ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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五セントの恐怖
 僕は怖がりだ。怖いものをあげたらきりがない。
 しかし、考えてみるとそのほとんどは目に見えるもの、容易に想像しうるもの。そんなものが多い。やはりなんらかの方法で情報が入ってきて、自分の中で像をなさないと危機感というものは生まれないものらしい。

 スーパーの紙製の大きな茶袋。それは僕の中で<アメリカ>をイメージする大きな存在だった。他の様々なものと同様にアメリカの豊かさを象徴するものだった。そんなもの達に頭を埋め尽くされた頃にこの国にやってきた。そして、ちょうどその頃からスーパーの袋は紙袋からプラスチック・バッグ(ビニール袋)へと変身をし始めた。

 その像がどのように人々の目に映るか?
 個々の物というところを飛び越えて見てみると、多くの人々が描き出すアメリカのイメージというのはやはり豊かさなのだろう。それは大量消費、余裕(無駄遣い)という風にほとんどが等号でつなげられていく。これらが次の消費を生み、また発展(?)を繰り返す。それは今のところ環のように、終わりがないように見える。
 消費とは貧しい者にとっては常にまぶしい存在であり、これからもそれが変わる事はないだろう。それは豊かさを裏付けるもののように見えるから。
 蛇口をひねればお湯がふんだんに出てくる。どんなに食べこぼしても紙ナプキンでサッとふく事ができる。残ったナプキンはゴミ箱へすてればいい。トイレットペーパーは無尽蔵であるかの錯覚を起こさせる。買い物には手ぶらで行く事ができる。とりあえずゴミだけは分別しておこう。そして今は石油が高く、まだまだ上がりそうだ……。
 この国は本当にまぶしい国である。
 豊かさと共にある無駄がこの国を保っているとも言えるだろう。「次はどこに無駄を見つけるか?」、そんな事がこの国を発展させてきた。人々が無駄、という行為をやめた時にこの国の減速ははじまる。
 最近では<環境>を叫ぶ人も多い。たとえそれがフアッションであれ、何もしないよりはましだろう。それが豊かさの対極にあることは誰もがこころのどこかでわかっている。怯えている。この国の消費が減る事はないだろう。それは怖いこと。
 消費の環の終焉は、この国の終焉とも言える。
 無駄遣いは美徳であり、いかに無駄を出すかによってその人の器量がはかられる事すらある。その一方で<エコ>という言葉がよく使われるが、ドアの向こう側ではそんな事はあまり行われていない。

 相も変わらず、毎夕ビールを買いに出かけるのだけれど、最近少しだけ変わった事がある。ビニール袋を持って出かけるようになった。それはやはりヨーロッパ旅行の影響だろう。最初はスーパーで五セント取られるのがいやでやっていた事だけれど、アメリカに帰ってきてからもそれを続けている。五セントの理由。それは単に金銭的なものかもしれない。しかし、その向こうに見え隠れしている破滅から目をそらす事ができない。それは怖ろしい事。
 こんな自分にもそういうことを認識させてくれた五セントの力は大きい。哀しいかな人間は、ルールがなければ統制することができないのかもしれない。しかし、五セントをケチることによって見えてくる未来だってある。そしてこの五セントがアメリカにやってきた時、いくつかの産業はきっと崩壊するだろう。それはただの序章に過ぎないかもしれない。それはまた別の意味で怖ろしい事。
 このふたつの恐怖の狭間で結論が出る日は来るのだろうか?

 ニューヨークでは街中で肩が触れ合うだけで必ずと言っていいほど”Excuse me.”と互いに発する。目が合えば微笑み、また微笑を返す。この国の歴史が移民によって成り立ってきた事を思えば、その起こりは自衛手段だったのかもしれない。それは不文律として今も生きている。
 五セント。それはあまりにも大きな事かもしれない。しかしルールがなければ見えてこない恐怖だってある。
 ワガママと自由はまったくの別物。

 一ヶ月間ビールを買えばビニール袋が三十枚はたまる。それをゴミ袋にしてもまだまだお釣りがくる。買い物は他でもするわけで、ビニール袋はどの瞬間からかただのゴミと化してしまう。
 ビールを買わなければすむ話なのだけれど……。
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by seikiny1 | 2005-08-18 06:00 | 思うこと
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