「最後に使ったのはいつだっけ?」
たしかそれはまだ春先のことだったと思う。しかし、それを何に使ったかさえも思い出すことができない。「年に数回しか使うことのないものがどれだけあるんだろう?」そんなことを考えながら探し続ける。
「スリムになりたい、ならなければいけない……」、そんな思いとは裏腹にひとつ、またひとつと物が増えていく。たしかにそれらを買う時には変な満足感に似たようなものがともなう。もちろん、いつも(金銭的な)喪失感はあるのだけれども。
やっと見つけた巻尺を使い、部屋にある窓枠の大きさを測る。取り替えの時期はとうに過ぎていたけれど、古い物に愛着もありなかなか腰が上がらなかった。どうしても先延ばしにしてしまう性格というのは直らないようだ。
見違えるほど部屋が広く(奥行きが伸びたように)感じる。これまでのものは窓枠ギリギリの大きさで、カーテンの四辺から窓枠がそれとなくその存在を主張していた。カーテンそのものも少しすすけていたのかもしれない。新しいものは窓枠より二まわりほど大きめのやはり白色。
新しいものは信じられないほどに部屋を広く見せてくれた。壁をぶち抜いたわけではないので、あたりまえの話だが部屋の床面積は変わらない。逆に窓枠から少しだけせり出したカーテンでほんの少しだけ狭くなってしまっているはず。それでも部屋は広く感じられ解放感がある。
錯覚。
ほんとにうれしい錯覚だ。
周りにどれだけの錯覚があるのかを考えてみる。暮らしていく上でほとんどの場合それは人の心を豊かにする。時として自分から「錯覚しよう」という力が働くことすらある。
クリスマス・プレゼントの包装紙が茶色に変色してしまった古新聞では、たとえ「君の、そのハートがうれしいんだ」と思い、口にしていても少なくとも一瞬は「!」と思ってしまうことだろう。ある年齢に達したら女性は化粧をしている方がいいし、それなりの格好をして初めてのデートの待ち合わせ場所に向かう時、自分が別人であるかのような感覚にとらわれてしまうこともある。
そこに錯覚があるからこそ、あちこちの角が取れて心の中に広がりが出てくる。
もちろん様々な技術・技巧・職業そして物そのものの中には「錯覚させる」ために存在しているものもある。それだけ錯覚は人々に必要とされ、そして何よりも心をいやしてくれることの裏返しだろう。確信犯的な錯覚の作り手というのも昔からいる。それをなりわいとする人、個人的に駆使する人、そのほとんどは他愛のないものでこちらとしても笑いながら付き合うことができる。それでも詐欺まがいのものもある。それはもはや錯覚と言うことはできないのだけれど。
人の心の中にある「信じる」というパートがあるからこそ錯覚が起こるのだろう。何かを信じることができることは幸せなこと。それは豊かな心の現われかもしれない。こういったことを考えると錯覚のない世の中は空恐ろしい。
しかし、たまには醒めた目で見まわしてみることもまた必要ではある。自分の周りになんと錯覚の多いことか。それは気持ちのいい錯覚ばかりであるとは限らない。まやかしや、ごまかしだってある。それは錯覚のようではあるけれどそうではない。
僕の中にある錯覚の要素、それは「人を豊かな気持ちにさせてくれること」。それは言語学や心理学の解釈とは違うかもしれないけれどこれは譲れない。そもそも「『__学』などという学問はクソクラエ」という立場に僕はほとんどの場合いるのだから。
「なにかの利得を得るために人々を欺くこと」これは僕の中では「まやかし」という項に分類される。
顔の見えない人が多い。「幸せになった?」ような気分にしてくれる人や物事も多い。それが錯覚であるか、それともまやかしであるのか?たまには目を凝らし、耳を澄ましてみよう。その幻が何の上に立っているのかが見えてくるから。
自分で錯覚してしまいたい時だってある。それはそれでいいとも思う。ただそれが錯覚であることを<最終的には>忘れないで欲しい。それはあくまで自分が求めた結果としての錯覚なのだから。現実とは少し違う。時として周りが「目をさませ!」と叫ぶ。
様々な形をした、とてもはかることの出来ない情報に囲まれている。そのひとつひとつを手にとって眺めてみることはとてもできないけれど、なにか一つのまやかしをひっくり返して見た時、まるで複雑に絡まっていた糸がほどけるように一瞬にして視野の開けることがある。一見なんの関連性のないものまでがきれいに見えてくる。
錯覚の中で生きることは決して悪いことではない。錯覚は楽しい部屋。まやかしは逃げ場のない小屋。
自分の撮影されたものを見ていた。
「これは錯覚か?まやかしか?それともリアルか?」
しかし錯覚は楽しい。
【錯覚】1 (心理)外界の事物を、その客観的性質に相応しない形で知覚すること。その知覚。主に視覚、聴覚について言う。→幻覚。
2 俗に思い違い。勘違い。
【まやかし】人目をごまかそうと、見かけを似せて作り構えること。その、にせもの。
-岩波国語辞典 第5版-
あーやっぱり心理学が出てきた。
久しぶりに三省堂の『新明解国語辞典』の少しだけ古い版が読みたくなってきた。この本は結構独自の語釈があったりしておもしろい。錯覚を呼び覚まし、時としてまやかしを晴らしてくれたりもする。
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『ボヤキTV』というのができました。
ニューヨークの日系誌に三年ほど連載している僕のコラム『犬のボヤキ』とこのブログをあわせたようなコンセプトで作っていただいています。ニューヨークの街角でブツブツと言っている動く僕を見ることができます。
正直言って「観て欲しい」と「観ない方がいいんじゃない」という気持ちが半々です。
まぁ、これからもボヤいていきます。直らないでしょう。
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