もう一年以上前の記憶になる。
一ヶ月あまりの日本での滞在中、右翼活動をする人達の街宣カーを一台も見かけなかった。
日本は静かだった。
スピーカー。
正確にはラウドスピーカーという機械。今では使われることもほとんどなくなってしまったけれど、拡声器という日本語もある。英語も日本語も字面から想像するに、元々は喋り手の声を大きく広げるために(遠くまで、多くの人に伝えることのできるように)開発されたものなのだろう。その誕生の頃、それは聞く方ではなく伝える方が主導権を握っていた道具であったはずだ。スピーカーが<聞くため、聴くため>といった性格を持ち始めるのは、やはりラジオ放送の開始、レコード盤などのソフトウェアが充実してきてからのことだと思う。それでもまだまだ伝え手としての性格は強かった。
ウォークマンの誕生は僕が高校生の頃だったと思う。それが音の個人的所有の始まりだったわけではなく、それ以前にもポータブル・レコードプレイヤー、トランジスタラジオはあった。もちろん僕も授業中に学生服の袖から出したモノラルのイヤフォンを耳に突っ込んでいた口。それでも多くの人にとってそれらは依然としてスピーカーを通して聞くものだったように記憶している。友達が集まればラジオやレコードから録音して作ったテープを聴いて、聴かせていた。できるだけデカイ音で。それはそういった機械のとても大事な要素でもあった。音は自分で楽しむだけではなく、人にも聞かせたい。多くの人にとって自己主張の方法の一つだった。
ニューヨークに来たばかりの頃。まだまだ大きなステレオラジカセを肩に担いで歩く人たちを見かけることができた。次第にその数は減り、それとは逆にヘッドフォンを耳につける人が増えてきた。それでもなぜか彼らはカセットやCDウォークマンを手に持つ人が多く、日本のようにポケットやかばんの中に入れている人の割合は極端に低い。あれも自己主張の一つだったのだろうか?
彼らの手からカセットやCDウォークマンが消えた頃ヘッドフォンは消えはじめ、かわりに携帯電話をかばんやポケットから取り出す人が増えた(ちなみにアメリカでMDを持つ人はほとんどいない)。聞くことと喋ることといった機械の性格の違いもあるだろうけれど、あのサイズというのが手にしっくりとこないのかも知れない。手のひらで握れてしまえるサイズ。
これはあくまでも僕の勘なのだけれどスピーカーの生産量は落ちていると思う。反面ヘッドフォンの方は右肩上がり、少なくとも横ばいだろう。この時代の流れで音というものの性質、使い方、受け止め方は確実に変わってきている。
携帯電話より小さいipod。それを手に持って歩く人をあまり見かけない。携帯電話の出現でアメリカ人はあのサイズの機械をポケットに入れることをおぼえたのだろうか?機械は見えなくなってしまったけれど、あの白いイヤフォンでも自己主張はできる。
たぶん日本に暮らす人にとってはあまりピンと来る話ではないかもしれない。ipodの出現で大きく変わったことのひとつにそのヘッドフォンの形状の変化がある。ごく最近までのその主流は耳からかぶせるタイプ。すなわち耳を覆っている。それが今では耳の穴に突っ込むタイプ。耳の穴をふさいでいる。
何かを伝えるために開発されたスピーカーは今では何か一つの音を耳に送り込む道具、または外界から耳をふさぐ道具、すなわち何かを伝えられないようにするための道具とその性格を変えていってしまっている。普段音楽を聴きながら街歩きをしている人達がいる。そのヘッドフォンを取って歩いてみた時に何を感じるのだろうか?それはいつもとは全く違った体験なのかもしれない。数十年前に始めてヘッドフォンをつけて歩いた時のように。
これまでほとんど耳の穴をふさいで街を歩くことのなかったアメリカ人。ipodの普及で彼らはどう変わっていくのだろうか?
さてスピーカーの正業の方はどこへ行ってしまったのだろう?
自己主張をする道具としてのスピーカー。時と共に自己主張のやり方も変わっていく。それでも人には大きな音、叫びを欲する衝動がある。それでも耳をふさがれてしまったらその音が届くことはない。
僕の記憶が正しければ、ウォークマンの普及とカラオケのそれはほぼ時を同じくしていたはずだ。今ではKARAOKEもSUSHIやSAKEと並ぶ立派な英単語になっている。もう音という道具での自己主張は音楽活動やそういった場所でしかできなくなってしまったのだろうか。
街宣カーを降りた右翼の活動家はどうしているのだろう?
特攻服を着たイカツイ男がコンピューターのモニターの前で背中を丸めている姿を想像したくはない。
音というものがあまりにも身近なものになりすぎてしまったのだろうか?
自己主張。それにはそれぞれ適した姿があるはずだ。