ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ジュースはみかんからできている
 まずフタをはがす。「あける」と言うよりも「はがす」と言った方がしっくりくる。紙袋を破って取り出した木製のスプーンでフタの裏側をこそぐ。それでもとりきれないものを伸ばした舌を器用に使いながらなめきる。
 さぁ、食べよう。カップの中には二色の半月が仲良く並んでいる。どっちから食べるか?いつも一口目はバニラだったように思う。
 今でもあるのだろうか?子供の頃ロッテが出していたイタリアーノというシリーズの二色アイスクリームが大好きだった。厳密に言えばそれはアイスクリームではなくてラクトアイス。
 少し大きくなって知ったことはラクトアイスはアイスクリームではなく、準チョコはチョコレートではないということ。それでも僕の頭の中ではそれはアイスクリームであり、チョコレートだった。そんな本物モドキの味が今でも好きだ。同じ理由で、たとえ法律上認められていなくても、「含まれている成分を知らせる・知る」義務・権利があろうともみかんの味のする飲み物はすべてがジュース。果汁百パーセントという数字にはそれほどこだわらない。
 あと少し年を取るとその分醒めた目でジュースを見るようになっていた。
「ウン、うまいこと考えるな」
 オレンジやトマトが大豊作であっても、商品として出荷することのできない状態のものでもジュースにしてしまえば誰もが「ゴクゴク、ウマイウマイ」と言って飲んでくれる。ジュースという言葉を少しだけ見直した。

 新鮮である、ということは重要だけれども最近ではそのあとの方がもっと気になる。
「まさか捨てないだろう」
 日本料理店のその日のおすすめメニューの中に<マグロのたたき>の文字を見て「フムフム」とうなずく。次の日に行くとそれは<マグロのステーキ>に変わっていたりする。その翌日に行ってビールを頼めば小鉢に入った<マグロの煮物>がグラスの横に置かれることもある。飲みすぎたビールのおかげでトイレへ。帰りにお店の片隅で賄いを食べている従業員とほほえみあう。おかずの皿にはマグロの竜田揚げがのっていたりする。ここまでくると、一応寿司屋の看板を出しているそのお店が気の毒にさえ思えてくるから不思議だ。旬の時を過ぎてしまうと、キロ単価も同時に急降下を始める。
 旬。それは大切ではあるけれども、数ある切り口のひとつに過ぎない。物語に起承転結があるように、すべての物事にも起点、経過点、そして結果がある。もしくはあるように見える。毎日たんたんと走っているだけのように見える電車にすら始発駅、終着駅だけではなく停車駅、通過駅というものがある。毎日同じ路線を走っていてもその駅から見える風景はたったの一度すら同じであることはない。それなのに僕らの目に、耳に入るもののほとんどは始発駅、そしてたまに終着駅ばかり。通過駅は見向きもされず、停車駅でキョロキョロすることも少ない。

 よほど大きなニュースでもない限り「こんなことがあったよ」、あるいは「こんなことがあるよ」の報告や告知で終わってしまう。実際には始まったばかりであるにもかかわらず。
 この小さなニューヨークというコミュニティーの、その中のごく小さな一部分でしかない日系誌にさえ通り一遍等のことしか書かれていない。
「どうなったんだ?」
「それでどうした?」
 そんなところに手が回らない。いや手を回さない。
 ニューヨークのクラヴでデビューしたミュージシャンがいることをある程度の人は知っている。それでもその人が今どうしているかを知る人は少ない。「知りたい」と思う人がいるにもかかわらずそういった追跡情報はNEWでないからなのか、NEWSになる事はない。たった一誌でもいい、どんな内容でもいい。「その後」を報じるものがあってもいいと思うのだけれど。それは賞賛でもいいし、批判でもいい。とにかくそういう姿勢を見せて欲しい。そんな小さな記事だけでもその媒体の真摯さは伝わってくるはずだ。NEWSはどの瞬間をきりとってもNEWなのだから。
「その後」に興味があるのは僕だけではないはずだ。刺身用のマグロが捨てられてしまうことのないように、すべての物事には途中、そしていつの日か来るであろう終わりというものがある。そんなものの一部でも知る権利があるし、知らせる義務もあると思う。<起>があることを知った以上は、知らせた以上は。
 これだけインターネットが普及した現在。興味があり「知ろう」という気持ちさえあれば、様々な情報をある程度まで深追いすることはできる。それでもそれを<追う>という姿勢のあるメディアの存在を目にすることはやはり心強い。軸というものを持って欲しい。

 ここ数年古い友達と少しずつ連絡が取れはじめている。中には幼稚園の頃から知っているやつもいる。そんな友達の<途中>をたまに聞くことは嬉しくもあり、頼もしくもある。そしてたまに寂しさを感じることもある。それでも何も知らないよりは生きている手ごたえがある。何も知らずにただその終結のみを知りたくはない
 先日もらった年賀状のメール。僕、という共通項を除けばなんの関連性もない二人の友達が同じことを言う。
「お互いもうそんなに若くはないのだから身体には気をつけていこうな……」

 みんなにいつの日か結果はやってくる。結果はどうあれ途中をもっともっと大事にしていきたい。
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by seikiny1 | 2006-01-08 13:03 | 思うこと
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