ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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トーキーの時代
 胴回りや、腿周りの数字は少し変わったけれど、高校卒業時から身長、体重といった数字にほとんど変化がない。

 旧い映画を少しだけ観た。白黒の無声映画。一昔前には「トーキー」と呼ばれていたもの。本などでしか知ることの出来ないトーキーの時代。当時、映画館のスクリーンの片隅には弁士という人が立ち声色を使ったり、解説を加えていたらしい。今考えてみれば、作り手の意思と全く違ったものをそこで創り出すことも出来た。たしか数十年前にウッディー・アレンが映画でそれをやっていたように思う。
 もちろん2006年、部屋の中で寝転んで見上げるモニターの横に弁士はいない。時折、画面の下に入る字幕。近頃の映画に比べてみると、セリフは短く少ない。この字幕にしても後年になってから加えられたものだろう。しかしそれだけで十分。出演者の表情や演技でセリフの少なさはカバーされている。笑いあり、涙あり。たとえ言葉というものがなくても、世界中の人が共有できるものがそこにはあった。
「実演ではないフィルムの上でどれだけのことを伝えることが出来るか?」
 そんなことが当時の映画俳優に求められた大きな資質だったのだろう。

 さて、パントマイムとトーキー。その歴史はどちらが古いのだろう?
 トーキーというものから生まれた芸術がパントマイムなのか?
 それとも声なき声を伝えることばとしてパントマイムという手法が生まれたのか?
 ちょっと前にヨーロッパの人形劇の歴史について読んだことがある。その中に「国家や政府を風刺する(生身の人間の声ではなく人形というものの声として間接的に)社会的な側面と共に発展し親しまれてきた……」、ということが書いてあった。パントマイムにもそんな面があるのかもしれない。言葉を削り詰めた演技としての側面。耳に聞こえない言葉が。

 作家の今東光さんが対談の中で瀬戸内寂聴さんについて語っていた記事を思い出す。
「あの人の文章というのは本の何倍もあるんだよ。それを『もうできない』というところまで削りに削って残ったものがあの人の本」。そんなことを言っていた。
 削ぎ落とす。それは必要でないもの、時として必要であるものにさえナタをふるいその軸だけを残すという方法。
 ぱっと見に容姿や体重が似通っていてもただやせているのと、削ぎ落とされて残ったものでは違ってくる。中身の粘度に天と地ほどの差がある。
 ただ小さければ、軽ければいいというものでもない。無言の中に込められたメッセージは心の奥深いところに「ズシン」と響く。
 その身体が演技であれ、音であれ、武道であれ、書道であれ……。その空白の部分は埋められている以上に重い。そしてそれは決して重苦しくはなく、爽やかですらあることが多い。
<間(ま)>というものの重み。

 精神的にも肉体的にも身軽が身上であり、「太りたくない」と言っている自分がいる。しかし、ただやせているだけではなく削ぎ落とした結果としての小さな自分がそこに残ることにあこがれる。いつかはそうなりたい、とも思う。そのためにはもっともっと食べなけらばいけない。とにかくなんでも食べて見なければいけない。ただ、軸を太くしてそぎ落とすために食べるのではなく、それを単なる結果とするためにはいつも十分に運動もしていなくちゃいけない。いやいや、そもそもそういうことを考えるだけでもう不純だ。結果を計算して動くことは身上ではないし、まず僕にとっては不可能に近いこと。さて、どうしよう?

 昔はバカの大食いでどれだけ食べても太ることはなかった。今は、だいぶ食も細くなって太らない。
 太れないけど太ってみたい。いや、それはできない。
 結局自分の食べ方で食べ身についていったものが自分にとっては本物なんだろう。飽食の時代。

 世界中で巨体がバタバタと倒れている。自分の足で立つことのできなくなってしまった巨体たち。その巨体をそぎ落とすことができればまた素晴らしいものとして再生してくるように思うのだけれど。
 身体だけではなく全てをダイエット。今がその過程であることを願いたい。
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by seikiny1 | 2006-02-03 09:40 | 思うこと
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