ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ツケ台帳(お金で買えないもの)
 最近眉を動かす訓練をしている。



 まだ陽の高い時間。薄暗いバーにはビールを飲む僕、そしてカウンターのずっと向こう側で眠たげな顔で新聞を読んでいるバーテンダーしかいなかった。音楽はない。

「ピカッ」という光が一瞬だけ大きくなり、そしてまた細くなり消えた。ほこりが舞う光の筋の向こう側から一人の男のシルエットが浮かび、そして薄暗さと同化した男はカウンターの前に立っていた。ゆっくりと立ち上がったバーテンダーはカウンターの向こう側にまわり込み、これまたゆっくりとした動作でなみなみとバーボンを注ぎ男の前に置く。そして再び新聞へと帰っていった。
「キュッ」と手首をかえし一息にバーボンをあおった男は五ドル紙幣をカウンターに残して再び埃っぽい光の中へと消えていった。ものの二分程度の出来事。その間、一言の会話もない。相変わらずバーの中は静かだった。男が帰った後も何もなかったかのように新聞を読み続けるバーテンダー。空のグラスそしてボンヤリと照らし出されたカウンターの上の五ドル紙幣だけが、そこに男がいたことを思い出させてくれる。
 まるで映画の一コマのようでもあった。もう二十年近く前になる。ジョージア州のとある田舎町で目にした光景。


「ガラガラッ」と引き戸を開けて男が入ってきた。カウンターの中にいるおばちゃんはテレビを見上げて先ほどから涙ぐんだまま。新たな客に顔を向けようとさえしない。不思議な空間に居合わせてしまった僕はさりげなくその二人を見ていた。おばちゃんがやっと向き直った時に少しだけ空気が動いた。男の眉が少しだけ動いたような気がした。それでも目のほうは相変わらず黙り続けている。目をおばちゃんのほうに移してみると眉がちょうどその動きを終えたような余韻を残している。しばらくすると男の前には底に小皿を敷かれたコップ酒、そして小鉢が出された。おばちゃんが焼き鳥をあぶりはじめる。
 初めて目撃した眉の会話。もう二十五年ほども前のこと。福岡県大牟田市にあった小便臭い路地を入ったところにあるカウンター五席ほどの飲み屋にて。まだ酒の飲み方を知らなかった僕。帰り道でゲロを吐いた。


 久しぶりにこんな光景に出会ったような気がする。そこには同じ匂いの空気が流れていた。もちろんそういった光景は日常のあちこちで起こっていて、ただ僕がそんな目を持っていなかっただけなのだろうけど。

 その日も僕はビールをぶら下げて近所のデリのレジの前に立っていた。いつもより少し早い時間のせいか前に二組の先客がいる。ちょっとだけ眠たげな顔をしたマリオの奥さんがカウンターの向こう側でレジを叩いている。その顔がちょっとだけ上がった。視線の先を追ってみると僕の左斜め後ろに立つ大柄な男が手に持つジュースを軽く動かす。その時、男の眉が動いた。転瞬、彼女も眉を動かすとキーを叩く手を止め、かたわらから帳面を取り出す。遠目にのぞきこんでみると、そこには小さな文字でびっしりと日付け、名前、金額が書き込まれていた。
「ツケ台帳だ!」
 二人の呼吸、古くなって角の取れてしまい反り上がった帳面がいとおしい。なんだか嬉しくすらなってしまった。「こんなところに生きていたか!」。久々に再会した友という感じだ。
 現金やクレジットカードではなく<ツケ>という個人間の信用の上に成り立つ決済法。こんなところでまだ生きていた。そこにあるのはクレジットヒストリーや年収ではなく個人が個人を信用すると言うカタチ。個人の目と目、眉と眉。言葉や文字そして情報ではなく<信じる>ということの上に立つ人間関係。人間と人間の原始的な関係。
<信じない>というところからまず物事がはじまることが一般的となってしまった昨今、砂漠でオアシスを見た気分になってしまった。男はそっとドアを出て行く。それが蜃気楼でなかった証拠は「パタンッ」という音とともに閉じられた帳面を。彼女は何事もなかったかのように計算に戻る。「パタンッ」という音だけが、そこに男がいたことを思い出させてくれる。
 ツケで買い、ツケで売る。そして決済日がやってくる。この環が綿々とつながっていく。そして人と人との信頼関係もつながっていく。中には壊れてしまう環もあることだろう。それでもそこに大多数の信頼関係はまだあり、信じたいという気持ちは残る。そしてそれは膨らんでいく。
 今の時代、ほんとうに「金で買えないものはない」のかもしれない。それでも金で売りたくないもの、金ごときで置き換えることの出来ないものはたくさんある。
 決して裕福と呼ぶことの出来ない暮らしをしているであろう人々がいる。しかし、そんな中には(そんな中だからこそ)僕達が忘れかけつつあるものがあり、それを取り巻く人々がいる。スーパーマーケットのレジでクレジットカードを使用する人がいて、その一方にはボデガのツケ台帳がある。人情という言葉を思い出してしまった。


 少し前のニューヨーク市長の言葉。大略は、
「なぜだろう?貧しい人はスーパーマーケットではなくボデガで買物をする人が多いようだ。ボデガには健康を指向した食品がスーパーマーケットほどは揃っておらず、その結果として貧しい人々の方に肥満など市民の健康上よろこばしくない問題が格段に多く見られるようだ。……………。ボデガにノーファット、ダイエットなどの食品を置くことを義務付けそれを<監視>していこうと思う」
 こういった感じの着想の元判断を下し、そして実行していく彼。義務で監視ときてしまった。
 僕達にとって健康はとても大切で考えていかなければならない問題ではある。しかし、それと同等に大切なものだってある。忘れてはならないものだってある。そういうものに限って数字やデータでとらえることが出来ない。
「お金で買えないものはなく」ても「数字でカウントできないこと」はある。いや、そちらが大部分なのかもしれない。うまみ度、好感度なんか僕は信じない。




◇◇◇◇◇◇◇
*ボデガ
 主にヒスパニックの人々で経営されている食料品店・雑貨店。家族経営がほとんどで店舗の規模は小さいがその品揃えは「かゆいところに手が届く」。バナナからバケツまでそろう。日本のコンビニとはまったく違い、僕はそこに文化を感じてしまう。子供が五セント玉を握り締めアメを買いに来たり、他では買えないボールペンや鉛筆のばら売りがあったり、夏の頃になるとなぜか入り口あたりにいい年をしたオッちゃん達が(いつも同じ顔ぶれで)ビール片手にたむろしていたりする。品物によってはスーパーで買うよりも安い物もあり、その仕入れルートが不思議でもある。人々の暮らしに密着している店、ボデガ。
 そこは単に品物を売るだけの場所ではない。

 不動産の高騰やヤッピー層の進出で近年その姿は少なくなるばかり。「あー、世界遺産に指定してくれないかな」、と思う今日この頃。ボデガには間違いなく文化がある。
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by seikiny1 | 2006-02-18 08:34 | 日ごろのこと
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