ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ザ・デストロイヤー
(すいません。今回は女性にとっては一部不愉快を感じられるかもしれない箇所があることをお断りしておきます)

 Untouchable
 世の中にはやっていいこと、そしていけないことがある。
 絶対に手をつけるべきではないこと。それは日本でのエロの解禁。
 日本のエロ本やアダルトビデオ。その局部描写の規制は絶対に解いてはならない。
<限られたスペースで想像力を最大限に引き出す>、これは日本人にとって送り手にとっても、受け手にとってもとても大切なことだから。「日本人の本質はここにあり」と言うことも出来る。そこに何があるかわかっている。そこを超えれば何かがある。それはわかっている。そんな表面上のルールだけで均衡がとれている社会。それは知的ゲームにも似ている。エロに限らず、そんな関係から生まれたものは数限りなくある。実際にはundergroundものなども流通しているけれど、映像でも実生活でもでも「だめよ」という越えられない線があるからこそ成り立っている部分がある。
 僕が中学生の頃はまだ墨塗りだった。それがボカシになり、そしてモザイク処理に。誰もがそこに何があるのかは知っている。個人差こそあれだいたいの見当はつく。それでも見せない。見たいけど、見たくもない。そんな不思議な感覚が好きだ。そこにある不思議なエネルギーが好きだ。

 そんなモザイク処理の影響で生まれたのか、最近ではちょっと気になることがある。「できるならこちらの方は墨塗りに戻して欲しい」と思う時もある。
 遠い昔(今でもある一部の環境下にある人にとっては)検閲という制度があった。表現が法律によって規制されていた時代。その時代に検閲に引っかかったもの(又は印刷所にその活字がなかったもの)に関しては○×などの伏せ字が用いられた。専門用語では〓(ゲタ)と呼ぶらしい。今、本を開いてみても伏せ字にぶつかることはほとんどない。数十年前に比べてみればまさに天国のような時代。もちろん誰もが視聴することができる放送という媒体ではいまだに規制はあるけれど、それに関してはうなずける。ただ、文字と言う世界ではつい最近まで伏せ字をそれほど多く見かけることはなかった。自由と言うのは素晴らしい。そう思っていたし、今でもそれは変わらない。
 僕自身は古いものが好きである反面、人にも増して新し物好きな面がある。そんな僕も100%自分の事情でインターネットの波には完全に乗り遅れた。これについてはもう取り返すことは出来ないだろう。
 四年ほど前に初めてそれに触れた時に気づいたことが伏せ字だった。それを見る頻度は日を追って多くなっていく。今では友人や同僚間で交わすメールの中にすらそれを見つけることができる。今回のこの伏せ字の始まりは多分インターネット上の掲示板あたりからなんだろう。特定の個人・団体・商品名などをズバリと指すそれらの言葉に過敏な管理者が警告を与えたり、削除したり。その結果として書き込む方も自衛手段として ー便利な言葉を使えば、自主規制としてー 伏せ字を使う。時と共に、それが閲覧されるたびにそれが一般化していったのだろう。今では何も考えることなく「特定の名前を出す時は伏せ字を使う」という頭の中の回路が動き出すのかもしれない。多くの人にとって悪意はないと思う。現状を表わせばあちらでも、こちらでも伏せ字が花盛り。
 その使い方も、字が伏せてあるだけで誰にでもそれが何であるかわかる。それはまるで地上波で放映された映画の最後の部分で流される早送りされるために読むことのできないクレジットのようでもあり、サングラスをかけたアントニオ猪木が《闘魂》と書かれたタオルを首に巻き銀行強盗をやり終えてドアのところで「ダーッ!」と叫んでいるようでもある。お決まりの伏せ字ではあるけれど、誰もがそれが何であるかはわかっている。
 見なきゃいいのについつい見てしまう。こんなところもエロと似ているのかもしれない。その伏せ字が使われた文章が悪口などの悪意を含んだものであればあるほど、その伏せ字がギトギトとしていて耐えられなくなってしまうことがある。<朝○新聞>と書かれるより<朝日新聞>とかかれる方がまだ読んでいてすっきりくる。○に込められた思いはとても深く大きい。たったの一字を伏せることでその裏にあるものがとても大きな意思を持って語りかけてくる。
 これが新しい日本の文化なのだろうか?

 HN(ハンドルネーム)を使うことで多くの人達が虚実交えながらも言いたいことを言うことが出来る時代になった。HNなしでは言えない事、聞けない事がたくさんありそれが今の社会に果たしている役割はとてつもなく大きい。また送り手は自分の言いたいことを言うことが出来ることの快感を味わっていることだろし、ストレスをも発散しているのかもしれない。それも社会にとってはわるいことじゃあない。中には自分が正義の味方にでもなったかのような錯覚を持っている人も多いことだろう。ただ、問題は匿名とレフリーに見えない凶器(伏せ字)と悪意が重なった時。そしてそれを真実・正義と受け止める人もいるということ。それは悪役の覆面レスラーが禁じ手(反則技)を連発するのにも似ている。試合を終えて覆面を脱いだ彼は意外と紳士であったりもするからまた厄介だ。覆面をしているからこそ出来る悪役、反則技。それを自分自身で楽しむ人もいるだろうが、やはりむなしく悲しい。かつて<白覆面の悪魔>と呼ばれたザ・デストロイヤーはその後覆面をつけたままいい人になった。マンガのタイガーマスクの最終回には子供ながらも泣いてしまった。覆面自体はそう悪いことでもない。
 プロレスは高校の頃から見なくなったけれど、最近たまに目にする格闘技のニュースの中ではあまり覆面をかぶった人を見かけない。悪役は悪役として素顔で勝負する時代になってしまったのだろう。しかし時代はプロレスのはるか後ろを歩いている。この社会では覆面レスラーが百花繚乱。

 ねずみ小僧次郎吉のような覆面に変わっていくことを願うばかり。
 
 情報社会といわれる現代。僕達は昭和40年代のプロレス中継を見ているだけなのかもしれない。

 そういえばあの頃ミル・マスカラスという善玉覆面レスラーもいた。
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by seikiny1 | 2006-01-11 16:20 | 日本
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