ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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濃い味
 僕は<ごはん喰い>だ。
 以前ほどではないけれど、普通のお茶碗で三杯くらいならばペロリと食べてしまう。おかず少しとごはんを交互に食べる。おかずの量はそんなにいらないけれど、味付けは濃いほうが好きだ。
 味濃い、というのは多分育った環境のせいだろう。実家の味付けは濃く、父はそれに醤油やソースをドボドボ、七味唐辛子や胡椒をバンバンふりかけて食べていた。心のどこかで「大人はああして食べるんだ」、と感じ、あこがれてて育ったのかもしれない。
 舌と視覚で味濃いくなった。育つ環境が子供に与えるものははかり知れないほどに大きい。
 自分で料理をする時は、ほとんど目分量でやるのだけれど「あ、もうちょっと入れたいなぁ」、という一歩手前で調味料を入れる手をグッとこらえることにより丁度いいくらいのさじ加減になることを経験から学んだ。

 僕は共産主義者や社会主義者ではない。身と心の自由が大好きで、尊いものだと思うから日本や、アメリカの社会制度にそれなりには満足している。かと言って「資本主義万歳!」でもない。

 果たしてその根っこが濃い味にあるのかどうかは不明ではあるのだけれど、どうしてもそうなってしまうことがある。
 たとえば、以前お寿司屋さんでアルバイトをしていたのだけれど、僕の切る刺身はどうしても厚くなってしまう。お店の決まりで<刺身は0.03パウンド>となっていたのだけれど、どうしても0.04パウンドになってしまう。その姿形が、僕の思う「これくらいかな?」になっていた。対して「ちょっと小さいなコレ……」、と思う薄めの奴が規定のサイズ。だから刺身を切るときはいつも自分自身との格闘だった。暇な時はそれでもしのげるが、忙しい時にはやはり本能で動いてしまう。そういった時のお客さんたちは喜んでくれたことと思う。オーナーにとっては迷惑な話ではあるけれど。
 しかし、僕がオーナーになってしまったらどうなるのだろう?
 果たして、「これくらいかな?」の量は不変なのだろうか?自信がない。0.025パウンドになっているかもしれない。それほどにお金にまつわること、ビジネスということは恐ろしいものだと思う。かなうならば、これからの生涯であまり触れたくない場所。僕はそれほどまでにふてぶてしく生きていくことはできない。そうでなくても、毎日が疲れの連続になってしまうことは間違いない。計算しつくされた世界では生きていたくない。たったの0.01パウンドで喜んでくれる顔を見続けていたい。

 こういうことを書くのは少し恥ずかしいのだけれど、それがお金にまつわることでも<ビジネス>でなけれな「お前はバカか?」、とよく言われてきた。あまり知らない人からは気味悪がられたこともあった。それほどに僕は人によくしてしまう(<よくする>という言葉は好きではないけれど、ほかに言葉を見つけることが出来ない)。それが自分の性分だと諦めている。別に何かの見返りを期待するわけではなく、そんなことは頭のはしっこもかすりはしない。ただ、思い返すとそういう事がよくあっただけのこと。「自分はそこに何を見ているのだろう?」。何もない。強いて言うなら、人の笑顔と言えないこともない。単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。有難迷惑なのかもしれない。ただ単に自分が厚い刺身が好きだからそうやっているだけなのかもしれない。
 そうは言っても、<最後のパンの一切れ>を人に分け与えるほどに人間も出来ていない。中途半端な自分。

 刺身を見つめながらこんなことを考えてしまった。
 資本主義社会の合理的で計算され尽くされた論理では通用しないだろう。ただ、厚い刺身を喜ぶ人がいる限り僕は濃い口であり続けると思う。厚い刺身を食べさせてくれる小さなお店が繁盛する世の中であって欲しいと思う。何から何まで、必然的に出る無駄さえも計算されてしまう世の中では寂しすぎる。そこに春が来ても少しだけ寒い。
 財は残さなければならないのだろうか?
 それで何をするのだろうか?

 自分の金で買った刺身をいつまでも厚く引ける自分でありたい。
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by seikiny1 | 2005-03-20 13:20 | 思うこと
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