ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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七面鳥はいつも七面鳥
 「セイキッちゃん」、「セイキ」、「セイキさん」「境さん」、「境」、「境君」、「seiki」……。
 アメリカに来てからは発音しにくい事もあって実に様々な(中には想像すら出来ない呼称もあった)名前で呼ばれてきた。
 下の名前で呼ばれることが圧倒的に多いが、それにしても色々な呼び名があるものだと思う。僕はたった一人なのに。それでも呼び名の数だけ、いやそれ以上に僕に対するイメージが存在しているのだろう。人間だから色々な面はたしかに持っていると思う。それでも僕という人間は世界にたった一人しかいない。同じ名前の人は何人かはいるのだけれど。


 英語ではcow、ox、bullとbeef。日本語では牛と牛肉。
 英語ではhen、cock、roosterとchicken。日本語では鶏と鶏肉。
 英語ではpig、hogとpork。日本語では豚と豚肉。
 英語ではturkeyとturkey。日本語では七面鳥と七面鳥。

 Tommy McGuireという人がいたとする。
 英語ではいやなやつでもTommy McGuire。
 英語では友達でもTommy McGuire。
 犯罪者となってもTommy McGuire。
 故人となってもTommy McGuire。
 どんな新聞記事でも英語ではTommy McGuire。
 日本語ではいやなやつだとトミー・マクガイアー。
 日本語では友達だとトミー・マクガイアー君(ちゃん、さん)
 日本語では犯罪者になってしまうとトミー・マクガイアー。
 故人になってしなったら故トミー・マクガイアーさん(氏)
 新聞記事の内容次第でトミー・マクガイアーの呼び方が変わってくる。

 ほかの国のことはわからない。アメリカでは肉を食べる時に生き物そのものを見ていないのではないだろうか?意識的に目をそらそうとしているのではないだろうか?動物としての牛ではなく食物としての牛肉を頭の中に描くようにしているのではないだろうか?もしかしたらその奥には宗教的なものがあるのかもしれない。それでも、牛肉の後ろに牛の姿を重ね合わせてみる事は少ないような気がする。牧場で遊ぶ牛。スーパーのパックに入っている牛。同じ牛。
 それでも七面鳥には真っ向から向き合う。感謝祭で食べるまるごとのturkey。肉売り場の冷蔵庫に行儀よく並ぶパックに詰められたturkey。サンドウイッチの材料として人気のturkey。そのどれもがturkeyと呼ばれる。なんでなんだろう?それは年に一度多くの感謝の意を込めるturkeyとしての存在があるから食肉としての名前は生まれなかったのだろうか?
 salmonはsalmonであり、tunaはtuna。牛、鶏、豚は彼らにとっは特別なものであるのかもしれない。
 犯罪者も、故人も、親友も、家族も誰をも一個の人間として認め、尊重する。それはごく事務的で表面的なこともあるかもしれないけれど、やはり僕にはとても西欧的な公平さとドライさが感じられる。それなのになぜ牛、鶏、豚から目をそらそうとするのだろう?やはりどこかに罪の意識のようなものがあるからなのだろうか?たとえものは同じでも、それに対する姿勢がそれによって変わってくるのかもしれない。目をそらすことによって感謝をしているのかもしれない。そしてその罪の意識を持て余す者がベジタリアンになったのだろうか?

 日本では、(多分)東洋では、牛、鶏、豚と向き合い、目をそらすことなく食べることに対して感謝の意を西欧よりは日常レベルでまだ高く保ち続けているように思う。その一方で犯罪者は呼び捨てになり、亡くなってしまった人の頭には<故>が冠される。罪人に敬称はいつから与えられなくなってしまったんだろう?たしかに敬うに足らないのかもしれないが、そこにはまだ人間としての尊厳が存在している。その呼称で人も見たりしている自分もいる。いっそすべての記述は名前のみにしてしまったらどうだろう?最初は違和感があるかもしれないけれど、時とともにそれも薄れるはずだ。そうなったら人を見る時の目にも自ずと変化が現れてくることだろう。

 すべてを七面鳥を見る目で見ることが出来たら、と思う。
 名前、呼称とは文字通り、あって便利なその物を指す言葉だけれど、その言葉が変わるだけで受けるイメージがグッと変わってしまう時がある。呼称におどらされる時、目隠しをされる時。そんなことがよくある。どんな場合でも七面鳥は七面鳥であるとわかっているはずなのに。

 この国で生きるにはbeefである方が生きやすいのかもしれない。それでも僕は一匹の牛でありたいと思う。そして、もし罪を犯すことがあっても、死んでしまっても境セイキと呼ばれたい。

 子供の頃絵を描くのが好きだった。と言うよりも、パレットの上で色んな絵の具を混ぜ合わせて自分だけの色を作ることが好きだった。たった一つの色を。
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by seikiny1 | 2005-11-20 06:25 | 思うこと
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