ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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De Do Do Do, De Da Da Da
 常識は要らない。それは多くの場合何かを縛りつけるためだけにある。
 良識を持って生きていきたいと思う。
 人と人、というのは最初は他人同士。まったく未知の間柄。何かの縁でその人達が出会う。そこには何らかの共通点がある。それがなければただすれ違っているだけ。出会うということは、たとえそれが小さなことであろうとも必ず共通点がある。そしてそれを媒体にして親交が生まれる。それは仕事であったり、学校であったり、趣味であったり、ものの考え方であったり、同じ画家を好きであったり、ただ電車内での座席が隣り合わせだったといったこともある。そこには必ず何かがある。
 近道はあるはずだ。それはこれに限ったことではなく何事にも。「×&#△*○■@%¥◇+?дЩ……」。とにかく自己主張を並べ立て相手に大きな印象を与える。それは負のものでも正のものでもよいだろう。概して強烈なインパクトを与えることが出来る人にはそういった手法を使う人が多いようだ。一昔前では珍しかったけれど、今ではそうでもない。日本人でさえこの手合いの割合がグンと伸びているようだ。「まずは見出し。そこでつかんで記事を読ませる」。とても古典的な手法ではあるけれどなぜか人はその道を歩きたがる。「私にはこれが出来ます」、「そいつはおかしいぜ」、と叫ぶ。
 言葉というのはたしかに自己を表現するにはもってこいの道具。ただ、むなしく、寂しく感じることのほうがなぜか多い。
 言葉はコミュニケーションの道具。何かを伝えるためにある。最初は真実だけを伝えるためにあったのかも知れない。少なくとも乳幼児の頃は今でもそうだろう。そこに知恵がつくと少しだけ道がそれることもあり、大きく曲がってしまうことだってありうる。<これを伝えたい>という意思がそこに入ってしまう。当人の意識には関係なく、たとえ曲がったものであったとしてもその意思はとりあえず伝わる。言葉で。しかし本当にそれだけでいいのだろうか?そこに意思がある限り真実は絶対に伝わらないと思う。誰が見ても、聞いても真実というものはありえないのだから。人間である以上、そこに欲があり、意思があり完璧に客観的になることは出来ない。

 本当に伝えることができるコミュニケーションの道具。それは自己の行動のほうがまだまだ言葉に勝ると思う。言葉がまったく通じなくても、時間をかけ自己に忠実に動くことが出来ればその人の人となりは絶対に伝わる。それがいい面であれ、悪い面であれ。これは近道ではない。はるかなる回り道なのかもしれない。しかしそこで己の良識に基づいた行動は伝わる人には絶対に伝わる。そして深く印象に残り消えることがない。近道をしていたのではもらえないゴホウビ。
 人は真実を伝えたくないからこそしゃべるのだろうか?

 本当に相手に何かを伝えたい時。能弁である必要はない。自分に忠実に歩くだけ。
 言葉だけで成り立った関係というのはとても不安定なもの。小さな石がひとつはずれただけでそのビルは崩壊してしまうこともある。

 ただ信じ、歩き続ける。つらくとも。その日は必ずやってくる。
 巧言令色、鮮矣仁。
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by seikiny1 | 2005-04-10 13:47 | 思うこと
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