう風呂に入ってしまった。
 髪はわかる。毛が生えているから。それでもここ数年日増しに顔が大きくなってきて、その分髪が薄くなってきたように思う。僕は体毛が薄いほうだからまだいいけれど、毛深い人なんかは大変だろう。もみ上げは頬やあごのひげとつながり、あごのひげは胸毛からヘソの毛、陰毛、お尻の毛、そして背中の毛へとつながりうなじへと帰ってくる。夏場には他人の襟足からのぞく背中の毛を見ながら「大変だなー」と他人事ながら同情してしまう。彼らは毎朝ひげを剃る時にカミソリを止めるラインで悩んだりしないのだろうか?

 風呂場ではいつもシャンプーをしたその手で、泡で顔まで洗う。そしてヒゲをそる。昔はそれで全身まで洗っていた。ついでに靴下なんかを洗う事だってあった。シャンプー一本ですべてがまかなえていたわけだ。おかげで三年ほど前に買ったシェービングクリームはまだ半分以上残っている。
 女性は大変だろう。頭用、顔用、首用、ボディー用、手用、かかとのかさつき用。様々な部位に分けて様々な物を何度にも分けて器用に使い分けていく。毎日悩んだり、その境界線を前後させて見たりしているのだろうか?いや、本当に女性として生きるのは大変なことだ、と頭が下がってしまう。
 これがスキンヘッドの人になるとどこまでが頭でどこまでが顔なのかまったくわからなくなってしまう。彼らはそれをどう使い分けているんだろう?

 生物学的にはたぶん根拠があるのだろうけれど、実際に生活をしていると顔も、首も足もどうだってよくなってくる。境界線の必要性をそれほど感じなくなってくる。それが自分の身体という意識だけでいい。とりあえず清潔にさえしていれば「、全身を歯磨き粉で洗ってもいいんじゃないか」とすら考えないでもない。まぁ、これは暴論かもしれないけれど、どうだっていいということ。顔と首の間にある(らしい)境界線というものはあとからひかれたもの。最初はきっと身体としての意識しかなかったことだろう。さて人間はいつから毎朝顔を洗うようになったのだろう?もちろん毎朝シャワーを浴びることは気持ちがいいけれど、水が貴重品で今ほど水道施設が完備していない頃はそうもいかない。なんで顔だったんだろう?首まで、胸元まで、上半身まで……。そんな時代があったのかもしれない。そして最終的に顔のところに線が引かれた。

 境界線(ボーダー)とは所詮そんなもの。誰かが意識した時に初めてそこに線のようなものが浮かび上がってくる。一生懸命首の周りを覗き込んでも、ナイアガラの滝に行ってみてもそこに線があるのを見たことがない。意識の上に描かれた線。その線を見る者と、見ない者がいてもなんの不思議もない。
 アメリカという国も数十州に分かれてはいるがどうやら線が描かれているらしい。国という線を越えたところでは絶えずドンパチを繰り返しているその国も、大きな線で囲まれた内にある、ある点線を超えてのドンパチには長いことお目にかからない。そこに線はあるけれど点線で、太い線の内側というだけでなかよくなっている。なんとかなかよくまとめていこうとしている。
 機械にしろ、本にしろたしかに小分けにしてしまえばわかりやすくまとまりやすい。だからそこに線があるのだろう。国だって、小分けにしてしまえば分けないよりは色々と小回りもききまとめやすいことだろう。家康さんは好きではないけれど徳川は三百年続いたと言われている。

 この地球という身体は顔と首の分かれ目があまりにもはっきりしているからいけないのだろうか?首や顔としてではなく、身体として見るわけには行かないのだろうか?そんなに美顔につとめていながらも、足が臭く、耳くそが詰まっていても平気なのだろうか?これが個人の身体だったら、ほとんどの人が足の指のまたの間までさぞやきれいに仕上げることだろう。
 いつだって顔と首がけんかをしている。どうやらそこに線があるらしい。
 たしかにチベットの文化とアメリカ、ホワイトハウスの一室を同じ土俵で語るということには無理があるかもしれない。それは歯磨き粉で髪の毛を洗うようなことかもしれないけれど、洗って洗えないこともない。とりあえず汚れは落ちるかもしれない。そうやりながら改良を重ね、五年後にはスーパーボール中継の間に全身歯磨き粉のCFが流れているかもしれない。もしかしたら実際に誰かがそれを今、この時にやっているかもしれない。
 小分けにする点線はやはりいつの時代にも必要だろう。しかし、その外にある線がどんどんと太くなっていくことが怖い。護るべき線が拒絶する線、そしてそのためには攻める線となっている。女の人の爪をきれいにする液で「キレイニナレ」と髪の毛のことも考えずに頭に降りかけているようなもんだ。それは爪にはよくても、髪の毛にはよくない。だからこそ全身歯磨き粉がいる。太い割りには、あるかないのかわからない境界線を消してしまうために。

ほとんどのものが個の集合体である以上そこに線が必要であることはわかる。口と肛門が一緒では困る。ただあまりにも境界線が多く、中には必要のないもの太すぎるものもある。そんなことが気になってしまっただけ。


 どう目を凝らしてみても、鏡の向こうに映った僕のあごの裏側のところに線を見つけることができない。どこからが首なんだ?顔を洗うよりシャワーの方がいい。
 実はもみ上げの処理にも困っている。
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by seikiny1 | 2006-02-21 08:55 | 思うこと
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