ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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いれもの<2>
 一枚目はCAROL。
 二枚目はE.C.(エリック・クラプトン)だった。それ以降はおぼえていない。
 その時代に思春期を過ごした人のご多分にもれず、僕の部屋という<いれもの>の壁も何枚ものポスターの後ろに埋もれていた。LPレコードの時代。
 LPレコードの中には大きなポスターが折り込まれているものもたくさんあった。もちろんライナーノートはどれにも入ってくる。レコードに針を下ろし、ジャケットから引っ張り出したライナーノートの小さな文字を追う。これは今も昔も、日本の音楽ファンが新譜を手にする大きな楽しみの一つと言って間違いないだろう。
 輸入盤を買ったことのある人なら知っているだろうけれど、アメリカのLPやCDのほとんどにはライナーノートはおろか歌詞カードすらない(なかった)。最近でこそ見かけるようになったけれど、まだまだ少ない。
 こんなところにも、日本とアメリカ(他の国の事は知らない)の気質の差があらわれているのかもしれない。
 作品の背景、ミュージシャンの歴史、横顔、そして歌詞。僕達の姿勢は音楽だけではなく、それを包み込むすべてを楽しむ。
 プレイヤーの前でセロファンを破るのすらもどかしそうにPLAYのボタンを押す。瞬時に音楽の中に入り込みその中身を感じる。
 もちろんそこには言葉の壁もあれば、流れる情報量も違いもあるだろう。それでも、<いれもの>をもふくめて向かい合うのと、中身と直接対決するのでは感じ方もまた違ってくる。どちらが勝っているとも、劣っているともいえないけれど。
 そんな違いの中でもひとつだけ共通してい「た」のは、ジャケットという存在。それがCDの時代になりいくら小さくなったとはいえ、少なくとも創り手は目からも訴えることができた。そしてCDでなくては不可能なやり方だってあった。
 LPレコードのジャケットは芸術と言える。それは間違いなく作品の一部であり、顔でもあった。しかしLPからCDへの移り変わりで、それより大きなものを失くしてしまった。
<曲順>というものが有名無実となってしまった。
 どんなに創り手がアルバムという<作品>全体に流れるものにメッセージを込めても、時にそれはRandam、RR、REWといったはさみでズタズタに切り刻まれてしまうことが多くなった。それは長編小説をてんでバラバラの順番で読むのにも似ている。<曲順>は大切な作品の要素であったのに。そして、それにこだわるミュージシャンも少なくなってしまったことだろう。この三つのボタンでCDという皿は、なんの表情もない単なる音楽の<いれもの>になってしまった。
  そしてこれはミュージシャンにとって、音楽という言葉を持つ者にとっていい面があったのだろうか?
 CDという時代。アルバムそのものの作品価値がかなり落ちてしまったように思う。
 しいていい点を探すとすれば、一曲、一曲と容易に、そしてその曲の持つ素顔と向かい合う事が出来るようになったことくらいだろう。CDアルバムはLPというよりもEPレコードの発展形に近いような気がする。

 そして今。
 文字通り曲そのものと向き合うだけになる時代が来ようとしている。日本でのCDのミリオンセラーは一年に数枚しか出ないと言う。新譜の主流は、大きな流れをもってインターネットからのダウンロードへと移っていっている。
 ポスターが消え、ライナーノートが消え、曲順が消え、そして今、ジャケットまでもが消えようとしている。音楽はそれ以外の言葉をしゃべる事を許されず、人の前に裸体をさらさなければいけなくなってしまった。ここまでくるとアルバムの作品としての意義もほとんどなくなってくるだろう。それは一把八十円のほうれん草が三把だと二百円で売られているのとも似ている。そして冷蔵庫の奥のほうに忘れられてしまったほうれん草は、ある日「ポイ」と容易に捨てられてしまう。
 寂しいけれど街から新譜を売るCD屋がなくなってしまうのも時間の問題だろう。
 アルバムという<いれもの>をなくしてしまったミュージシャン達はどこへ行くのだろう?
 どうやってその道を歩いていくのだろう?

 やっと日本でもスーパーなどで使うレジ袋が有料化される動きになってきたと聞く。それは地球という<いれもの>を考えたら当然の動き。この<いれもの>葉あちこちに穴があいてしまい、そこのほうから大根のシッポがのぞいている。
 反面この<いれもの>の事をまったく考えていない国もある。そこにすむ人ではない。
<いれもの>があっての僕達なのに。
<いれもの>はなければ味噌汁も、コーヒーも持ちあることは出来ない。

 もちろん不要な<いれもの>だってこの世界にはいっぱいある。シンプルであるが故の利点だってある。それでも削ることの、失くすことの出来ない<いれもの>だってまだまだある。
 必要な<いれもの>を捨てないで。いったん失ったものは、後戻りをしたとしても二度と同じものを手に入れることは出来ない。そこにある<いれもの>から目をそらさないで。
 社会が、会社が、学校が、組織が、家庭が、個人が、感情が……。
 色々な<いれもの>がある。あるものはなくなり、またあるものは変質していく。戸棚の中に必要最低限の<いれもの>を持つためにはなにをしなければならないのだろう?


 今年も12月8日がやってこようとしている。
 ジョン・レノンが亡くなった日。
 彼のことを、彼の声を、彼の詩を思い出している。頭の中には何枚ものレコードジャケットが浮かんで、そして消えていく。
 こういった感覚を数十年後の人は味わうことができなくなってしまうのかもしれない。
 たくさんの、そえぞれのジョン・レノンが消えないように<いれもの>というものを否定するだけではなく、その存在から目をそらさずに生きていきたい。
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by seikiny1 | 2005-12-05 11:08 | 思うこと
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