人間が作り出すもののなんと頼りのないことか。
数日前の夜中、懐かしい音で目がさめた。大家さんが春先に修繕してくれたはずの雨漏りが再発していた。長かった今年の夏。その後に訪れた約十日間の長雨。人間のもがきは自然に翻弄されてまた天井が涙をこぼし始めていた。
人間の力は自然には遠く及ぶ事はない。お釈迦様の掌の上をキントン雲に乗って飛び回る孫悟空の姿を思い浮かべる。コンクリートはいとも簡単に割れてしまう。
一方ヨーロッパでは、古い寺院が大気汚染による石の風化(劣化)が深刻な問題となっているという。人間の力による副産物が地球上のあちこちで自然を危機にさらしている。
少なくなったとはいえ、ニューヨークではまだまだ石畳を見つけることができる。
雨に濡れた石畳。夜の淡い光に照らし出された艶やかな石畳。それは文字通り艶があり、神秘的な光を放つ。その上に立ってじっと見下ろしてみると、石と石の間の小さな溝をタバコのフィルターが、色の変わった小さな木の葉が流れている。アスファルトで舗装された道路に溝はないけれど、石畳にはある。似ているようでまったく異なる表情を持つ石の間を埋めるように。みんなをまとめてひとつのものとさせて機能させるように。
石畳と地下鉄の内部はなんだか似ている。溝は必要であり、じゃまなものでもある。
取り壊された古いビルを懐かしく思う僕もただの石。
そこに建ったガラス張りのビルを見上げて「すばらしい」、と感嘆する人もまたただの石。
てんでバラバラの石。お互いがどこにいるのか、その存在すら気付かない事がほとんどだ。ある者の無価値が、別な者にはかけがえのないものであったりする。その逆もまたある。僕達はまるで石畳の石。周りに水を流すために溝を掘られた石。
アスファルトの道では、雨水はその表面を流れ去るだけ。
土の道では、雨水は地中にしみこみ、その粒子一粒、一粒をひとつにする。しかし、ぬかるみ地すべりを起こす事もある。日照りが続くを割れてしまう。
石畳の道では、雨水は溝を伝って流れ去る。その溝は、それぞれを隔離しているようで実は一緒にしてくれたりもする。それをどちらと取るかはその人次第。石畳は溝なくして成立する事はできない。溝があるからこそ石畳。
大雨が降り、その量に都市の排水機能が追いつかなくなった時に街は水であふれかえる。石畳の溝は何の役にもたちはしない。ただ、川となるだけ。溝ばかりではなく、人間が何かを守るために営々と築いてきた柵さえも何の役にも立たない。ただ一面に水が広がるばかり。そこにそれまで見えなかった深い溝があり、大きな壁が立ちはだかることもある。
車が駆け抜け、数え切れぬほどの靴で踏みつけられた石畳。
ローマで、石畳を修理している職人さんを見かけた。土中に埋める部分を三角形に削り出した石。しゃがみこんだ二人は気長に鎚で叩き込む。照りつける太陽の下、帽子もかぶらず手袋さえしていなかった。溝は埋まらず、新しい誰かが仲間に加わっていく。
さて、今度の屋根の修理はどんな具合になるんだろう?
人間は進歩するからこそ、その価値があるのかもしれない。でも、石畳の溝を埋めてしまうような進歩なら要らない。そこには溝が必要なのだから。自分を取り囲む、誰かと触れ合うことの出来る溝。たとえそれが自然の前でははかないものであっても大切にしていきたい。
今日は久しぶりにおひさまが顔をのぞかせてくれた。